第十一話 崩壊の鏑矢 (11)
第十一話 崩壊の鏑矢 (11)
「ジョン、ジョン…!」
瞬く間に温度が、命が失われていくジョンの躯にすがり、エドガーは絶叫した。
こんな、こんなところで。仲間も、自分しかそばにいない状況で。死んでいくというのか。
「誰か…」
助けてくれ。誰か、誰か誰か誰か――!
「どいて」
囁きのような音量の声が、エドガーの後ろから響いた。――リディ・レリア。肩にピュルマを乗せ、雪まみれで、顔を苦しみに歪めながら、地面になかば這いつくばりながら、彼女はもう一度言った。
「助けたいなら、早くどけ!」
いつもより数段低い、掠れた声での一喝に、本能的にエドガーが身を引く。
リディは動かない体をずるずると引きずり、空いた空間を通ってジョンの傍らにうずくまる。
下腹に口を開けた、大きな傷口。溢れた血ですら、その凄惨さを隠せていない。
急所でないとはいえ、明らかに致命傷――。
が、ぎっとリディは歯を食い縛ると、耳から引きちぎるようにして銀玉の耳飾りをむしりとり、乱れた魔力を強引に整えて、傷口に手を翳した。
ジョンは、血の気の失せた顔で、でもどこか安らかに、まるで眠るように目を閉じている。命が駆け出していっているのがわかる。
それでも。
「死なせるか、馬鹿…!」
死なせてたまるか。ここに付き合わせたのは、私達だ。
絶対に、死なせてたまるか――!
眩しい程の金色の光が、リディの手から放たれた。
「あれ」
ハワードはひょいとツェツィリアの肩越しにその光景を見やり、首を傾げた。
「動けたんですか、リディさん。うーん、魔力が少なかったんですかね、あれで。いよいよ化物じみてきましたね」
「どういう意味よ」
ツェツィリアが荒い息を隠して訊ねた。ハワードは肩を竦める。
「リディさんに、体の自由を奪うように魔力を込めた首飾りを渡しておいたんですよ。竜の中位くらいまでなら抑えられる魔力を込めたはずなんですが…」
「…あれも、演技だったってわけ」
思い出されるのは、つい五日ほど前の出来事だ。連れだって帰ってくるルイスとリディを、複雑そうに、狂おしそうに見つめていた彼は。あれすらも、周囲を騙す――。
「ええ。いいように勘違いしてくれましたね。御礼を言いましょうか?」
無邪気に笑うハワードに、ツェツィリアは未だ悪意を見いだせず、唇を噛み締める。変わらないのだ。造作と、発言の内容以外は何も。旅をしていた時と。口調も、笑みも、何も――!
「でも、手間が省けました」
鎌の刃が、ツェツィリアの剣と打ち合う。甲高い金属音が谺し、雪が蹴り上げられて宙を舞う。
大きく振られた鎌を避け、横に回り込んだツェツィリアは逆手に構えた剣を振り抜くべく上体を縮め――次の瞬間、大きく弾き飛ばされた。何が起きたのかわからない内にかなりの距離を吹っ飛び、一本の樹の幹に叩きつけられる。凄まじい衝撃と同時に、視界に星が散る。
「――まとめて始末出来ますからね」
「かはっ…」
(しまった…!)
魔術があるのを、完全に失念していた。ずっと鎌でしか攻撃してこなかったのは――これを狙っていたのか。
どさ、と雪の上に倒れ伏したツェツィリアの眼が、横たわるジョン達に向けて疾駆するハワードの姿を捉える。起き上がろうにも、肋骨が数本以上折れたらしい、激痛に上体すら起こせなかった。
「くそぉっ…!」
指だけが無力感にもがく、その先で。
微かに濃紺のローブと、栗色の髪が、翻った。
ハワードはツェツィリアを魔力で吹き飛ばすと、ジョン・イーデルら目掛けて疾駆した。
視線の先で、エドガー・ムーアが矢を放ったのが見えた。魔力を纏ったそれを、しかし安々とかわし、彼はお返しとばかりに腕を横に薙いだ。
放射状に放たれた闇魔力が、エドガーの弓を叩き折り、そのままエドガーごと吹き飛ばす。視界に残っているのは、瀕死の男と、束縛の術に絡めとられて思うように動けない少女のみ。
ハワードの口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。
「残念でしたね、竜の女王」
ここで終りだ、なにもかも。我々の勝ちだ――!
その、刹那。
ハワードと二人を阻むがごとく、――いや実際に阻んで。
栗色の長い髪を靡かせた、華奢な少女が彼らの前に立ち塞がった。
――リリア。
「もうやめて、ハワード!」
リリアが両手を広げ、顔をくしゃくしゃに歪めて、リディ・レリア達を背にして叫んだ。
けれどそれを目にしたからといって、ハワードの足を止める要因にはなり得ない。
(馬鹿な娘だ)
馬鹿で、幼くて、愚かな娘。
魔力の少ない癖に魔術士になり、怖がりな癖に狩人だと言って、自分達に仲間に入れてくれと言ってきた。いいカモフラージュになると思って、今まで一緒に旅してきた。
でも。
(それも、終りだ)
大鎌を振りかぶる。ぎゅっと噛み締められた唇と、大粒の涙が目に入る。
意に介せず振り下ろした筈の刃は、
しかしほんの一刹那、躊躇うかのように微かにぶれた。
本来なら全く結果に影響をもたらさなかったであろうはずのその一瞬はしかし、この時に限り――全てを分けた。
ドッ、という鈍い音が、虚ろに響いた。
「…あれ?」
大鎌を振り下ろす姿勢のまま、刃をリリアの首の皮一枚手前で留めたまま、ハワードはそんな間抜けとすらいえる声を上げた。
体を見下ろす。
――胸から腹にかけてを、鈍い鉛色の刃が貫いていた。
くるりと首を己の背後に巡らせる。…予想した通りの顔が、そこにあった。
「…お見事、エイト」
泣きそうに強張っていた顔が、決壊する。ずるりと手で押して体に刺さる剣を抜きつつ、ハワードは崩れ落ちた。
「ハワードッ…!」
仰向けに雪原に転がったハワードの視界に、両脇に膝をついたエイトとリリアが映る。二人とも、全く同じ表情で彼を見つめていた。
(人間とは、やはり変な生き物ですね…)
なぜ、手酷く裏切ったのに。容赦なく殺そうとしたのに、そのような顔で己を見下ろすのだろうか。
なぜ、魔族を討ったというのに、後悔と悲しみしか感じている様子がないのだろうか。
なぜ、――そのように泣くのだろうか。
「誇り、なよ…エイト。君は、これで数少ない、魔族、殺しだ…」
「ふざけんなっ…!」
怒声を発して、エイトが顔を伏せる。涙が次から次へと流れ落ちて、ハワードの顔で跳ねる。その反対側では、リリアがしゃくり上げながら彼の名を呼んでいる。
ふ、とハワードは苦笑した。
不思議と悔しさは感じない。
『原初の運命』を、運命が始まる前に始末しようともくろみ、失敗しても。誇りある魔族が、人間ごときに敗れようとも。
目に映るのはただただ虚無感。人間の言葉で言う負の感情は、彼の中には残されていなかった。
(たぶん、リリアとエイトのせい、だな)
蘇るのは、ここ数ヶ月の記憶。
人間と共に、人間に混じって、人間のように過ごした。
その強大な力を持つゆえに退屈を常とする魔族にしてみれば、ばかばかしいほどに彼らは笑い、泣き、怒り、喜ぶ。それらは彼と共に過ごした二人の人間も変わりなく、ころころ変わる機嫌や表情に、彼、そしてカミラやユーリスはたびたび辟易しながらも、邪険に思うことは結局なかった。
ここ数百年の倦怠とは打って変わって、毎日何かしら新鮮なものを感じた。
それらはこまごまとしていて、大きな刺激のあるものではなかったけれど。
「悪くは、なかったよ…」
最後の言葉と共に。
ハワードであった魔族は、塵になって崩れ去って。
「……ッ!!」
後に空しく転がった黒紫の核を抱きしめて、リリアとエイトは声なき悲鳴をあげてうずくまった。
「「あ」」
二つの声が重なった。
たん、と狩人達から距離を取って並んだユーリスとカミラは、一点を見つめて呟きを風に乗せる。
「ハワードさん、亡くなりましたのね」
寂しそうにそう呟くカミラに、ユーリスは失笑する。魔物に死を惜しむ概念などないのに。――いつから、そんな人間臭くなったのか。カミラも、ハワードも…自分も。
「潮時、かな…?カミラ」
「そうですわね、ユーリス」
「なにをこそこそ喋ってやがる!」
放たれた二本の矢。それを魔力でたたき落して、カミラは苦笑した。
結局ハワードは殺せなかったのか、彼らを。
彼女達魔物の頂点に立つ魔族が、人間の、しかも年端もいかない子供に斃されるなぞ、本来あってはならないことだ。けれど、彼女とユーリスには理解できた。ハワードの心の中の微かな揺れが、今の彼女達には理解出来てしまっていた。
踏み込んできたマルセロの掌底を、ステップを踏んで避ける。その先を狙って打ちこまれた矢は、ユーリスが凍りつかせて落とした。
(リリアさん、エイト)
ここに集った狩人の中では、誰よりも弱い二人。狩人全体の中でも特に強い訳ではない。それでも彼らは自分達に乗せられたとはいえ、この死と恐怖が覆う国に踏み込んだ。
その終わりに待つものが、二人の死か、自分達の死しかないとわかっていたけれど、カミラもユーリスも、ハワードもこの地へ来た。
でも。今になって、来なければよかったと思ってしまう。そうでなければ、今も穏やかに、旅が出来ていたかもしれないと。
矢が体を掠める。相次いで襲ったマルセロの蹴りは、ギリギリのところで避けた。
無論そんなことはあり得ない。自分達が魔物である以上、いつか破綻は訪れる。魔物と人間は相いれない。まして、狩る者と狩られる者など。
その点でいえば、これは予定調和だ。
「貰ったッ!」
そのときマルセロが素早い動きで回り込み、カミラの胸めがけて聖魔力を纏わせた掌底を突きだした。が――その体が滑る。雪ではない。戦いで散った血に、滑ったのだ。
「しまっ…」
マルセロが驚愕にほぞを噛む。死んだ、と思った。この隙を突かれない訳がない、と。
しかし。
「……」
カミラは無言で身を引き、間合いを詰めなかった。それに驚く間もなく。
ドス、という呆気ない音を伴って、矢が、カミラをかばったユーリスの胸に、突き立った。
「……え」
まさか当たるとは思っていなかったらしい、呆けたようなテディーの声を尻目に、ユーリスは雪原に膝をつく。カミラは細く息を吐いて、ユーリスの傍にかがみこむ。その眼に、もはや戦意はなかった。
無言で視線を交わした後、ため息をついたユーリスは揃えた右手で、マルセロ達が止める間もなく。
カミラの右胸を貫いた。
自殺、としか取れない行為に、走り寄ったテディーとマルセロは立ち竦んだ。
「あんた達…」
「賭けて、たんだよ」
無意識に胸を、矢の刺さる箇所をまさぐりながら、ユーリスは小さく言った。自らの喘鳴に失笑する。つい数か月前まではこんな死に方を、する気はなかった。
「ハワードが、リリアかエイトを殺せなかったら。逆に、あいつらに殺されたら。賭けは、僕らの負けだ。潔く退場するさ」
「なんで、そんなこと――」
「移って、しまったのですわ。情が」
カミラが苦笑して、ユーリスの手を握った。時間はもうない。
「バカらしい、とは今も思ってますわよ。でも、わたくし達にはもう、エイトさんもリリアさんも殺せないんです。…おかしいですわね、魔物が人間に対して情愛を持つはずなど、なかったのに」
見下ろすマルセロもテディーにも、声がない。
「頼みがある」
ユーリスは人間達を見上げて囁いた。
「僕達の核は、あいつらに渡さず売り飛ばして。…あいつらに、背負わせたくないから」
「見る度に泣かれるのでは、溜まったものではありませんから」
さきをわかったかのように苦笑する二人に、マルセロがなんとか声を絞り出そうとした、が。
「じゃあな」
「さようなら」
ぱしゃんと。二人の姿は塵となり、空に溶けていき。あとには青と緑の玉が二つ、転がるのみだった。
魔力を一気に流し込み、エカテリーナの周囲に水の壁を現出させる。次いで、いくつもの真空状態になった風の刃が閃いた。
「…切り刻め、ウェーディ」
ルイスの呟きと共に、目に見えない軌跡を描いて弧状の風が、水の壁に押し寄せる。水の壁に次々と一瞬の穴が空いては閉じ、数秒後一斉に弾けた。
水を弾いて現れたエカテリーナは、体のあちこちに傷を作り、ぎろりとルイスを睨んだ。
「…やってくれるわね、人間が」
ルイスは唇をひきつらせる。
(これでも、駄目か…つか、脚痛え…)
彼の脚からは、夥しい血が流れていた。闇魔術を避けきれず食らったのだ。
(余裕なくて痛覚も軽減しかできないし…いい加減、キツイ)
「ルイス、前ッ!」
後方からのヨセフの警告に、ギリギリでハッと意識を戻したルイスは、間一髪で闇魔術を逸らした。
痛みは集中を妨げる。魔術も判断も、戦闘開始時から比べてかなり鈍いのを自覚している。
(魔力に余裕がある、っていってもいい加減限界だっつの)
自らへの気付けも兼ねて剣を左右に切り払い、彼から見て左にいるヨセフに声をかける。
「ヨセフ、体力は」
「…お前の耳飾りのおかげでなんとかまだ。つか、聞いていい、これなに?核だよな?」
「黙秘権行使」
「だぁ、なんなんだよさっきのピュルマといいもう!」
「お喋りしている余裕があるのかしら?」
わめきたてるヨセフへ、闇魔力の刃が幾本も牙を剥く。彼は悲鳴を上げて避け、二本をルイスが叩き折った。
「地上はそろそろ、ハワードが片付けるころ…!?」
愉悦を交えてくすくす嗤っていたエカテリーナが突如、愕然とした面持ちで振り返った。
「ハワード…?死んだ?まさか…」
有り得ない、と彼女が呟いた直後。地上から吹き上がった火柱が、エカテリーナを呑み込んだ。
「熱っ!?」
空気がちりちりと焼ける。ヨセフは慌てて水の結界を張り、ルイスは安堵に息を吐いた。
「遅いぜ、リディ」
「仕方ないだろ、動けなかったんだから」
ふわりと、ネーヴェを肩に乗せたリディが、ルイスの隣に浮かんだ。その見るからにキレている表情と、未だ収まらぬ火柱に、やれやれと肩を竦めながらルイスは訊いた。同時に、負った怪我の治癒に魔力を回す。
「状況は」
「クラウディオ、ジョンが重傷。ルネ、ツェツィリア、エドガーは意識ないだけ。マルセロとマシューが治療に回ってて、テディーは魔物の残党狩ってる」
「…『シルバーダガー』は?」
「ハワードはエイトが殺した。他二人は、テディーが倒したみたい。エイトとリリアは戦えないよ、今は」
「…そうか」
ルイスは数秒瞑目して、次いでひび割れた剣を投げ捨てる。心得たもので、リディは直ぐ様自分の剣を手渡した。
「あとは、あいつを倒すだけだ」
考えるのも、悼むのも、あとでいい。
ルイスはただ静かな光を蒼の眼に宿して、ようやく消えつつある火柱を見据えた。
「よ…くも…」
火柱が消えた後には、あちこちに火傷を負い、美しかった金髪を炭化させかけているエカテリーナが立っていた。ぼろぼろで、かつ醜悪な表情を浮かべているエカテリーナに、かつて感じた美貌はない。
「ヨセフ、テディーの援護に行って。私とルイスで片をつける」
「…わかった。ルイス!」
放物線を描いて、ヨセフがルイスに投げ渡したのは青玉の耳飾りだ。
「それありがとな。…助かった」
それだけ言い置いて、彼は地上に降下していった。
ルイスは剣を青眼に構え、疲労を切り捨てた冷厳な声音で告げた。
「終わりだ、エカテリーナ。あんたの敗けだ。散々人間をコケにしてくれた礼は、させてもらうぜ」
「人間ごときがっ…!」
「最後に聞いておきたいんだけど」
リディが無造作に、迫っていた魔物の一体を焼き払いながら言った。
「『原初の運命』って、何?」
エカテリーナは、目の前の若者達を見つめた。
ふ、と息が漏れる。
「ふ…あはははははは!」
湧き上がった哄笑に、ルイスとリディは眉をひそめる。狂ったように笑い続けたエカテリーナは、どす黒い魔力を身体中から滲ませ、甲高く叫んだ。
「貴方達は私達の敵よ!なにかを話すとでも!?だいたい、まだ終わってない!貴方達ごとき、一瞬で…」
「いや」
ルイスがぽつりと呟いた。
「終わりだよ」
――鈍い音を伴って、エカテリーナの胸部に槍が生えた。
「……え」
エカテリーナはぎこちなく背後を、眼下を振り返る。――ハワードに左腕を切り落とされた屈強そうな男が、こちらを見据えていた。
槍を投擲されたのだ、と気づいたエカテリーナの体が、崩れる。
「セティスゲルダさ、ま…」
最期に儚く風に溶けいるような声音でそんな言葉を発して。
黒い玉石を残し、エカテリーナは塵となって消えた。
次話は近日中に更新します。
次が十一話のラストです。後日談もありますが。