第八話 発覚と未来 (10)
時間軸が飛びます。二ヶ月後です。
第八話 発覚と未来 (10)
ルイスは視界の端を過ぎった白いものに、書類を書く手を止めてふっと顔を上げた。
昼下がりの空、窓の外で、ゆっくりと舞い落ちるそれは綿菓子のようで、けれどずっとずっと小さくも地面に層を重ねてゆく。
「雪…」
呟いて、窓を開けてその一片を掌に落とす。瞬きの間にそれは溶けて失せたが、ペンを握り続けて凝った手に、微かな冷たさを残した。
「もう、そんな時期か。…二ヶ月経つんだな」
波乱のエーデルシアス王女生誕式典から、早二ヶ月経った。各国王族はそれぞれ自国に帰り、ここエーデルシアスも後始末も大凡終えて、淡々とした日々を刻んでいる。
あの騒動のあとは、大変だった。生々しい惨殺死体を目の当たりにした貴族達の衝撃は深く、エーデルシアスの者は謝罪と医師の派遣に奔走する羽目になった。
そこまで思い出して、ルイスは顔をしかめた。
――エルゼリーヌ。あいつの鬱陶しさはなかった。
心に負った衝撃とやらを理由に、王宮に頻繁に訪れてはルイスにまとわりつき、ほとほとうんざりしたものだ。何より一番腹が立ったのは、あれだ。
各王族が帰途についたあと、城内を歩いていたルイスを捕まえて、エルゼリーヌは嬉々として話しかけてきた。具合がどうかとか、家族がどうだとか。それに対しルイスが無関心を貫いていると、急にエルゼリーヌは話題を換えた。それが最悪だった。
「あのオルディアンの女、『烈火の鬼姫』でしたんですって?オルディアンでは英雄扱いをされていると聞き及びましたが、所詮ただの人殺しではありませんか。そのような女が、ルイシアス様のお側に寄るなんて――」
その時点で、ルイスはエルゼリーヌの手を振り払い、冷たい目で睨み付けた。
「お前は今自分が何を言っているかわかっているのか?王族の末席ですらないお前が、他国の正統な王位継承者を侮辱する資格があるとでも?」
エルゼリーヌは目を見開き、信じられないと言った風にルイスを呆然と見つめた。それに対し、ルイスは冷徹に言い放った。怒りのあまり、一人称を『私』にすることすら忘れていた。
「不愉快だ。二度と俺に近付くな」
それ以降、エルゼリーヌと会ったことはない。
――が、あれくらいでめげる女なら今まで苦労していない。近いうちにまた攻勢があるだろう、と考えるだけ鬱だった。
――それに、リディ。
あのあとお互いばたばたとして、大して言葉を交わすことも出来ないまま、彼女は帰国してしまった。
今回の件で、『烈火の鬼姫』であることが露見したリディ。全員が竜の血の支配下にあった中で、ルイスと共にたった二人だけ動けたことと合わせて、彼女については様々な憶測が飛んだ。それこそ、エルゼリーヌのようにリディを傷つける者まで。
竜の血の束縛については、エーデルシアス王が一言だけ発言した。
『王族の血を継ぐ者は、誰であろうと竜の血に逆らえない』
と。それ以上は貝のように口を噤んで、ルイスや他の者がいくら問おうと何も語ることはなかった。
しかし、その発言で、ルイスもリディも極めて不名誉な噂を立てられる。曰わく、王族の血を継いでいないのではないか――つまり、母の不義の子ではないかというものだ。
これに関して、しかし二人とも全く興味を示さなかった。それぞれ自分の両親に対する疑いを持つことすら馬鹿らしい、と認識していたからだ。むしろ、噂をする者達に憤慨したのは兄弟達の方である。
サーレクリフはいつもの好青年キャラはどこへやら、ぶちキレて刺客を送ろうとするわ、シルファーレイは無言の笑みと共に王宮から除籍しようとするわ、エデルは毒を盛ろうとするわ。
なんとか事なきを得たが、もし成就していたらとんでもないことになっていた。
まあそんなこともあって、ルイスは今現在自主的な蟄居中にある。こういう時はほとぼりが覚めるまで引っ込んでおいた方がいいのだ。
淡々と仕事と鍛錬を繰り返す彼は、僅か二ヶ月と少し前までの生活を、早くも懐かしく思い始めていた。
日々緊張感と目新しさに心を躍らせていた時間。過ぎてみれば、これほどまでに自分とは遠い存在だったのだな、と思ってしまう。
狩人協会にも結局何の連絡も入れていない。このまま再び城を出ることがないのであれば、登録を抹消するのが筋なのだが――彼にはまだ、迷いがあった。
「旅を続けろ、か…」
メルセイエデスの言葉は、未だ心にしっかりと根をはっている。自分達の存在、かけられた言葉の意味を知るには、旅を続けろといったかの竜。彼女の忘れ形見は、二つともリディが連れていった。
それに、あの魔族の女――エカテリーナが残した言葉が気になる。
『イグナディアで待っている』
確かにあの女はそう言った。その不審さに、諜報員をイグナディアに派遣したが、未だに報告は入ってきていない。式典に急な欠席を申し入れたことといい、気になるのは山々だが、こちらとしても動かせる人手が少ないのが現状だ。
「どうしたもんかな」
前髪をかき混ぜて空を睨んだ時、自室の扉が軽い音を立てて叩かれた。
「入れ」
臣下の報告だろうと思って振り向くと、入ってきたのは全く違う人物だった。
「お邪魔するよ、ルイス」
「……兄上ッ!?」
柔和な表情を浮かべる青年に驚愕して、慌てたルイスは飛んで駆け寄ってソファに彼を座らせる。
気が散るからと侍女を遠ざけた自分に臍を噛みつつ、そこそこ慣れた手付きで紅茶を淹れ、兄に差し出した。
「ありがとう。…美味しいね」
「粗茶で申し訳ありません。しかし兄上、いかがなさったのですか?供も連れず」
暗に危ない、と非難をこめて言えば、シルファーレイは微笑した。
「そんなに心配せずとも大丈夫だよ。今は調子がいいんだ。…君に伝えておきたいことがあってね」
シルファーレイは笑みを消すと、カップを置いて感情を消した声で言った。
「あの犯人の男…引き入れたのは、十中八九シャードプス公爵だろう」
ルイスは息を呑んで絶句した。
あの事件のあと、疑問視されたのは、『何故貴族の身分でない者があの場に入り込めたのか』ということだ。貴族の中でも、更に大貴族が厳選された今回のパーティー。そして、配布されていた名簿に、あの男の存在は記されていなかった。ということは、出席者の内、誰かが手引きをしたとみて間違いはない。
しかし、確認しようにも、給仕も広間を護衛していた騎士も殺されてしまった為、事実上それは不可能に近かった。
が、シルファーレイは根気よく城内の者から話を聞き、犯人を探していたのだ。
そしてその結果、浮かび上がったのはひとりの公爵。
「シャードプス公、ですか…」
沈黙の後、ルイスは呻く。あの日、挨拶してきた公爵に対して「寒気がする」と感想を述べたリディの顔がよみがえった。
シャードプス公爵は、彼の元婚約者エルゼリーヌの実の父親であり、現在エーデルシアスにおいて財務大臣を務めている重鎮でもある。切れ者と名高いが、ルイスからしてみれば一々鬱陶しい権力者でしかなかった。というのも、シャードプス公爵は、所謂『第二王子派』の人間であるからだ。
第二王子派とは、文字通り、第一王子かつ現王太子であるシルファーレイではなく、ルイシアスこそが王に相応しいと推挙する一派である。
シルファーレイは、体が弱く、その為武術も疎い。しかしそれを補って余りある程の才を持っているため、人心も篤いが、余りに聡明過ぎる彼は、腹の底に何かを飼うのが常である宮廷の一部の者達にとっては、ある種危機感を持つ類いの次期王である。
また、シルファーレイの婚約者が、権力争いとはほぼ無縁の家の出身の出であり、外戚となることによって幅を利かせることはまず不可能という事情もある。その点、ルイスの隣はまだ空席だ。
そこで、彼らはシルファーレイの体の弱さを理由に、ルイシアスを祭り上げ、彼に王位を継がせようと裏で画策している。もちろん、その隣はシャードプス公の愛娘であるエルゼリーヌ。
つまり、聡明すぎる程有能で、もう自分たちの入る隙のない王の下でより、まだ地盤が安定せず、隙のあるそこそこ有能な王子についた方が、自分達の利に走れる――私腹を肥やせる、と踏んだ訳だ。
不名誉な思考ではあるが、元々ルイスは、自ら軍職の人間であると認識しており、上に立つ能力はあっても、政治の才は兄に到底及ばないと自己評価を下している。けれど、優秀なことに変わりはなく、彼の立場は複雑だった。
だから、ルイスにとってこれらの動きは迷惑でしかなく、兄に対して負い目を感じるものでしかない。
ルイスとエルゼリーヌが婚約していたのも、半ばシャードプス公爵の画策であり、それもあってルイスはエルゼリーヌを疎んじていた。
「大方、私共々有力なエーデルシアス諸貴族を始末しようとでも企んだのだろうけど。流石の彼にも、あの展開は予想外だったのだろうね」
まさか、あのような他国の王族をも巻き込んだ大量虐殺未遂が起こるとは思っていなかっただろう。そしてその結果、ルイスの血が危ぶまれるようになる現状も。
ルイスはうなだれて、声を絞り出した。
「…申し訳ありません、兄上。どうやって詫びたらいいのか…」
「やめなさい。君が詫びる必要はどこにもない。…ただ、証拠がないからね。捕らえるのは無理だろう」
ぴしゃりと言って、シルファーレイは紅茶を口に運ぶ。
「この体が健康であれば、と何度思ったか…そうすれば君に辛い思いをさせずに済んだ」
苦笑するシルファーレイの瞳は、どこまでも弟を気遣う色に染まっている。ルイスは唇を噛んで俯くしかなかった。
「ルイスも、シャードプス公の動きには気をつけなさい。…あと、無闇に気を病まないことだよ。君が無茶に走ったら、私達はそれこそ心配で死ぬかもしれないからね」
冗談めかして言うと、シルファーレイは紅茶を飲み干して立ち上がり、扉へ向かう。追って見送るルイスに、彼は扉に手をかけたまま立ち止まって、呟くように言った。
「それでも…君が願うなら、君が願う通りに行動していい。私も父上も、いくら君が心配であっても、定めを覆すことは出来ないから…」
「…兄上…?」
ルイスの怪訝そうな声には応えず、シルファーレイは短く茶の礼を言って出て行った。
ルイスは首を傾げたまま、机の前に戻って、書類を手に取る。
(俺の願い…って…)
兄の言うことは、時々よくわからない。それは、兄が伝えたくないことの時もあれば、単にシルファーレイが知っていてルイスが知らないことを喋る時のこともある。今回は、なぜかどちらもではないか、という気がする。
(俺の願いは、兄上が王座に就いて、善政を敷いて下さること。あとは…)
思わず浮かんだ思考に、ルイスはそっと嘆息した。
(今出て行ったら、確実に母上がキレるしな…それに、あいつと一緒じゃなきゃ、楽しくない)
あのパーティーの後ようやく顔を合わせることが可能になった母親は、ルイスの顔を見るなり泣きだすと同時に凄まじい勢いで怒った。お陰で妹の顔を見ることもままならない内に、母親の体に負担をかけない内にほうほうの体で逃げ出したのである。勿論、後に日を改めて会いに行き、ちゃんと謝りを入れたが。
ただでさえ出奔していたことで、ルイスに対する家族の危機感は強い。今ここで出て行ったら、後が恐ろしい。それに何より――あの少女が共になければ、どうしたって味気ない。
向こうもばたばたしているだろうからと、敢えてルイスも今まで連絡をしようとはしなかったが、やはりどうしているかは気になる。そろそろ手紙でも書くか――と思った時だった。
不意に、耳元で魔術の気配が現出した、と思った瞬間。
『あー、あー。ルイス、聞こえる?聞こえてたら応答をー』
余りといえば余りなタイミングで、慣れ親しんだ懐かしい声が、響いた。
三秒程硬直し、はっと我に返って思わず叫ぶ。
「…リディッ!?」
『あ、良かった通じた。久しぶり』
「ああ、久しぶり――じゃなくて、どうやって!?」
『忘れたの?耳だよ耳』
言われて、はたと思い出した。――完全に忘れていた。ラグから貰った、通信具。
『もうちょっと早く連絡しようかとも思ったんだけどね、そっちも忙しいだろうと思ったし、私の監視も厳しくて。ようやっとラグの所に来れたから連絡したんだ』
記憶と変わらない、はきはきとした喋り方に自然と笑いながら、ルイスは訊ねる。
「ラグの所だとなんで大丈夫なんだ?」
『だってあの結界、許可なしじゃ私以外に解けるのいないし。…あー、いるけど基本的に無気力な奴だし。つまりこうして目に見えない相手と会話する方法もバレずにすむ場所ってことだよ。私がこじ開けたって気付くのは術者のラグだけだしね。つまり私がここにいると解ってるのもラグしかいない。これほど都合がいい場所はない、以上』
…つまりは不法侵入だろう、とは賢明にもルイスは言わなかった。
「ラグは?」
『帰ってきてからこっち、ヴァイスの研究と転移魔術の研究ばっかしてるみたいだよ。今も何か書いてるし』
「本当に研究者なんだな…ヴァイスといえば、ネーヴェはどんな様子だ?」
『元気だよ。もう肉を食べる食べる、これでピュルマが草食だってことになったら真っ先に疑われるよ』
おかしそうに言うリディの台詞に、ルイスも声を上げて笑った。
「懐かしいな…また会いたいよ」
意図せず口から滑り出たのは、そんな素直な言葉だった。寧ろ驚いて自分の口を押さえると、少しの沈黙の後、リディが言った。
『そのことなんだけどさ。…ルイス、自分の身分を捨てる覚悟、ある?』
そんな台詞に、即ちルイスは瞠目した。
「…どういう…意味だ?」
『ルイス、王子だろ?…色々政治的な問題はあるにせよ、一回君は国を出奔した。常識的に言って、二回目は許されないだろ。――まあ、君も私も立場が特殊だから、追放ってことはないだろうけどさ』
リディは淡々と語った。
『それでも、最悪王族の身分剥奪ってことは有り得る。――その可能性を理解した上で、君に、もう一度旅をする気はある?』
ルイスはじっくりとその言葉を咀嚼してから、先程の兄との会話、今のエーデルシアスの状況、自分の立ち位置を考え込んだ。
数十秒の後、ルイスはふっと笑う。
「出来るなら――俺は『ルイス・キリグ』に戻りたいよ。今エーデルシアスは、俺の存在で揺らいでるからな…兄上の為にも、消えた方がいいとすら思う」
自嘲的な台詞に、しかしリディは大して頓着した風もなく続きを喋った。あるいは、それが彼女の気遣いだったのかもしれないが。
『私は、あのメルセイエデスの言葉の先を知りたい。まだ、世界を見たい。ルイスもそうだと考えていい?』
「――ああ。俺は、出来るならお前と一緒にそれを見たい」
魔術で繋がれた空間の先で、明るい笑い声が上がる。
『同じだ。じゃあ、ルイス――』
続く言葉に、ルイスは眉を寄せた。
『今日の深夜、荷物を纏めて、君の部屋の窓際で待ってて。出来れば窓開けて』
リディはそう言って、一方的に通信を切った。どういう意味だと問い返す暇もなかった。
仕方なく、何もわからぬままルイスは周りの者に気づかれないように旅支度を整え、背後の窓を開け放って椅子に座っている。
しかし、一体どうしようと言うのだろうか。この間の一件を踏まえて、今まで申し訳程度だった城の結界は強固に張り直され、いかなる邪悪なものも魔術も簡単には通さないものになった。つまり、風魔術を使って侵入するのは不可能。かといって城内に単身侵入し、ルイスの部屋までたどり着くのも不可能。全くわからなかった。
「何考えてるんだ、あいつは…」
ひとりごちて、窓の外を振り向く。真夜中を少し回った今、明るく円い月が中天を少し過ぎた位置で夜の闇を照らしている。灯りを消したルイスの部屋は、しかし充分な程月の光が補足していた。
大体、満月の夜に逃亡なんて無茶だろう――と、ルイスが嘆息した時。ふっ、と 辺りが暗くなった。
「……ッ!?」
否、違う。部屋へと射し込む月の光が、遮られた。夜空に浮かぶ、それによって。
「やあ、ルイス。迎えに来たよ」
それの首もとに跨って、リディがにやりと笑う。首にはストール、実用性重視のショートパンツにロングブーツという懐かしい格好そのままに、しかし赤い髪は一年前になった時より更に短くなって。
「おま…それ、」
言葉にならないルイスの声の原因を、的確にリディは察した。というか、確信犯なのだから当然だが。
「ネーヴェだよ。綺麗だよね」
リディが跨るそれ。薄青く輝く鱗を持つそれは、今まで見たものより大分小さいものの、確かに――竜だった。
長い首に、薄紫の瞳。翼を含めた横幅は六メートル程で、縦幅は尾を含めて凡そ四メートル前後だろう。蝙蝠のような翼は、一定の高さを保つために力強く羽ばたいている。胴体の首の少し下の部分から翼の前にかけては、頑丈そうななめし革が巻かれていて、そこから手綱というよりかは、掴まるためのものと思しき革の紐が伸びていた。なめし革の一番翼側には膨らみがあり、どうやら馬の鞍のような役割を果たしているらしい。
そういえば、とルイスはかつてメルセイエデスに聞いたことを思い出す。ひと月もすれば、人を乗せて飛べるようになる――確かそんなことを言っていた。
呆れるよりもおかしくなって、ルイスは笑い声をあげた。
「まさか、こういう手でくるとは…予想だにしなかったぜ。ネーヴェ、久しぶりだな」
「だろ。それより早く乗って。結界のせいで目隠し張れてないから、バレてる」
はたとルイスも気づいた。この満月の夜に、そこまで大きくないとはいえ、三メートルは優に越すこの巨体。…バレない訳が、ない。
図ったように、ドンドンと部屋の扉が叩かれた。
「ルイシアス殿下!今、そちらに竜が!ここをお開けください!!」
「…やべ」
鍵をしておいて良かった、と密かにほっとしながら、ルイスは慌てて荷物をリディに投げ渡し、勢いをつけて窓の縁を蹴る。危なげなく自らの後ろに跨ったルイスに、リディは悪戯っぽい笑いを見せた。
「挨拶はいい?王子様」
「そういうのは自分がやってから言うんだな」
「ごもっとも。――ネーヴェ」
とん、と軽くリディが竜の首の背を叩くと、竜は一声鳴いて首を返し、方向を変えると一際大きく翼をはためかせ、ぐいっと高度を上げた。
リディからひょいと投げ渡された太い革紐を掴んで、鞍の滑り止めとともに重力に耐える。その直前、扉を破って部屋に突入したらしい騎士の、呆然とした顔に笑いが込み上げ、ルイスは肩を揺らした。
「あのあと家に戻ってから直ぐにネーヴェで飛んだんだ。その時は目隠し張れたから…今頃大騒ぎだろうな」
着いてから驚かせたかった、というリディに、
「充分驚いた」
とルイスは笑いながら言った。少しの間上昇を続けたネーヴェは、やがて体を水平に戻し、その場で停止する。
眼下に映る城と、広い街並みを、少しの間ルイスは無言で眺めた。やがて、
「…よし。行こう、リディ」
「もういいの?」
見納めになるかもしれないよ、という言葉にルイスは頷く。
「ああ。捨てる訳じゃないからな。…この国の姿は、俺の中にちゃんとある」
だからいい、と言えば、前を向いたままのリディが微かに笑った気配がした。
「じゃ――行くよ!『自由時間』、再開だ!」
少女の快哉と、青年の歓声と、若い竜の嬉しそうな鳴き声と。それを一瞬だけグリアンの空に響かせて、彼らはエーデルシアスの夜空を飛翔していった。
―――――――――――――――――
「…行きましたか」
遠く空を、目を細めて見上げ、シルファーレイは呟いた。先程から城内は竜が現れたと大騒ぎで、街も深夜とは思えぬほどの喧騒を放っている。
「しかし派手にやったな。これは噂を適当に流すのが大変だぞ」
シルファーレイの向かいで、彼の父親は赤いワインを揺らしながら肩を竦めた。
「あの少女――リディエーリア嬢も、よくやる」
まさか弟に、「出て行ってもいい」とそれとなく伝えたその日に迎えにくるとは。弟はわかっていなかったようだけれど。
「まさか、自分の息子が『原初の運命』だとはな。全く人生とは面白いものだ」
「前から片鱗はありましたが、いざ突きつけられると…」
この部屋にはシルファーレイとシージスしかいない。そしてこの話は、彼ら二人しか知らない事柄であった。
「『黒』の運命…。総じて色の薄い我が家にあって、あの漆黒の髪を見てそう思わなかった訳ではない。時に、あの少女を見た時はぎょっとした」
彼ら王族に伝わる伝承。それを知る者は王族の中でも、王位継承者のみに限られる。
並び立った黒と紅の色彩に、アルフィーノ王もアーヴァリアン王弟も、どこかで感じるものがあった、と帰途に着く直前に口にしていた。
「各地から上がる報告に、厭な予感はありましたが。現実味を肌で味わいましたよ…。二人の存在と魔族の出現でね」
シルファーレイは短く嘆息し、それまで口に運んでいなかったワインを一息に干す。
「我らも、覚悟を決めなければいけませんね」
―――――――――――――――――――
「――クレイグが死んだそうです」
薄暗い地下の部屋で、入ってきた男は、おもむろにこちらに背を向けて座る男にそう報告した。座る男――白い髪を長くのばし、先の方だけ括っている男は、僅かな沈黙ののち、そうか、と呟くように応じた。
「やはり、変えられぬか――『原初の運命』は」
「そのようで」
「何も知らぬクレイグならばもしや――と思ったが」
「どうやら魔族に止めを刺されたようです。追い詰めたのは黒と紅のようですが」
「魔族――エカテリーナだったか。信用ならんのは魔族の特徴だな」
「そのエカテリーナですが。なにやらイグナディアで細工をしているようですが、放っておいてよろしいので?」
男はうっそりと嗤った。
「放っておくも何も、我々には関係ないだろう?むしろ、王族どもの眼をそちらに惹きつけてくれるのなら好都合というもの。邪魔をされずに済む」
その点、クレイグの里は残念で会ったな、とあくまで他人事のようにひとりごちると、白髪の男は厳かに下した。
「計画通りに進めよ。――決して手ぬかるでないぞ」
「心得ております」
男は一礼すると、部屋を出て言った。一人に戻った男は、読んでいた紙面を見つめ、不意にクッと嗤う。
「我々もお前達も、定めからは逃れられぬようだな、ロウリィ。――だが」
定めの果てに勝つのは我々だ。
狂気のにじむ哄笑は、高らかに地下一杯に広がっていったのだった。
――――――――――――――――――――――
「再び発った、か」
二人の若者が竜の背に乗り、飛んでいくさらにその上空で。銀髪の老婆は小さく呟いた。
地上からは砂粒ほどにも視認できないだろうその高度で、強く吹き付ける高所風の中、しかし老婆は僅かも揺らがず立ち尽くす。艶やかな銀の髪ですら、風の影響を受けていないようだ。
「此度のことで、各地の王族も認識したじゃろう――定めの刻は近いと」
二人目の魔族の介入は、彼女にとっても想定外だったが、逆に刺激になったことだろう。そして、あの一族の蛇のような地下での動きは、どんどん速度を増してきている。もう、猶予はなかった。
「ルイス、リディ――その時が来るまで、死ぬでないぞ」
大陸の遥か、遥か昔に熾り、同時に定められた終焉。その刻はもう、遠くない。
第八話終了です。大きく話全体を分けるなら、二幕構成の一幕が終わったというところでしょうか…。
王族長子だけがこの話の根幹を知っていますが、主人公二人が知るのはかなり後になってからです。必然的に、明かされるのも後ということですが…
このあと、軽い番外編というか過去編を載せられたらと思います。多くて三話ですが。それが終わったら、休載という形をとらせていただきます。
詳しくは、番外編掲載後に活動報告でもう一度書きたいと思いますので、気にしてくださる方はそちらをご覧いただけると幸いです。