第十一話 崩壊の鏑矢 (10)
第十一話 崩壊の鏑矢 (10)
ぱっ、と白の世界に赤が散った。
「痛っ……!」
咄嗟に飛び退いたジョンは、切り裂かれた肩口を押さえ、痛みに顔を歪めながら片手で剣を構えた。
「ジョン!」
悲鳴を上げて駆け寄るマシューを目で制し、ジョンは低く問いただした。
「これはどういうことだ?――ユーリス」
「どうもこうも、こういうこと」
右手を染める血を舐めながらユーリスは嗤う。嗤ったその貌は、血とあいまって覆しようもなく異形じみている。
別の場所から同様に血を落としながら、エドガーが飛び出してくる。その後ろから、カミラも姿を現した。返り血を散らしながらにこやかに笑むその姿は、どうしたっておぞましさを喚起させる。
「残念ですけれど、わたくし達、人間ではありませんの。あなた方の分類でいえば、上位魔物――というところになりますわね。ただし」
「――ディオ!!」
甲高い女の悲鳴が場を打った。
「そんなっ、ディオっ…!」
「ツェツィー、ディオ!」
身を潜めていたマルセロが飛び出し、クラウディオ達が潜んでいた方向に走っていく。そのあとには、愕然と眼を見開いているエイトとリリアがいた。カミラが嗤う。
「――エイトさんとリリアさんは、違いますけれど」
「カミラ…?」
驚愕と恐怖。否定と疑い。それら様々な感情に顔を占められたリリアが、震える声を上げる。
「うそ、でしょ…?カミラ、ユーリス、」
「嘘じゃないよ、リリア」
いつの間に、背後に移動していたのか。手に提げた鉛色の剣に鮮血を纏いつかせて、ハワードが彼女を見下ろしていた。
壊れた人形のようにぎこちない動きで彼を見上げてくる少女に、ハワードはそれまでと変わらぬ――それでいて何かが決定的に違う優しい笑みを向けた。ゆらりと剣先が持ち上がる。
「ハワー…」
漏れた囁きを待たず降り下ろされる鈍い輝き。少女の頭をかちわろうとしたそれを、すんでのところで広い刃が防いだ。
「おや、エイト」
「…ハワードッ…!!」
ギリギリと迫る剣を押し返しながら、エイトは呻いた。茶色い瞳に縋るような色が込められる。
「嘘だろ…嘘だって、いってくれよ!」
「嘘じゃないって言ったはずだよ、エイト」
低い金属音と共に、合わさった剣が外れる。同時に、エイトの頭上高くを宙返りしてすとんと白の大地に降り立つ。――高度、身のこなしからですら、人間でないことをまざまざと突きつけられ、エイトは顔を歪めた。それからはっとする。
「ていうか、お前、その血っ…!」
「いや、さすが十強だよね」
肩を竦め、ハワードは視線を移す。思わずそれを追って、エイトは愕然と眼を見開いた。
「クラウ、ディオさんっ…!?」
筋肉質の治療術士に支えられて片膝をついている男。――あるべきところ、肘から先に、左腕がない。
あれでは、もう――…
「大したものですよ、クラウディオ・ガウス。魔族の僕の不意打ちを、しかもツェツィリア・クロノヴァの首を落とすべく狙った一撃を左腕一本で防ぎ、僕に掠り傷とはいえ傷を負わせるなんて」
よくよくみれば、ハワードの頬に一筋の赤い傷が走っている。
しかし、それよりも――。
「魔族、だと…」
潰れたような呻き声が、ジョンの喉から漏れる。
ユーリスが愉快そうに肯定した。
「ハワードが魔族だから、僕らも魔力を隠し通せたのさ。でももう、いいよね」
ぶわりと溢れた魔力。カミラとユーリスは姿形こそ変わらなかったものの、どうしたって拭えない禍々しさが身を包み、ハワードに至っては様変わりした。
全体の容貌こそ変化はないものの、眼からは白眼が消え、深い赤が面積を占める。顔立ちはベースを残しつつも空恐ろしいほどの美貌に作り変わり、肌は色が抜け落ちたように白くなった。そして血にまみれた剣をぽいと捨て、虚空に翳した手には、大鎌が生まれる。
彼の背丈ほどもあるそれを、ハワードは慣れた様子で繰り、悠然と狩人達に向けて構えた。エドガーが呻いた。
「魔族二体に上位魔物二体かよ…!冗談キツいぜ…」
「でも、やるしかないわ」
血と涙で顔を汚したツェツィリアは、しかし決然と立ち上がる。黒い眼には、紛れもない殺意が浮かんでいる。
「…そうさな」
ジョンも頷いた。
「それが俺らの仕事だ」
じり、と殺気で空気が焦げ付く一瞬。そして火蓋は、切って落とされた。
「――ッ!?」
「――なんだ、この気配!?」
空を疾るヨセフとルネは、目指す場所から伝播してきた波動に期せずして狼狽した。
「……?」
二人ほど鋭敏な魔力感知は出来ていないテディーですら、毛が逆立つような厭な気配に眉を寄せる。
「リディ、ルイス!なんか変だぞ!」
「わかって…るっ!」
ゴッ、と迫る闇の塊をルイスが結界でなんとか防ぎ、リディが蛇を模した火の魔術を放つ。それで飛びかかろうとしていた魔物を追い払うことに成功して、リディは後ろ飛びに速度をあげる。
「向こうがやなもんと遭遇したかな…!」
「やなもんてレベルじゃねーぞ、これ下手したら…!」
「哀れなものね」
不意に近くから響いた嘲り声。反射的にリディが向けた刃先に魔術が激突し、呆気なく砕け散る。
「げっ…」
「攻守交代だリディ!」
再度魔術が交差する。ひたすら疾るルネは、
(あとちょっと…!)
と速度を上げる。
待ち伏せ場所につきさえすれば、クラウディオ達がいる。あとはなんとかなる。
愉悦を交えた魔族の女の声が、彼女の背に追いついたのは、目的地の上空に一行が辿り着いた時だった。
「あなた達は信じるものを疑おうとしない。その愚かさで、希望は容易く絶望に代わるのよ」
一瞬、何もかもが停止した。
「……え?」
呆然と、ルネの喉から音が漏れた。
なにが、起こっているのか。
なぜ、『シルバーダガー』と、ジョン達が戦っているのか。
なぜ、クラウディオが参戦していないのか。
なぜ、クラウディオの周りに赤い血が落ちているのか。
「――ッ!」
「クラウディオッ!」
吊り糸が切れたようにルネが急降下し、テディーも絶叫してそれに引っ張られていく。
「どういうこと!?」
混乱を隠せないリディの問いには、おかしくてたまらないといった様子のエカテリーナが答えた。
「あなた達が仲間と信じていたハワードは、私の同族よ。カミラも、ユーリスも、吸血鬼の中でも上位に位置する魔物」
音のない衝撃が上空の三人を襲う。立ち直りは、ルイスが一番早かった。首を振って状況を整理し、強引に平静さを取り戻して指示を下した。
「――仕方ない。ヨセフ、お前は下の援護にいけ。こいつは俺とリディで殺る」
「あ、ああ…」
「いいのかしら?」
くすくすと嗤いながら、エカテリーナは眼下に向かって何らかの仕草をした。その途端。
「ぁぐっ…!!」
リディが悲鳴を上げたかと思うと、魔力の制御を失ったのか、真っ逆さまに地上に向かって落ちていった。
「リディ!?」
驚愕したルイスが追うよりも早く、彼の胸元から小さな白い獣――ネーヴェが飛び出す。
風圧を無視しているとしか思えない速度で落下するリディに並んだネーヴェに、空恐ろしい程の魔力が収束し、次いで弾けたそれは、リディが地面に激突する寸前に受け止め、ふわりと地面に下ろした。
「え゛?」
場違いな声を上げたのはヨセフである。それもそうだ、彼はネーヴェをただの小動物だと信じているのだから。
「忌々しい、蜥蜴の子が…」
「ヨセフ、話はあとにしてくれ。あと悪いけどこっち付き合え」
エカテリーナの不機嫌な声を遮りルイスは言い、耳のピアスに意識を移してリディに呼び掛けた。かくいうルイスもかなり驚いてはいたが、今はそれどころではない。
「リディ、大丈夫か」
返答まで数秒間があった。
『な、んとか…』
応じた声は相当苦しそうで、ルイスは眉を寄せる。
「なんでそうなったか、わかるか?」
『た、ぶん…出掛けにハワードに渡された、首飾りに…なにか、仕込んであったんだ、と思う…体が重くて、動かな…』
「っ、あれかっ…」
ルイスは臍を噛む。干渉はよくないと思ってなにも口を出さなかったのが仇になったか。
「おいルイス、」
「ネーヴェ、リディを頼む。リディのフレイアが一番強いだろう、借りて結界張れ。――守ってくれ」
『ぴゃ!』
任せてくれ、というような威勢のよい返事、同時に眼下で炎が吹き上がり、上空を滞空していた魔物を一体消し炭にした。
「…さて」
深呼吸して、ルイスは剣を青眼に構える。物凄くもの問いたげだったヨセフも、一呼吸で意識を切り替え、精神をなだらかに、魔力を縒り合わせていく。
視線の先で、エカテリーナは相変わらず嗤っていた。
「わざわざ待ってくれてどうも。その余裕が命取りだがな、エカテリーナ」
「ほざきなさい。貴方達が終わったら、あの忌々しい蜥蜴の子共々、後を追わせてやるわ」
「できねーよ。俺達がさせねえからな」
冷たい汗を感じながらもヨセフは唇を吊り上げる。…当初の予定ならば、三パーティ総出で、安全を最優先に戦うはずだった。だが、まさかの魔族相手にたった二人。規格外がいるとはいえ、無謀にもほどがある。
けれど。
(ま、いいか)
ここでたとえ死んでも。悔いはない。ここでこの女を食い止めることで、ジョン達が生き延びる可能性が少しでも上がるなら。
「行くぜ、ルイス」
ちらりと横目で振り返ったルイスは、ぼそりと呟いた。
「…俺は諦める奴は嫌いだぞ、ヨセフ」
ぱちくりとヨセフは目を瞬き、次いで思わず吹き出す。
こいつは何も変わらない。貴族であっても、なくても。彼という一個人であることには、何ら変わりがないのだ。
「お前に好かれたいと思った覚えはねーぜ。――まぁ、」
悪くはないけどな、という呟きは押し込めて、ヨセフは空中に無数の氷刃を生んだ。
湾曲した刃が頬を掠め、ついでに髪の数本を奪っていく。残像が見えるようなそれにわき上がる怖気を振り払い、ジョンは踏み込むと幅広の剣を振った。
そこらの魔物なら即座に一刀両断せしめるその刃は、しかしあっさりと空を切る。更に後方から放たれた幾本もの矢、そして魔術をも、対峙する少年――ハワードであった魔族は、残らずかわしてみせた。
「――チッ」
「やりますね。流石は『十強』というところでしょうか」
応えず、ジョンは辺りを探った。彼の半歩後ろにはツェツィリアが油断なく構え、少し離れた後方には、エドガーとルネがそれぞれ弓を構え、魔術に備えている。
マルセロとテディーは、ユーリス、カミラであった魔物と戦っている。マシューはまだクラウディオの治療をしているようだ。
(後の三人は)
意識は向けられないが、恐らく空を翔けてエカテリーナと戦っているのだろう。たまに撃ち落とされた魔物の咆哮が聞こえてくる。
「お前はこの筋書きを最初から立ててたのか、ハワード?」
「ええ。いい能書きでしょう?」
微笑むハワードに、やりきれないものを覚えながら舌打ちする。趣味の悪さは魔族の仕様なのか。
「ジョン!」
ゆらりとハワードが姿勢を変えたのを見たエドガーの警告を聞くとほぼ同時に、ジョン、そしてツェツィリアは飛び出した。中途放たれた魔力の塊はルネに相殺させつつ、ジョンは大きく踏み込んで、鋭く突きを放った。しかしガキン、と弾かれ、逆に態勢を崩した。
「げっ」
そこを容赦なく鎌の刃が薙ごうとするが、寸前、頭上を飛び越えていったツェツィリアが背後から切りかかったことで未遂に終わる。
そのままツェツィリアと数合切り結び、再びジョンと刃が交わる。
間断無い二人からの挟撃に、ハワードは打ち据えられこそしないものの、反撃出来ずに防戦一方を余儀なくされる。
「……く」
不機嫌そうに顔を歪め、ハワードは魔力を放出し無理矢理距離を取った。
「おかしいねえ」
追撃をすることはせず、ジョンは皮肉っぽく揶揄する。
「ルイス達の話じゃ、魔族ってのはもっと人間をクズみたいにいたぶれるんだと思ってたがな」
致命傷を負わないようにルネの結界を身にまとい、深追いしないことで隙のないコンビネーションを保ち続ける相手に、ハワードは鼻を鳴らした。さすがに手練、狩人として長いだけはある。
「あの二人が戦ったのはセティスゲルダ様でしょう。あの方は我らとは違う」
「ほお?」
「あの方は我らとすら一線を画しています。遥か太古、それこそ人間達の王共より前、今を生きる竜達の多くよりも昔から、あの方はこの地を生きている。私達魔族の中でも、いや、人ならざるもの達の中でも、あの方のように原初から見ている者はいません。…あの方と、竜の女王のみが、全ての始まりを、人の王族の血の因果を知っている」
「……はい?」
唐突な長口舌に目を点にしたジョンに、失礼、とハワードは笑った。
「あなた方に話しても仕方の無いことでしたね。要するに、同じ魔族とはいえ、僕とセティスゲルダ様とでは天と地ほどの差もあるということです。…まあだからといって、人間ごときにやられる道理は、ありませんがね」
後ろから、短い悲鳴が響いた。
「ルネ!?」
ツェツィリアがぎょっと声を上げ、思わずジョンも意識をずらしてしまう。それと、ルネの張った結界が消失するのは、同時だった。
はっとジョンが気付いた時には、間合いの内側にハワードの褐色の髪がひらめいていた。
「――さようなら」
雪原に赤が、散った。
「つ……せっ!」
飛来する闇の魔力の塊を、渾身の力で弾き返す。そのまま身を屈めれば、背に守っていたヨセフが氷の刃をエカテリーナ目掛けて打ち出した。
直進する刃は、しかしエカテリーナの再度の魔術によって砕かれる。が、ヨセフは魔力を操りながら叫んだ。
「まだだっ!」
砕かれた氷の砕片が、ゆらりと空を漂って散らばり、一瞬後エカテリーナに殺到する。
「小賢しいわね」
憎々しげに言った魔族は、手の一振りで黒い魔力を身に纏い、放たれた砕片を消失させる。が、それをすり抜けたいくつかの欠片が、細かい傷をその体につけた。エカテリーナの顔が歪む。
「…ただの人間ごときが!」
怒声と共にヨセフに殺到した闇魔術からは、ルイスがヨセフの襟首を掴んで空を翔ることで逃れた。
安全地帯まで逃れてから、ルイスはちらりとヨセフを見下ろす。
「腕上がったな」
「何様だ、お前」
吐き捨てるヨセフの顔は、かなり青白い。魔力の使いすぎだ。残っている魔力も、もう少ないに違いない。
(下がってろ、とは言えねえし)
この状況でそれは自殺行為だ、自分の。
しばし黙考したルイスは、溜め息をついて青玉の耳飾りを外し、ヨセフの手に落とした。
「…なんだ?」
「貸してやる。大事なもんだから、絶対返せよ」
「は?つかこれな、に…」
訊きかけたヨセフの声を尻目に、ルイスは空を蹴る。
ちらりと眼下を見れば、戦いを繰り広げているマルセロ達が視界に入る。
(…誰も、死ぬなよ)
唇を噛んで、彼は再び剣を振り翳した。
「ジョン――!!」
ぼたぼたと、赤黒い液体が白い大地を穢すがごとく、容赦なく流れ落ちる。
ジョンの、食い縛られた歯の間から、掠れ詰まった音が漏れる。
「こ、の…」
「おや…急所を外しましたか。さすがですね」
にこやかに笑ったハワードは、目の前の巨駆の下腹を貫いていた鎌を引き抜き、飛びずさり様大きく振る。エドガーが放った矢を叩き落とした軌跡が、雪原に歪な赤い模様を作り出した。
「ジョン!」
駆け寄ったエドガーに、ジョンは口元から血を流しながら呻くように訊いた。
「ル、ネ、は…」
「…無事だけど、気を失っちまってる。地中に魔物が潜んでたんだ」
「そう、か…」
無事ならば、いい。
ふうっと吐き出した息が、血を伴って空に散る。エドガーの悲鳴すら、どこか遠い。
(寒ぃ、なぁ…)
痛いという感覚は、摩りきれたがごとくあまり感じない。だが、腹だけが熱く、他は凍えるように寒かった。目の前が暗くなっていく。
(死ぬ、のか…俺)
歪んだ視界に、たったひとりハワードに対峙するツェツィリアが映る。もう魔力も少ないだろう。
「エド、ガー…、俺は…いい。ツェ、ツィリアの、とこ、に…」
「ジョン!死ぬな!やめてくれ…ッ!」
もういい年のエドガーが、あんな声で叫ぶのを聞いたのは、いつぶりだろうか。
霞がかる脳裏に、そんな思考がふと浮かび、ジョンは苦笑した。全ての感覚が、光が遠ざかる。
それと反対に、今までの人生が、出会った人間の顔が、次々と浮かび上がっては消えていく。『十強』の面々、特に印象深い黒髪の青年と赤い髪の少女の飄々とした顔がはじけて消える。最後に、半生を共に生きた仲間達が浮かんだ。
手を伸ばし――ふ、と笑む。
(お前らは、生きろよ…)
とぷりと沈んでいく闇の中で、消えたはずの温かい光が、見えたような気がした。
少し蛇足な説明をば。
当初の下書きでは、シルバーダガーには殆ど焦点を当てていませんでした。当てていないのにこの展開を持ってきていたので、推敲段階でこの流れは面白くない、と思い、物語の端々にエピソードを加えました。それでもびっくり感を出せたかって言うと、ちょっと強調しすぎてさっさと見抜かれていた感が否めませんが…。力不足を痛く感じます。
エカテリーナがイグナディアに入り込んだのより少し前、ハワード達は狩人登録をしました。その頃から目論んでいた、という設定です。閉ざされた国でもなければ、例の人に邪魔されるので。
エイトとリリアは人間です。
気づけばこの話も十話目。どんどん一話あたりの話数が長くなっていくのに冷や汗を感じています。