第九話 砂漠の鳥籠 (6)
第九話 砂漠の鳥籠 (6)
(…火…水…風…また水…これで消失作用…土…風…ええとこれは座標?…で汲み出し…あああややこしい!)
周りの全てを意識から遠ざけ、アリーシャの体に仕込まれた魔術環を探り当て、丁寧に解きながらリディは冷や汗を掻いていた。
さすが、高名な魔術環の作ったものというところか。ラグが張ったオルディアン王宮結界並みにややこしい。あれの解き方は慣れているが、こっちは未知数という点では余程難しいかもしれない。
「リディ、まだかっ!?」
ルイスの呻きまじりの声だけが意識に割り込み、反射で「まだ!」と怒鳴り返す。ヘイゼルの攻勢が増したのか。しかし、それに気をとられては本末転倒なため、リディはいっそう構成に集中する。
(…ってか、ラグにしてもあのひとにしても、こんなもん組む頭ってどうなってんだろ…だっ、これ火じゃないし!…うわ聖が中枢か…ややこしいっ)
だがややこしくてもなんでも解かなければならないのだ。集中力と頭をフル回転させてリディはアリーシャの体に魔力というメスをいれ続ける。
暗闇の中で縫い物をするようなそれを、リディは慎重に進め――ついに、最後までたどり着いた。
(よし!ここを壊せば…)
ほどくべく手をかけて、しかしリディははっと手を止めた。
「死ね!」
「まずいっリディ!」
最後の一本を切ろうとする彼女に、ヘイゼルが放った氷の矢が迫っていた。
(ヤバっ…!)
この勢い、鋭さでは結界を突き抜ける、それがわかった。だがリディは動けない。動いたら全てが無駄になる。覚悟を決め、リディは術の破壊に集中した。
氷の矢が結界を貫き、リディに迫る。が――それがリディを貫くことはなかった。
ドッ、という嫌な音。同時に呻き声が漏れる。
「うっ…」
リディははっと降り仰いだ。彼女達の前に、ルシアンが立ちはだかっていた。その脇腹に氷の矢は突き刺さり、ぼたぼたと紅い血が床に落ちている。結界が儚い音を立てて壊れた。
「ルシアンさま…っ!」
アリーシャが悲鳴を上げる。
「馬鹿、ルシアン!」
「なにをしてるんですの、馬鹿!」
ヘイゼルの追撃を防ぎながらのルイスの怒鳴り声、ローズマリアの悲鳴が飛ぶ。リディも危うく切れそうになった集中をギリギリで繋ぎ止めながら、「何してんの!?」ど怒鳴った。
「あなたたちに…怪我をさせるわけには、いきません、から」
口の端から血を落とし、ルシアンは無理に笑顔を作る。それから床に膝をついた。リディが舌打ちする前に、彼女の懐からネーヴェが飛び出した。
「ネーヴェ…!?」
ネーヴェは一度リディを振り返り、心配するなとでも言うように耳をはたはたと上下させると、ととっとルシアンに近寄る。そして彼が握り締めていたルイスの耳飾りに顔を近づけ、じっと瞳を閉じた。
「!?」
ぽう、と金色の光が生まれ、ルシアンの腹部を包む。誰もが驚愕してネーヴェを見た。
「治療魔術…!?」
信じられない、とアリーシャが首を振り、ヘイゼルですら呆気に取られる。ひとり冷静にそれを見咎めたルイスは、渾身の力で暴風を起こした。
「ぐっ…!」
不意を打たれた形のヘイゼルを壁まで吹っ飛ばす。それを追って、リディに叫んだ。
「リディ、今だっ!」
「!!」
呆けていた頭が我に返り、リディは最後の要に手を伸ばす。
(これで、)
終わりだ――!
構成を探り、感じ――そしてそれを、叩き壊した。
リディがアリーシャの魔術環を破壊した瞬間。
ぱあん、と硝子が砕けるような音と共に、塔全体に組まれていた術が弾け飛んだ。
「やっ、た…?」
解析による集中力と魔力の消費で痛む頭を押さえながらリディは立ち上がり、手を離されたアリーシャはどこか呆然と周りを見回す。
「こわれた、みたいですね」
途中から自分で傷を治療したらしいルシアンもまた、立ち上がりながら咳き込む。喉の奥に詰まっていた血の塊が吐き出され、床に新たに模様を作った。
「ったく、無茶しすぎ。守ってくれたのには感謝するけど」
リディは溜め息をついて、てててと走って戻ってきたネーヴェを抱き上げる。満足そうな顔の彼の頭を優しく撫で、ありがと、と笑えばぴゃっと鳴いて肩に収まる。ルシアンが疑問の色濃く訊ねかけた。
「リディさん、そのピュルマ…」
「お父様…っ?」
しかしそれは、ローズマリアの動揺の強い声に打ち消される。一同がはっと視線を向ければ、黒いローブの魔術士は、壁にもたれてぐったりとしていた。
「おい、……」
近寄って肩に手をかけたルイスが、目を見開いてヘイゼルの胸に手を当てる。僅かの沈黙の後、「ヘイゼル!」と怒鳴った。
「どういうことだ!あんたの体、これは…!」
「…たいした、やつらだ…」
ヘイゼルは掠れた声で言った。汗ばんだ髪を避けた顔は苦し気ではあったが清々としていて、さっきまでの鬼のような形相は幻だったのかとすら思わせる。
「まさか、わたしの生涯の、最高傑作とすらいえる、あの魔術環を、ものの五分で解かれるとは、思わなかった…さすがは、烈火の鬼姫と、いうことか…」
リディは呆然と思考を捲り、先程解いた構成を思い返す。それから、まさか、と呟いた。
「まさか、あの聖魔力は、君に…」
「さよう…アリーシャから聖魔力を奪うことで、わたしは永らえていた…さもなくば、とっくに死んでいる存在だ…」
声なき悲鳴が彼の二人の娘から漏れる。
遅れて意味が頭に浸透したリディも、さっと青ざめた。
(それは、私が)
(また、私は)
ひとを殺したのか――?
そのリディの思いを見抜いたのか、ヘイゼルは苦笑して唇を歪める。
「そのような顔を、するな。わたしは感謝、している…お前に…お前達に。わたしを止めて、くれたこと…礼をいう」
「…どういうことだ?」
焼け石に水と解りながらも、ヘイゼルに聖魔力を注ぎながらルイスが訊ねた。
「そう、か…まだ、お前達は、知らないの、だな…『原初の運命』を…」
ルイス、リディ、ローズマリアの三人が息を呑んだ。注視される中で、しかしヘイゼルは視線を逸らす。
「そなた…ルシアン、だったか…?」
半ば呆然と事態を静観していたルシアンは、はっとヘイゼルを見つめる。緑色の眼は、願いと温かみを帯びている。
これからの言葉は遺言なのだ、と全員が悟った。未だ頭は混乱しているが、死に逝く者の言葉を受けるべく、しんと黙りこくった。
静かな部屋に、喘鳴まじりのヘイゼルの声が響いた。
「実をいうと…初めに見た時から、お前がアリーシャを浚っていくものだと…不思議と確信した。アリーシャを、頼む」
「え…」
戸惑うルシアンを余所に、ヘイゼルはローズマリアに視線を転じる。
「ローズマリア…頼みがある。サラディンに…良い王になったな、と…伝えてくれ。これから、どれ程の苦難が待ち受けていようと…お前のその民を思う心があれば、乗り越えられる…と」
「…しかと、承りましたわ」
戸惑いながらもローズマリアは零れた涙を袖でぐっと拭い、しっかりと頷いた。ヘイゼルは微笑み、それと、と言った。
「お前は美しい女になった。魔術にも、感服したぞ。私の…自慢の娘だ」
「……っ」
跪いたローズマリアは声もなくぎゅっとヘイゼルの手を握り締め、嗚咽に身を震わせた。
「アリーシャ」
びくり、と立ち尽くしていたアリーシャの肩が震える。困惑と怖れの多分に滲む表情に、ヘイゼルは苦い思いを感じた。
「お前には多くを教えぬまま、辛い思いを、させた…地下の隠し部屋に、私の日記がある…そこに、全てが綴られている」
ひとつ言えるのは…とヘイゼルは続けた。
「お前はもう、魔力バランスの不和で苦しむことは、ない…これからは健やかに、あれ」
「お父様…っ!」
鮮やかな翡翠の瞳から、透明な雫が滴り落ちた。
恨みがあった。たくさんの悲しみがあった。憎みすら、したこともあった。
それでも――この男は、彼女にとってたったひとりの父親なのだ。困惑と絶望がない交ぜになり、その場から動くことはできず、しかし涙が止まることもなかった。
最後にヘイゼルは、自らに魔力を注ぐ青年と、硬直している少女を見遣った。
「今私から、お前達に全てを教えてやることは、できん」
「……」
「言えるのは…お前達は…これから先、一番重い代物を、背負う羽目になる。だが…お前達がお前達である限り…その強い意志を持っている限り、お互いを信じる限り、大丈夫だ。きっと克てる。その時が来たなら…迷わず、挫けず、立ち向かえ。お前達なら、やれる。私はそう…確信している」
「ヘイゼル…?」
すまんな、と男は言った。
「お前達の行く末を、見守れないことが、残念だ…だが、未来を生きる者達よ…決して絶望に負けず、闇を破れ…」
ルイスは顔を歪めた。急速に掌の光が弱まっていく。死神に、治療が弾かれる。
「では、さらばだ…達者でな、アリーシャ、ローズマリア」
ふっとヘイゼルの瞳から光が失われる。同時にルイスの掌の光も消え失せた。
ヘイゼルの手から力が抜け、ローズマリアの掌から滑り落ちた。ローズマリアは呆然としながらも、黙ってヘイゼルの瞼を閉ざした。
血の気のない死に顔。それを見て、リディは唇をかみしめ、ルシアンは瞑目して祈りを捧げる。誰もが沈黙する中で、ルイスがすっと立ち上がる。
「地下の隠し部屋だと言ってたな」
アリーシャを振り返り、ルイスは言った。
「行ってみよう。ヘイゼルの想いを、あなたは受け取らなきゃならない」
「っと…この石か」
ネーヴェをヘイゼルの遺体の傍に守らせて、人間達は一階まで降りてきていた。まだ殆どの者が混乱を脱していない中、感情の制御に長けたルイスはひとり淡々と探索していた。
床にひとつだけ色の違う石を目敏く見つけたルイスは、力をこめてそれを押す。
ゴゴゴゴゴ、と地鳴りのような音と共に、床の一部が口を開ける。真っ暗な地下へと続く階段に、ここだな、とルイスは断じた。
リディの火で暗闇を照らしながら一行が着いたのは、アリーシャの部屋の比ではない、大量の本で溢れた部屋だった。壁の燭台に火を移し、リディが思わずすご…と感嘆する。
「ラグより多いかもしれない…」
部屋面積からしてそれは脅威の発言だが、ルイスも頷いた。山、というよりは海だ。本棚にぎっしり詰まるだけでは飽きたらず、床にもうず高く積まれている。さらには書類も散乱し、あちこちに複雑な理論や図が描かれているのが見えた。
「この中からお父様の日記を探せっていうんですの?」
辟易した様子のローズマリアに、ルイスはいや、と首を振った。
「多分あれだろう」
彼が指し示したのは、本に埋もれるようにしながらも鎮座する大きめの机。その真ん中に、ぽつんと分厚い革張りの本が置かれていた。
「……」
無言の一同の中で、迷っていたアリーシャはふと顔を上げると、黙ってその本を取り上げ、ぱらりと捲った。
そこには、淡々とした文章が刻まれていた。
『三の月二十五日
妻シエラが懐妊した。男でも女でも関係なく、無事に生まれてほしい。』
『一の月四日
シエラは出産と同時に死んだ。子供は女の双子で、どちらも強い魔力を持っていたから、そのせいだろう。すまない、シエラ…
双子はアリーシャとローズマリアと名付けた。
アリーシャの方は四属性を有して生まれた。宮廷魔術士が総力を上げて暴走を抑え込んだが、このままでは二十歳まで生きられないという。なにか手はないか。』
『六の月二十八日
悩んだが、これしかないだろう。
明日私は退位する。サラディンはもう充分立派に成長した。わたしが教えることはもうなにもない。例の一族に気をつけろと伝えるぐらいだろう。
老い先短いこの命くらい、娘に捧げよう。
行き先はどうするか。やはり、砂漠のどこかがいいだろう。万が一暴走した時、死ぬのはわたし達だけでいい』
『七の月十二日
…アリーシャに魔術環を仕込んだ。アリーシャの膨大な魔力を拡散し、わたしの魔力でバランスを取るものだ。
あとは時間をかけて、アリーシャの火の魔力の封印式が馴染んでいくのを待つのみだ』
『五の月三十日
どうも調子がおかしい。最近、妙に自分が欲深く感じる時がある。死ぬことなど怖れはしないつもりだったが、執着を感じる…』
『八の月九日
しくじった。これは恐らくあの一族の呪いだ。
まさか、わたしの代…否、わたしの子の代に起こるとは。口伝は確かだった。サラディンにどうにか伝えられぬものか…。
それも叶うまい。気付くのが遅すぎた。サラディンに注意しておきながら、自分が罠にはまるとは…情けない。もう自分が自分でない時の方が多いだろう。アリーシャには怖い思いをさせてしまっている。すまない。』
『十の月二十八日
これが最後の日記となるだろう。わたしの自我はもう殆どない。魔術環は維持されているのが幸いだ。
アリーシャがわたしから逃れる術は、もうわたしの死しかないだろう。誰かがそれを成し遂げてくれることを祈るしかないのが歯痒い。
アリーシャの魔術環について記しておく。
アリーシャの封印は、あと一年もあれば完成するだろう。そこにわたしはひとつの要素を加えた。わたしの死によって、封印をより強めるものだ。
それにより、アリーシャは永遠に火の魔力を失うが、もうバランスで苦しむこともなくなる。
これをアリーシャが知るのは、わたしが死んだときだろう。アリーシャ、決して気に病むな。わたしは親の務めを果たしたまでだ。お前が健やかに、幸せに育っていくことを祈っている。』
日記はそこで終わっていた。
読み終えたアリーシャの手から、日記が滑り落ち、ごとんと床に落下する。しかしそれを意に介すことなく、震える両手でアリーシャは己の躰を抱き締めた。
「あ…あ…」
この四年間の記憶が脳裏を走る。怖かった、辛かった――それでも、全ては自分のためだった。けれど、全てはもう終わってしまった。父には何を言うことも、伝えることもできない。命を賭して救ってくれた、父には――
「ああああああっ!!」
身も裂くようなその叫びは、最早支配するもののいない塔に響き渡り、広大な砂の海に静かに呑み込まれていったのだった。
――――――――――――――――――――――――――
その翌日。まだ朝靄も晴れぬ早朝、ルイスとリディ、それにローズマリアはルシアン宅の前に立っていた。前者二人は旅支度を整え、後者は訪れた時より身綺麗な格好で戸を背にしている。
「お姉様も、わかっているのだと思うわ。わたくし達の気持ちを」
美しい顔を伏せ、ローズマリアはそう言った。
あの塔をあとにしてから、アリーシャはまともに四人と口を利けず、自らの内に籠っていた。何を聞いても泣くばかり、完全にうちひしがれているようだ。
しかしリディに関しては殊更、拒絶を見せている。不可抗力とはいえ、リディが止めを刺したのは事実なのだ。しかも自分のために。
自分の為に命を懸けた父親、自分の為に父親を殺した少女。結局全てが何に繋がっているのか――アリーシャは既に理解していて、それでも認めたくないのだ。
「まだ、整理がつけられないのでしょう。あの塔から出たいという密かな願いは叶ったけれど、それはお父様の死と引き換えだった。しかも、死に際になってお父様の理由を知った」
ヘイゼルの遺体もまた、彼らは街に連れ帰ってきていた。昨日の内にテーリアの王宮に連絡を入れたので、早ければ昼前にも王宮の臣下がやってくる。だからこそローズマリアは身綺麗にしているのであり、ルイス達が早く発とうとする一因でもあった。
リディは静かにローズマリアと視線を合わせ、ゆっくりと言う。
「アリーシャさんが私を恨むのはもっともだ。それでいいとも思う」
痛みを押し隠して笑うリディの頭を、ルイスは黙って撫でた。彼女は上辺の慰めを必要としていない。今ルイスに出来るのはそれ位だった。
「…ルシアンに伝えて。アリーシャさんを頼むよって」
「俺からも。任せるってな」
「…承知しましたわ。お二人もお気をつけて。イグナディアに行かれるのでしょう?」
「ああ。まあ、その前にアーヴァリアンを通るけど」
「今、あの国の中とは連絡が取れないと聞いていますわ。お兄様も調べておられるようですけれど…」
ルイスとリディは固い表情で頷いた。
エカテリーナと名乗る魔族に接触してからふた月以上。その間、イグナディアに関する情報はほぼゼロだ。何が起こっているのか、起こっていないのか――それすらわからない。不気味なことこの上なかった。
「くれぐれもお気をつけて。お父様もおっしゃっていらしたことですわ」
リディは苦笑し、ローズマリアをの肩を軽く叩いた。
「うん。ありがと。…じゃ、行くから」
「元気でな」
言葉少なに、二人は彼女に背を向けた。朝靄の晴れ始めた街を通り抜け、ぽつぽつと歩く人を避けながら街を出て、しばらく歩いたところでネーヴェを竜に変じさせた。
塔での出来事からこっち、ひたすら大人しいネーヴェは黙ってそれに従い、彼らは間もなく砂漠の空に飛び立った。
乾いた風。優しさの欠片もなく髪をなぶるそれを、リディは無言で仰いだ。
「おい、あれ」
ルイスが指さしたのは、昨日死闘を繰り広げた塔だった。守るもののなくなったそれは、早くも砂にまみれ始め、壊れた壁とあいまって否応なく廃墟の様相を呈している。
「……」
リディはそれを黙ったまま見つめ、それから逸らした。
守るために閉じ込めた、砂漠の塔。外界からその身を保護し、あらゆる危険から遠ざけるそれは鳥籠に似ていて、けれど中の鳥は危険を知らずに外を夢見る。
檻が壊れて外に飛び出した鳥は、けれどどうなるのだろうか。自ら生きる術を見つけられるのか、それとも広すぎる世界に戸惑って野垂れ死ぬのか。それとも――安寧を保っていた檻を壊した破壊者を憎むのか。
アリーシャはまだ、分岐点にすら立っていない。
彼女がどう考え、どんな答えに行きつくのか、リディはわからない。でもたとえどんな結論になろうとも、向き合おうと思う。
(それが、結果的とはいえ、籠を壊してしまった破壊者の、責任であるはずだから)
それでも、それに向き合うのはまだ先のことだ。
「急がないとね。とりあえずアーヴァリアンに」
不意にそう言ったリディを、ルイスは目を瞬いてから凝視し、やがて苦笑した。
「ああ。シルグレイに状況聞かねえとな」
「知ってるといいけど。…そういえばアーヴァリアンこの時期なんか大会なかった?」
「ある。冬は武術大会だったか?夏が魔術だから。なんだ、出たいのか?」
「暇だったらね。でもそんなことしてる場合でもないし。なんか嫌な予感するし」
「…あたるから嫌なんだよな、俺ら二人の予感って」
「ルイスも予感してるのかよ!」
呆れた風に笑い声を上げたリディの頭を、ルイスはぐしゃりと撫でた。
「だからさ。俺達は二人で一つの共同体だ。お前ひとりに重荷を背負わしたりはしないからな」
リディは思わずルイスを振り向き、一瞬泣きそうに眉を歪めると、結構な勢いで肘鉄を打った。
「いっ!?って馬鹿リディ、落ちるかと思っただろうが!」
「そんなにヤワじゃないだろ!」
「不意打ちは卑怯だ!」
「突然変なこと言う君が悪い!…でも」
ありがと、という言葉は本当に微かで、すぐに風に溶けてしまったけれど、ルイスの耳はちゃんと捉えていた。しかしふと、眉を曇らせる。
(ただ、気になるのは…)
遠くに影を探して目を細めながら、ルイスはヘイゼルの日記を思い返した。
(ヘイゼルが書いていた『例の一族』…。なんのことなんだろうな)
口伝だの、伝承だの。
誰かが何かを知っていることは間違いない。それが自分達に知らされないだけで。教えることを拒まれているだけで。
「…ルイス?」
訝しげに見上げてくるリディに首を振り、ルイスは蒼い目を遥か彼方に向けて笑った。
(ま、いいさ)
教えてもらわなければ自分で探すまでだ。
小さく微笑んで、彼は会話を切り替える。
「…残りの金も少ないしな。さっさとこんな砂漠抜けようぜ」
「同意。よし、そういう訳でお願いねネーヴェ!」
きゅおお、と嬉しそうにネーヴェが鳴く。主達の心境の変化が、彼の心も上昇させていた。
速度を上げて砂漠を飛び去っていく影。それはやがて、終末の兆しと出会うこととなる。
回り始めた崩壊の歯車は止まらない。だが、それが音を立てて激しく回り出すのは、まだもう少し先の話である。
当初この話に月設定をする気はありませんでした。ですがどうにもないと不便で…。
単純に、一~十二の月まで、ひと月は三十日。捻りもなんもありませんごめんなさい。