第九話 砂漠の鳥籠 (1)
第九話 砂漠の鳥籠 (1)
エーデルシアスより北西、大陸北部の海岸線に接する場所は、小規模国家であるテーリアが位置している。人口密度は国家の北部に集中し、領土の大部分を広大な砂漠が占めている。
国家経済はほぼ漁業において補われ、大きな軍事力は持たず、隣国とも適度な付き合いを保ちながら人々は暮らしていた。
名物ともいえる砂漠は通称、クローキア砂漠と呼ばれるが、またの名を無限砂漠と言われる。広さでいえば、オルディアンのリヒトールの森よりも小さいくらいなのだが(それでも十分広いが)、延々と続く代わり映えのしない景色と、土中に棲む生物以外はなんの生き物の姿もなく、更に頻繁に起こる砂嵐によって感覚を狂わせ、立ち入る者の悉くを迷わせることからつけられた名だ。
なんの動物も、空の鳥すらも存在しないと云われる砂漠。
しかしこの日は、砂で霞んだ空を横切っていく大きな影があった。
「ひーろー…確かにこんなとこに歩きで入ったら絶対迷う迷う」
蝙蝠のような翼を大きく広げて空を滑空する生き物――この大陸の主である竜の背で、短く赤い髪の少女は下を見下ろして身震いした。
「アルあたりなら三秒と持たないな絶対。しかし無限砂漠の名は伊達じゃないな…」
その少女の背後で、少女より余程長い黒髪を風に遊ばせている青年が、感慨深げに呟いた。
「ルイスも見たことなかったの?アーヴァリアンには何度も行ってるんだよね?」
意外そうな少女の声に、青年は肩を竦めて応える。
「そりゃ、遠目にはあるけどな。いつもイェーツ側から迂回してたから、こういう風に間近で見るのは初めてだ」
「そうなんだ。…今は、早くイグナディアに行きたいから、突っ切れるのは有り難いね。ありがとう、ネーヴェ」
労るように自身の首を撫でた少女――リディの手に、二人を乗せて羽ばたく薄青く輝く白い竜は、嬉しそうに一声鳴いた。
リディとルイスがそれぞれの国を飛び出し早一週間。ネーヴェを連れているのに馬を買うのは馬鹿馬鹿しい、という理由で、二人は人目につくエーデルシアス国内を魔術や乗合馬車で移動した。国境は、警戒していたが封鎖はされておらず、ちょっと変装すれば抜けることができた。このあたり、少し引っかかったものの、二人とも余り深くは考えないようにしていた。
そしてテーリアに入って砂漠に向かうなり、こうしてネーヴェに乗っての砂漠越えを敢行したのである。
前に乗る少女の項で踊る赤い髪を眺めて、そういえば、とルイスは訊ねた。
「お前、髪どうしたんだ?」
ひと月前彼女と別れた時、彼女の髪は肩甲骨くらいまではあったはずだ。それが、一年前出会った時よりも更に短く、ギリギリ首の半ばから、頭の形に沿うように切りそろえられている。まるで平民の少年のようだ。
「ん、置いてきた。前出てく時も髪切って置いてったから、どうせならもう一回同じことしてやろうと思って。私の縁に」
遺髪かよ。
声には出さずルイスはツッコんだ。
「一度切っちゃうともうラクで。洗う手間もかなり省けるし。ルイスはよく伸ばしてるよねー。面倒じゃない?」
リディひょいと振り向いて、ルイスの、顔の横で結ばれている、胸くらいまで長さのある黒髪を指に滑らせた。一瞬ドキリとした思考を抑え、ルイスは敢えて淡々と答える。
「慣れてるからな。それに女ほど手入れにはカリカリしないし、今更切っても逆に違和感がありそうだ」
「それは言える。初めの三日位は頭が軽すぎて困った」
あっさりとリディはルイスの髪から手を離し、前を向いた。少々残念に思いながら、ルイスは話を続ける。
「それにたいてい、貴族は男でも髪伸ばしてるの多いしな。女は言わずもがな」
「例外で悪かったね。そういえばあの馬鹿も馬鹿みたいに長かったな」
修飾語の使い方が変だった。馬鹿二回言った。
しかしこの名詞が誰を指すのか、さすがにルイスももう認識していた。
「…ヴィンセント殿のことか」
「あれに殿なんてつけなくていいよ。ただのサボリ魔のやる気ナシの年中寝てる駄目人間の馬鹿だから」
リディは容赦がなかった。ただし、それがかの王太子の全てでないことは、彼女もよく知っている。
「あんなのが姉上の婚…いや、やめる。口に出すだけで腹が立つ」
…つまるところ、リディも大概シスコンだった。
ぶちぶちと何か文句を言っているリディからやれやれと視線を外したルイスは、ふと眼下に目を留めた。そしてその顔が嫌に固まる。
「なあリディ」
「だからあの馬鹿は…え、なにルイス」
「あれ、なんだと思う」
ルイスが指さす方向、二時の方角。彼の目がおかしくなければ――砂が、もうもうと巻き上げられていた。しかも、猛スピードで範囲を広げている。
リディは乾いた笑いを浮かべた。ネーヴェが首を傾げる。
「…砂嵐、かな?」
僅かふた月の休暇で本能が磨耗したのだろうか――二人と一匹はそれが自分達に近づいているという事柄に、反射行動を起こせなかった。そうこうする内に砂嵐は威を増して二人と一匹に牙を剥いた。
「や、やば――」
ようやく理性が躯の支配権を取り戻すも、時既に遅し。
「ぎゃーーーー!!」
「うわああああ!!」
「ぴいいいいい!!」
泡を食って逃げようとした一行を、呆気なく容赦なく、砂の暴風は飲み込んだ。途端、激しい風圧が彼らを襲う。
「くっ…」
黄土色の粒子が視界を潰す中、リディもルイスも結界を張ろうとするものの、口を開けた瞬間飛び込んでくる数多の砂にそれを阻まれ、精霊の名を喚ぶことができない。ネーヴェもなんとか持ちこたえているが、激しい風に煽られ、今にも錐揉み状態に突入してしまいそうである。
ヤバい、本気でマズい――とヒヤリとしたものが背筋を伝った時、リディとルイスはほぼ同時に視界の端に何かを捉えた。
(……塔!?)
それは砂に見え隠れする、大きな塔。石造りの堅固な円筒形には、ところどころ窓硝子が張り付いている。明らかな人工物に、二人は一瞬目を見交わして決めた。
リディが素早くネーヴェの首を叩き、塔を指差す。ネーヴェはその意を正しく理解し、力を振り絞って翼をはばたかせ、塔目掛けて滑空した。
「はあ、はあ…た、助かった…」
砂嵐から逃れ、塔の根元の部分に足を着けて、二人はぜえぜえと喘いだ。ネーヴェも竜の姿からピュルマの姿に戻り、体についてしまった砂を落とそうとぷるぷると身震いしている。
「どうやら、ここが砂嵐の中心部のようだな」
砂まみれになってしまった黒髪を忌々しげに後ろへ払い、ルイスは空に伸びる塔を見上げた。首のストールから砂を払い落としていたリディも、諦めて巻き直し、ルイスに倣って上を見た。
「砂漠の真ん中に、塔?ルイス、聞いたことある?」
「ない」
だよねえ、とリディは呟いてその場からすたすたと塔に沿って歩き出した。数分後、戻ってきた彼女は首を捻りながらルイスに言った。
「おかしいよ、この塔。入り口がない」
ぐるりと一周してみたのに、どこにも見当たらないのだ。出入りをする為の扉が。
「…なんなんだ?」
ルイスも眉を寄せて腕を組む。肩に乗ったネーヴェが、首を傾げた。
「どうするルイス?」
リディがルイスを仰ぐ。
「このままこうしてても仕方ないし…あの砂嵐にまたすぐ突っ込む気にはなれないからな。入ってみようぜ」
「どうやって?入り口ないのに」
「入り口ならあるさ。あれ」
ルイスが指差したのは、少し上に位置する窓だった。小さいが、人ひとり入れる位の幅はある。それを目にして、リディは呆れたように息をついた。
「…君さ、本当に王子?泥棒みたいだ」
「ほっとけ」
――――――――――――――――――――――――
「すいませーん。誰かいらっしゃいますかー?」
窓にかけられていた結界をリディの結界解読で通過し、二人は塔への侵入を果たしていた。外とは打って変わった痛いほどの静寂の中、二人が立てる足音が嫌に響く。
「…誰もいないのか?」
一向に返ってくることのない応えに、ルイスは頭を掻く。リディはつと、壁の窪みに備え付けてある蝋燭立てを覗き込んで首を振った。
「うーん。蝋がまだ新しい。誰かはいるんだろ、多分」
塔は螺旋階段が上に向かって伸びていて、階層毎に部屋もあるようである。さてどうするか、と二人が思案を巡らせかけた時、かたりと音がした。
「!」
反射的に、それぞれ剣に手をかけながら振り向く。そしてその手を慌てて止めた。
「…どちらさま、ですか?」
彼らの後ろには、ひとりの女性がびっくりした顔で固まっていたのである。
「驚きました。ここに人が入ってくるなんて、思いもよりませんでしたから…」
案内された部屋で、コポコポと温かな音を立てて淹れられた紅茶を、ルイスもリディもありがたく口にした。おいしかった。
ネーヴェもビスケットを貰ってご満悦の様子である。
「えっと…」
何を言えばいいか言葉を脳内に巡らせるリディの傍ら、ルイスがすっと頭を下げた。
「何の断りも無しに邪魔をしてすまなかった。だがおかげ砂嵐から逃れることができた…礼を言う」
なんだか謝り口調が偉そうなのは王子に戻ってた弊害かな、とリディは思ったが、慌てて自分も頭を下げるに留めた。
女性はネーヴェを興味深げに見ていたのを二人に戻し、微笑して首を振る。
「いえ、命が助かったのなら何も反することはありません。…けれど、どうやってここに?砂嵐の中を抜けられたとしても…」
「うん、魔術でちょっとやらせて貰った。でも何でこの塔、入り口がないの?」
女性の質問を軽く流して、リディはズバリ訊ねた。すると女性は微笑んだ。寂しげに。
「扉から出る必要も…まして入る必要も、存在する人間がいないからです」
「?どういう意味?君はここから出ることはないの?」
女性は黙って微笑むだけだった。リディが首を傾げる一方で、ルイスはそれとなく部屋を観察する。
ぐるりと石壁に囲まれた円形の部屋。壁際には本棚が並び、中には本がぎっしりと詰まっている。机も広く、椅子はしっかりした作りの芸術品めいたもので、寝台は天蓋つきでやたら大きい。無骨なイメージの拭えない外見と比して、妙に浮いた感がある。
女性自身も、鮮やかな長い金髪を後ろで三つ編みにし、飾りのひとつもつけない地味な深緑のドレスという出で立ちだが、顔は高貴な感じに整っているし、地味にみえるドレスはしかし、材質は高級品だろう。
ちらりと窓を見やると、鉄細工の網が張られ、魔力で視れば結界が張られているのもわかる。
ここまでの情報があれば、答えを導くのはそこまで難しいことではない。
「貴女は閉じ込められているのか?ここに」
リディがぎょっとルイスを見た。その一方で、女性は静かに微笑むだけ。ルイスはその中に穏やかな諦観を見出した。
「なら、私達とここから出ようよ!結界は私が破れるし、すぐに――」
「いいえ」
勢い込んで言ったリディに対し、女性は首を横に振った。
「お申し出は嬉しいのですが、私はここから出はしません」
「なんで?閉じ込められてるって、要するに監禁だろ?だったら」
「私が逃げるわけにはいかないのです」
やんわりと、しかし断固として女性は言った。
「私がここから出れば――なんの罪もない方々に害が及んでしまうでしょう。でも、私はここで不自由は…していないのです」
その時翡翠のような瞳がちらりと陰ったのを、ルイスもリディも見逃さなかった。が、二人に何かを言う隙を与えず女性は彼らから視線を外すと、つと外を見て、さあ、と二人を促した。ふっと窓の外を指差した手首で、銀色の腕輪が煌めく。
「あなた方も早くここを出た方がいい…ここから北東に、小さな街があります。もうそろそろ日暮れですから…お気を付けて」
―――――――――――――――――――――――
「どう思う」
来た時と同じ手順で塔の外に出、念入りに結界を張ってからネーヴェに乗って飛び立ち、リディはルイスに呟いた。
「誰かに閉じ込められてるのは確かだ。…しかも、人質を取られてる」
「閉じ込められてるのに人質っておかしくない?普通あの人が人質じゃ?」
「あの人、『逃げるわけにはいかない』って言ってたろ」
ネーヴェがぐるりと塔の周りを回る。その堅固な作りを見下ろして、ルイスは言った。
「何にせよ…事情がわからない以上、俺達が何かするわけにはいかない。ひとまず、あの人が言ってた街に行こう。考えるのはそれからだ」
「…わかった」
渋々頷いたリディは手綱を握り締め、ネーヴェに指示を出した。
「行こう、ネーヴェ。北東だ」
それにネーヴェは咆哮で応えると、外に出るべく、翼を大きく羽ばたかせて砂嵐へと突っ込んでいった。
お久しぶりです。久しぶりすぎて文章が多少おかしくなってる気がものすごいするんですが、甘く見てやってください…。