第九話 砂漠の鳥籠 (4)
第九話 砂漠の鳥籠 (4)
たゆたう暗闇の中から、ふっと声が聞こえてきた。
「…たんでしょ?…から…」
「…も、…です…れに、」
それらの声に引き上げられるように、リディは意識の底という暗闇から抜け出し、目を開けた。
視界に映ったのは茶色い天井。視線を横に振れば閉じられた窓と白い遮光幕が映り、下に下ろせば白いカバーが目に入った。
(……)
ぼんやりする頭で、やたら重く感じる腕を上げる。そこにはやっぱり真白い包帯が巻かれていて、同時に体中の感覚があちこちの怪我を伝えた。
(…そうか)
思考に蘇る、塔での激闘。そして――敗北。
「…くそっ」
腹立たしさが溢れてきて、リディは挙げた拳を自分が横たわる寝台に叩きつけた。
また救えなかった。ファーデリアのあの出来事で、手の届く限り守りたいという願いを、誓いをまた守れなかった。
自己嫌悪に唇を噛み締めていると、隣からかすかな呻き声がした。
顔を振り向ければ、彼女同様の有り様でベッドに横になっていたらしいルイスが、ゆっくり目を開けたところだった。リディはほっとして、声をかけようとしたがその前にルイスが口を開く。
「…リディ…?」
ぼんやりとした掠れ声が耳に届くなり、何故かリディの背筋がぞくりとした。寒気ではない。何か――優しく撫で上げられたような、そんな感覚で、リディの顔に知らず朱が差す。
起き抜けのルイスはいつものぴしりとした感が薄れ、少し宙をさまよい気味の蒼い眼は子供っぽいようでいて、けれど掠れた声と相俟って――どこか、色っぽい。
(……って、なに考えてるんだ私!?)
さっきまで悔しさに震えていたのもどっかに吹っ飛んでいた。混乱の余り千切れた思考が繋げず、あわあわとリディはルイスに背を向けた。
「…リディ?」
先程よりも幾分しっかりした声が、怪訝そうな色を孕んでリディの背に当たる。が、未だ混乱中のリディはそれに応えることが出来ず、意味をなさない言葉の断片が唇から零れるだけで、それが益々彼女の焦りを増幅させる。
「リディ?どうした?怪我が痛むのか?」
背後で、ルイスが些か慌てて、しかし体に障らないようにゆっくりベッドから降りた音がした。
「ななんでもない!気にするな!」
噛んだ。しかも妙に上擦った声が出てしまい、リディの頭は最高潮に混乱を極める。
「なんでもないわけあるか、おい…」
それをルイスが不審に思わないわけもなく、気遣うような訝しむような口調になりながら、鍛えられたしなやかな手で、リディの肩を掴み、振り向かせようとした。
(ぎゃ――今こっち見るな――!)
内心絶叫したリディに、そこで思わぬ助け舟が入った。
「あ、起きられたんですね!良かった!!」
戸口に茶色の髪の青年――ルシアンは顔を出し、二人を見るやいなや嬉しそうに叫んだ。それからふと室内の微妙な空気に気づき、首を傾げる。
「…どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ」
一気に思考が繋ぎ合わされていくと同時に頬が冷えていくのを感じながら、リディは心の中で、よくわからないものを霧散させてくれたルシアンに何度も礼を言ったのだった。
「吃驚したんですよ。物音がしたと思って見に行ったら、お二人が倒れてるんですから」
コポコポと薬湯をカップに注ぎながら、ルシアンは言った。その顔は安堵の色が深く、本当に心配をかけていたのだと思い知らされる。
「ごめん。…やられた」
リディが神妙に告げれば、一瞬の沈黙を挟み、怒ったようにルシアンが言った。
「なに言ってるんですか。あなた達が生きてること、それが一番大事なことです。僕になんで謝るんですか」
「だって…大口叩いといて」
「人間それくらいの失敗します。でも懲りたならこれからの無茶はしないことですね」
リディの声をそれで叩き折ったルシアンは、そこでふと自分を唖然と見つめる視線に気づく。
「…なんですか?」
「いや…結構言うやつだな、と思って」
目をしばたたくルイスに、ルシアンは包帯を手にとりながら苦笑した。
「…昔、無茶をして命を落とした姉がいたんです。それ以来、そういうことには敏感で」
沈黙が三人に降りた。しばらくして、「ごめん」とルイスとリディの声が重なる。
「やな話させたな。悪い」
「…いいんですよ。ですからもう、あの塔に行こうなんて」
「行くよ」
ルシアンの言葉を遮って、リディが言った。ルシアンは自分の耳がおかしくなったかと思って眼を点にした。
「…は?」
「行くよ。負けっぱなしで帰れるか」
憤然と言ったリディに続き、ルイスが頷いた。
「ここで逃げたら『ヘキサ』の名が廃る。――テーリアの元国王だろうが、知ったことか」
「…え?国王?ちょっとなにが…」
「なんのために対策って言葉があると思ってる。一回負けたくらいで諦められるか」
「ああ。色々と分析したいこともあるしな」
勝手に頷きあう二人を前に、ルシアンは叫んだ。
「何がどうなってるかはわかりませんけど、待って下さい!正気ですか!?だいたいその怪我じゃ無理ですよ!悔しいですけど僕そこまで魔力多くないんで、お二人の骨折治すので精一杯だったんですよ!」
「…ああ、だから思ってたよりだいぶ怪我が少ないのか。確実に肋はいくつかイったと思ってたから…。ありがとう」
「どういたしまし…いや、そうじゃなくて!」
ルシアンが怒鳴ろうと息を吸い込んだ時、クスクスという笑いが戸口から響いた。ルイスとリディは同時に戸口を見て、前者は驚愕、後者は「あれどっかで会ったような…」という表情を浮かべる。
「ローズさんっ!笑ってないでなんとか言って下さいよ!」
ルシアンの声に、戸口に寄りかかっていた女は、艶やかな金髪を揺らして、翠の瞳で二人に笑ってみせた。
「どうも。一ヶ月ぶりですわね?またお会いできて光栄ですわ」
「あなたは…」
ルイスが呟く一方で、ようやく記憶を浚ったリディがぽんと手を叩いた。次いで目を円くする。
ルシアンはきょとんとそれを眺めていたが、次ぐ女の台詞に愕然とした。
「リディエーリアさんとちゃんとお話するのは初めてですわね。――わたくしの名は、ローズマリア・リィ・テミシエン・テーリア。現テーリア国王サラディンの妹ですわ」
―――――――――――――――――――――――――――――――
ルシアン宅の居間は、奇妙な光景になっていた。期せずして田舎町に王族三人が居合わせたのだ。しかも全員が簡素な格好で、端正な顔以外彼らを王族と判断できる要素はない。
「起きた時話し声が聞こえたような気がしたんだ。君だったんだね」
ルシアンが淹れた薬湯を啜り、リディがローズマリアに言った。その膝にはネーヴェが乗っている。二人の体に障らないように居間にいたらしく、彼らを見るなりとびついてきて大騒ぎし、今は疲れたのか丸くなって眠っている。
ローズマリアは頷いた。
「わたくしが治療できれば良かったのですけど。残念ながら、魔力はあっても治療術はからっきしなのですわ」
ちらりとローズマリアは家主を見るが、彼は衝撃の余り魂を飛ばしているようだった。目の焦点が合っていなかった。
「あなたはなぜここに?俺達のように脱走したわけではないでしょう」
ルイスが慎重に発した問いに、ローズマリアはころころと笑った。
「やっぱり家出でしたのね。ルイシアス殿下は諸国漫遊に出掛けた、とシルファーレイ殿下は公表していらっしゃいましたが。…駆け落ちですの?」
「「違う!!」」
サラウンドで怒鳴られたが、ローズマリアは気にした風もなくあら失礼しましたわ、と肩を竦めただけだった。
それからふと真剣な目になり、翠の瞳が深みを増す。
「…ひと月前のあの件…お兄様に報告しましたの」
空気が変わったことを察して、ルイスとリディは姿勢を正した。
「不審な男が竜の血でわたくし達を動けなくしたことも、あなた達にそれが効かなかったことも。…そうしたら、お兄様の顔色が変わったのです」
リディはちらりとルシアンを見た。――まだ魂は飛んでいるようだった。
「お兄様はそれについて何もおっしゃいませんでしたわ。でも、思わず、という感じでこう呟かれたのです。『原初の運命』と」
二人は息を呑み、それからローズマリアを見つめた。ネーヴェがぴくりと長い耳を動かし、むくりと頭を上げる。ローズマリアはゆっくりと言った。
「わたくしが知らない王族の秘密など、あって当たり前ですわ。でもそれ以来、お兄様は何故か軍編成を強化したり、食べ物の貯蓄を貯めたりし始めたんですの。家臣も訝しがっていて…。あなた方は、何かご存知なのですか?」
しっかりと二人を見つめ返した翠の瞳は強く、ルイスは彼女に持っていた印象を改める。…高慢などではない。しっかりと自己を確立している、大人の女だ。
「知らないから、旅をしてるんだ」
リディが答えた。
「最初はまあ、単に家出だったんだけど。旅する中で、知らない奴らから呼ばれたんだ、その呼び名で」
「…『原初の運命』と?」
「うん。それ以外にもちょっとあってね。二度目の出奔、てわけ」
ローズマリアはしばし考え、やがて頷いた。
「ご事情はわかりましたわ。…話を戻しましょう。ルシアン、いい加減魂戻したらいかがですの?」
一転冷ややかな声に打たれ、ルシアンははっと我に返った。
「はっ、すすすみません!僕は何を…」
「衝撃だったのはわかりますけど、いつまでもぐずぐずしないでくださいませ。そんな輩にお姉様を好きになられるなんて、虫酸が走りますわ」
「はうっ…!す、すみません…」
ぐっさりと言葉の槍に穴だらけにされ、ルシアンは撃沈した。一方、ルイスとリディははたと気づく。
「お姉様、って…」
考えてみればあたりまえだ。あの男は前テーリア国王。そしてアリーシャはそれを父と読んだ。そして今の国王は前国王ヘイゼル、つまりあの男の息子であり、ローズマリアはその妹。血の繋がりがない訳がなかった。
よくよく見れば、黄金色の髪や、鮮やかな翠の目だけでなく個々のパーツもよく似ている。余りに雰囲気が違うから気づかなかったが、それを除けば瓜二つとすら言えた。
「アリーシャは、わたくしの双子のお姉様ですわ」
二人の考えを読んだかのようにローズマリアは弾んだ声で言った。しかしすぐに声を低めた。
「では、本当にお会いしたんですのね?砂漠の塔の中で」
「…ああ。あなたとそっくりの女性がいたよ。ヘイゼル元陛下もな」
ルイスが頷けば、ローズマリアは一瞬泣きそうな顔になり、ついで喜びと安堵の声を震わせた。
「…ようやく見つけましたわ…!」
そのまましばらくの間自らの身を抱き締めて震えていたが、やがてローズマリアは顔を上げ、落ち着いた調子で三人を見た。
「あなた方にはいくらお礼を言っても足りませんわ。わたくしはやっとお姉様にお会いできます」
「良ければ、聞いていい?君達一家がなんでこんなことになってるのか」
リディの訊ねに、ローズマリアは迷うことなく頷いた。
「あなた方なら、無闇に口外しないですわね。恩もありますし、包み隠さずお話ししますわ」
そして、ローズマリアは語り始めた。
事は二十一年前――ローズマリアとアリーシャの双子が生まれた日まで遡る。
二十一年前の夏、テーリア王家の当時の王妃が、子供を身ごもった。彼女は十年前に第一子であるサラディンを産んだあと懐妊がなく、国民は皆喜びに沸き立った。そして翌年の春、国中が待ち望んだ出産が訪れ――双子の娘が生まれ、王妃が死んだ。産後の肥立ちが悪かったせいだという。
国民は王女の誕生を喜ぶ一方、王妃の死を嘆いた。さらにその十七年後、双子の一方――アリーシャ王女が病を得て亡くなった。国中が沈む中、当時の国王ヘイゼルは退位を表明し、その時二十八になっていた第一王子サラディンに王位を譲った。
ここまでは、表向きの話である。
「お母様はお体の具合が悪くて亡くなった訳ではありませんでしたわ」
ローズマリアの口から紡がれる話を、夜の帷が降り、魔術の光が灯された部屋で三人は黙って聞いた。
「そして、ご存知のようにお姉様もお亡くなりになってはいませんわ。それらは全て、お姉様自身に起因します」
「アリーシャさんに?」
リディの声にローズマリアは頷き、続けた。
「お姉様は、四属性を持っていらっしゃいます」
全員呆気に取られた。しばしの沈黙の後、ルシアンが「えええええ!?」と絶叫する。
「よよよ四属性って…!バランスが悪くて存在出来ないはずじゃあ……」
「ええ。通常はそうですわ。でも我が王宮には多くの優秀な魔術師がおります。お姉様はなんとか命を取り留めました。けれど、同時に膨大すぎるほどの魔力を持っていたお姉様と、わたくしを生むのに、元々魔力をお持ちでなかったお母様の体は耐えきれなかったそうですわ」
「成程…そうだったんだ」
リディがどこか神妙に言うのでルイスが見やると、リディは肩を竦めて口パクで伝えてきた。
『ラグもそうなんだよ』
ルイスも神妙な顔になった。
「…お姉様には、幼い頃からたくさんの制約がありましたわ。何人かの魔術師の立ち会いでなければ、普通の生活すら送れさせて貰えなかったんですの」
悔しげにローズマリアは言った。その表情からも、彼女が本当に姉を慕っていることがわかる。
「お父様は、お母様が亡くなって…なんというか、近寄りがたくなられたそうてすわ。わたくしは殆どお会いしたことがないので、お兄様によるとですけれど」
「会わないって…なんで?」
「わかりませんわ。まあ、特に疑問に思ったことはありませんけれど。…けれど、四年前…お父様ば突然わたくし達を訪れました」
リディの疑問をさらりと流して、ローズマリアは本題に入った。
「お姉様もわたくしも十七歳になった日でしたわ。いつものように二人で部屋で話をしておりましたの…そうしたら、突然お父様が現れて…」
曰わく、二人に冷厳にこう言ったのだという。
『アリーシャは私が連れて行く。呪われし身は、相応の場所に在るべきだ』
「…驚く間もなく、お父様は転移魔術でアリーシャを連れて消えてしまわれました。転移魔術自体は、城の研究者達が何代にも渡って開発を続けていたので、ようやく完成したかくらいの気持ちだったのですけど。…わたくしが呆然としていたら、外が騒がしくなってお兄様が来られましたの。お兄様は部屋に入るなり、アリーシャのことをお尋ねになりましたわ」
あれほど青ざめた兄は見たことがなかった、とローズマリアは首を振る。
「わたくしがアリーシャはお父様が連れていった、と言ったらお兄様のお顔はもう、真っ青どころか真っ白になってしまわれましたわ。事情をお訊きしたところ…お父様が王位をお兄様に譲られ、議会の場から姿を消したのだ、とおっしゃいましたわ」
ヘイゼルはその日の議会で突然、息子サラディンに位を譲ると宣言し、後は勝手にしろ、だがアリーシャは連れていくと言いおいて消えたらしい。その足で姉妹の部屋を訪れ、アリーシャを拉致したのは最早確定的だった。
「アリーシャを連れていった原因は、アリーシャが四属性を持っていたからなのは自明の理ですわ。お兄様は、わたくしに諦めろとおっしゃいました。アリーシャはお父様に任せようと」
「…で、どうしたの?」
その言うとおりにしていれば、今ここにローズマリアがいる筈がない。そんな意を込めてリディが言えば、ローズマリアはにっこりと笑った。
「ひっぱたきましたわ。お兄様を」
「「「…………」」」
「アリーシャはわたくしの大事な大事なお姉様です。魔力ごときの為にわたくしから奪うなんて許せる筈がありませんわ。そう思うでしょう?だからひっぱたいた上で大事なところを踏んづけて差し上げましたの」
リディがコメントを控える傍ら、男二人はひっと身を竦めた。まだ見ぬサラディンに心底同情した。
「…それからわたくしは暇があればお姉様を探しましたわ。国内ならばどこでも。外交上国外、という可能性は低いので…」
ローズマリアは立ち上がった。翠の瞳を燃やし、拳を握り締める。
「ようやく見つけましたわ。これでようやく、お姉様にお会いできますわ!ではお三方、わたくしはこれで」
「待てよ」
言うだけ言って、颯爽と出口に向かったローズマリアをルイスが止めた。
「なんですの?」
「あのな、わかってるか?相手は俺達二人で負けた奴だぞ?お前一人で姉を救えるとでも?」
「…だからなんですの?このままわたくしに指をくわえて見ていろとでも!?居場所がわかっているのに!?」
ローズマリアが激昂した。瞳には水が張っている。
彼女にもわかっていた。ひとりで魔術師として名高い父に抵抗することなど出来ないと。でもだからと言って、諦めるのは彼女の矜持と姉への思いが許さなかった。
ルイスはそれらを理解し、溜め息をついて言った。
「誰も諦めろなんて言ってねえよ。…二人では敵わなかった。なら、三人になればいい」
ぽかんとローズマリアはルイスを見た。それを飲み込むのに数秒かかり、やがて困惑したように首を振る。
「けれど、あなた方は怪我を…」
その台詞は途中で止まった。ルイスも、そしてリディもおもむろに、巻かれた包帯を解き始めたからだ。
「駄目です!まだ治療薬が…」
ルシアンの台詞もまた、途中で止まった。白い包帯の下から、傷も打撲痕もない綺麗な肌が現れたからだ。
「な……」
「治療ありがとうルシアン。下地があったから魔術追加するの楽だった」
「職業柄核も持ってるからな。…あ、ふたつ壊れてるな」
「どうせ白だろ、いいよ」
やがて包帯を全て外した二人は、どこからどう見ても健康体だった。というのも、躰の内部の内出血やら骨折やらの怪我はルシアンが治したので、躰表面に残っていた痕や、打撲が消えただけではあるが。
「助太刀するぜ?ローズマリア。…俺達の二つ名は伊達じゃないぞ」
振り返って笑ったルイスに、呆然としていた表情をやがて苦笑に替えたローズマリアは、頷いた。
「ありがたく、受け取らせていただきますわ…『氷の軍神』と『烈火の鬼姫』の力」
ローズマリアのイメージ改善話?笑