第八話 発覚と未来 (5)
第八話 発覚と未来(5)
朝。まだ陽が地平線から顔を出し始めたばかりの時、リディは目を覚ました。
「…柔らか…」
旅の中で、柔らかいベッドで眠ることは殆どない。貴族のリディから見れば、宿屋のベッドも大抵固いからだ。それに文句を言うほどリディはお嬢様気質ではなかったが。
一瞬自分がなぜこんな柔らかいベッドに寝ているのか把握しかね、次いで記憶に顔をしかめた。
そうだった。見つかったんだった。
ベッドから音を立てずに降り、閉まっているベランダに通じるガラス戸へ歩み寄った。その途中で、ソファの上の、クッションが敷かれた籠の中で微睡んでいたネーヴェが、耳をピクリと動かして、頭を上げた。
「おはよう、ネーヴェ」
囁くと、大きな欠伸をしたネーヴェは体を震わせて伸びをし、ぴょんと跳躍してリディの肩に飛び乗った。
微笑んでその頭を撫で、リディは観音開きのガラス戸を開ける。冷たい風がひゅうと吹き込んできた。
「もう、秋も終わりか…」
バルコニーに出て、冷たい空気に身を晒しながら、リディは手すりに身を預けて日の出を見つめた。
昨年の秋、家出してから一年と少し。本当に、色々なことがあった。
ルイスと出会い、各国を旅し。竜を狩り、魔族と遭遇し、大物の魔物を狩り。ゼノの王位交代劇を手伝い、最高位の竜と出逢い。
「…本当に、色々あったなあ…」
自分で思い返していて、なんだこの驚天動地の旅はと呆れてしまった。
時間は長くはないが、短くもなかった。ただし中身は濃厚で、普通の人間の三倍くらい騒動に巻き込まれたことは安請け合いだ。…一年前の自分なら、ここでもう満足したかもしれない。けれど。
「…まだ、旅を終える訳にはいかない」
徐々に明るくなる朝の光の中で、リディは小さく呟いた。肩の上のネーヴェが、じっと彼女を見つめる。
「まだ、知らなきゃいけない事がたくさんある…そうだろ、ネーヴェ」
ぴゃんとネーヴェが一声鳴いた。
そうだ。この子は、託されたのだ。優しい優しい目をした、あの竜から。
あの竜は、旅を続けろと言った。ネーヴェとヴァイスを自分達に託し、その核を与えて。
彼女がどうしてそこまでしたのかは、わからない。教えてくれなったから。けれど彼女は、旅の先に答えがあると言った。――ならば、彼女に報い、意志を継ぐ為にも、今ここで止まる訳にはいかないのだ。
「…どーにかして、抜け出さないと」
が、今はそれはもう厳重に警戒されているだろう。現に今も、どこかから複数の視線が向けられている。ルイスも同じかこれ以上に違いない。
「…しばらく様子見だな」
迂闊に動けば瞬殺ならぬ瞬獲される。ルイスの体面もあるし、王女生誕記念式典への出席は避けられないだろう。
「ああ、めんどい…」
着飾るのかと思うと今からうんざりだ。採寸だけであれだけ疲れる。化粧は顔がベタつくし、ドレスは動きにくいし嫌いだ。…まあ、一種の罰と思って受け入れよう。それが終われば少しは監視も和らぐ…と信じたい。
「ごめんねネーヴェ。しばらく我慢してね」
ネーヴェは、仕方ないなあ、とでも言うようにもう一度高く鳴いたのだった。
――――――――――――――――――――
ルイスは早朝から、やってもやっても終わりそうにない仕事に心身ともにぐったりしていた。罰ばかりは他人に手伝いを頼む訳にも行かず、文句を言える立場でもない。
しかし他人からいかに有能と言われても、ルイス自身は自分の天分は戦闘だと認識している。ずっと座って書類仕事は苦痛でしかなく、体を動かしたくて仕方がなかった。
集中力にも限界が見え始めた頃、扉が軽く叩かれた。
「なんだ」
「失礼しますよ、ルイス殿下」
億劫気に出した声に応じたのは、軽い声の持ち主だった。よく知る声にルイスは驚いて手を止め、ドアを見る。
「ギルバート…?」
ギルバートと呼ばれた、ルイスと同じくらいの年齢の男は、戸口でにっと笑い、軽く手を振って扉を閉める。
暗緑色の眼が、五体満足のルイスを見て嬉しそうに笑む。」
「どーも。お帰りなさいませ、殿下。いつ帰ってくるかと心配してましたよ」
「…耳が早いな。兄上か?」
「そーです。しかしあなたも無謀なことをなさることで。俺、聞いた時爆笑しちゃいました。陛下の前で」
「お前は少し慎みを持て、騎士団副団長」
ルイスは書類を片付けて立ち上がると、久々に会う、臣下であり、数少ない友人の肩を叩いた。
「久しぶりだな、ギルバート。心配掛けたか」
「いーえ。殿下なら無事だと信じてましたから」
精鋭であるエーデルシアス騎士団の副団長を務める男は、なんでもないようにルイスの肩を抱き返した。
「陛下から多少話は聞きましたけどね。ほんとに殿下は面白さの絶えない人だ。常人の一生分くらいのもめごとは三日でクリアしてるんじゃないですか」
「黙れ。俺もどうかと思ってるんだから」
一休みということで侍女に運ばせた茶をルイスはすする。ギルバートはいやいや、と首を振った。
「あれですよ。殿下はトラブルメーカーに間違いないです」
「斬られたいか?」
おおおっかない、とおおげさにギルバートは身震いする。それから真面目腐った顔で言った。
「でもわかりますよ。――殿下、強くなられた」
「……」
「前も十分強かったですけどね。一年前とは大違いです」
ルイスはふっと息を吐く。
「今ならお前から一本くらいは取れるか?」
「…そですね。一本どころじゃ済まない気もします」
思いのほか真面目な答えが返って来て、ルイスはひそかに眉をあげた。
数少ない友人であるこの男は、エーデルシアス国内でも中流階級の出である。しかし、幼いころから突出した剣の腕で騎士団に入団し、十八という異例の若さで副団長に就任した。
自然、年の近いルイスとは鍛錬を共にすることが多く、宮中に渦巻く人の暗い念にいらいらしていたルイスを、その飄々とした性格でいなし、上手く発散させていたのが二人の始まりだ。
だが昔から、ルイスは剣においてこの男に勝てた試しがなかった。
「…それは嬉しい知らせだな。あとで手合わせ願おうか」
「いいですねー。でもそれより殿下、書類何とかしてくださいね」
にこにこと発されたセリフにルイスは撃沈した。わざとか。わざとだ。
その時、こんこんと扉が叩かれた。応答すると、がちゃりと扉があいて、若い仕官が顔をのぞかせる。ルイスを認めて安堵した顔になり、失礼します、と礼をとって入ってきた。
サイドテーブルに追加された書類の山もさることながら、その顔に見覚えがなかったルイスは、眉をあげた。
「見ない顔だな。誰だ?」
薄い茶髪に、温和そうな顔立ちをしたその仕官は、人好きのする顔でにっこりと笑った。
「半年ほど前より、市場管理府の大臣補佐をしております、ミハエル・ハイムリヒ・フォイルニスと申します。ルイシアス殿下におかれましては、以後お見知りおきをお願いしたく」
「ミハエルは優秀ですよー、殿下。こないだも滞ってた小麦の供給、半日で修復してましたから。将来有望株ってやつかも」
「ギルバートさん、買いかぶりですよ」
照れくさそうにはにかむ青年に、ルイスも相好を崩した。若い人材は、これからの兄の治世において必要なものだ。
「そうか。長らく城を空けていたため、無知を許してほしい。これからも兄上を頼む」
「仰せのままに、ルイシアス殿下」
至極礼儀正しい礼を残し、ミハエルが部屋を去ったあと、ルイスはギルバートを見遣る。
「お前が文官に目を止めるなんて珍しいな」
「あのひとたまに、体ほぐしたいって言って鍛錬場に来るんですよ。へっぽこですけどねー」
言い置いて、さてとギルバートは立ち上がった。
「俺も騎士団に戻ります。殿下もそれちゃっちゃと片付けて頑張ってくださいね。待ってますから。ま、今日中は無理だと思いますけど」
「お前は一言多い!」
あはははと軽く笑いながら去っていくギルバートに舌打ちしつつ、ルイスは随分軽くなった思考で書類に向かい合った。
「…さて、出来るだけ早く終わらせないとな」
約束もあるし。
そう呟いて、再びルイスは書類の山との終わりなき戦いへと突入したのであった。
―――――――――――――――――
その日、リディはエーデルシアスの騎士に王宮内を簡単に案内して貰った。…王宮は、信じられないほど広く、複雑だった。一人歩きしたら絶対迷う、とリディは顔をひきつらせたが、広さの面ではオルディアンの王宮とどっこいどっこいであることに彼女は気づいていない。
歩く内に、王宮内の各所で各国の使者らしき人をちらほらと見かけた。主賓は王族と言っても、その護衛やら、国によっては外交官などが付随して来ている。また、昼間はエーデルシアス国内の各貴族も訪れている為、必然、今のエーデルシアス王宮は人口密度が高くなっていた。
歩きながら、リディはエーデルシアスの騎士に訊ねた。
「十三ヶ国全部の王族が集まったの?」
「あ、いえ…フェルミアとザイフィリアは欠席で…イグナディアとラーシャアルドの方はまだです。地理的な問題で…。でも今日か明日にはお付きになられる、と」
大陸南西にあるラーシャアルドと、北西にあるイグナディアは、東部に位置するエーデルシアスからは遠い。王女の臨月を迎えた時点で手紙は各国に送ったらしいが、それでも限界はあるのだろう。
「ラーシャアルドからは誰が?」
「あ、ええと…第二、第三王子殿下達と聞いておりますが」
ふ、とリディは真顔になり、騎士に問いを重ねた。
「…第三王子?…じゃあ、ゼノからは?」
「は、ゼノからは新女王自らいらしています!とてもお優しく聡明な方と伺っています」
騎士は慌てたように答えた。どうやらオルディアンとゼノの不和を心配したらしい。リディはくすりと笑って否定する。
「別に害意はありませんよ。過激派の父王を諫めて王位に就いたのでしょう。親しみこそあれ、敵意などあるわけもない」
言いながら、胸の内ではリディはにやついていた。
(アルがわざわざ参加するのは、十中九セレナのお陰だ。これは楽しくなりそう)
エーデルシアスの騎士がほっとする傍ら、長い付き合いのゼリクは彼女がやたらと楽しげなのを正確に読み取り、無言で目を逸らした。
一通り城内を案内してもらい、その芸の細かさにひとしきり感嘆しとおしたところで、ふとリディは騎士に訊ねた。
「ルイス――じゃなかった、ルイシアス殿下はどうなさってます?」
ルイスとリディの関係を知らない騎士は驚いた。第二王子の女嫌いは有名で、それでなくても愛称で呼ぶ者など、両手にも満たない。
だが慌てて気を取り直し、答える。
「殿下は今は書類仕事をなさっていると聞きました。諸国漫遊の間積もりまくったものを片付けているらしく」
「…成程」
リディは哀れみの表情を浮かべた。…自分と違って仕事も義務もたくさんあるルイスに同情した。そして、知らずにのんきに城内散策をしていたことに僅かながら罪悪感を抱く。少し悩んでから、リディは騎士に頼んだ。
「殿下の部屋に案内して頂けますか?」
「リディ?」
「やあ、ルイス。…大変そうだね」
机の上を占める書類山脈にリディは心底同情の色を示し、失礼しますと扉の外の騎士に声をかけて、室内に入ってきた。
「うわー…」
扉を閉め、改めて机の惨状を見てリディは呻いた。
「私、今本気で君を尊敬した。私だったらこんなの丸投げして逃走する」
「義務だからな。俺達は民の税で生きてる。ここに戻ってきた以上、ちゃんとやらないとな」
ルイスは苦笑いして答えるが、その間も手は止めない。彼の頭の中には、ロハスの狩人協会長の言葉が蘇っていた。
(力を持つ者には義務がある…って言ってたな)
ならば、力だけに執着し、義務を怠る者は。力だけを得る為に、悪事にも手を染めるような輩は。
「切るべきなんだろうな」
呟かれた言葉にリディは首を傾げたが、特に聞き出す心算はなかった。代わりに白い山の一つに手を伸ばし、ぱらぱらと捲る。
「ねえ、ルイス」
「何だ?」
「手伝おうか。仕分けだけだけど」
ルイスは驚いた。が、リディの目は特になんの気負いもない。
「見ちゃマズいものって入ってる?」
「…いや、ない。けどお前、出来んのか?」
仕分けとは、聞くだけなら簡単に聞こえるかもしれないが、その実かなりの判断力と知識を必要とする。経験もないと無理な仕事なのだが――。
リディは不敵に笑ってそれに応じた。
「見くびるなよ。伊達に馬鹿王子の仕事を何年も手伝ってる訳じゃない」
――それから数時間。合間に夕食を挟んだ以外は二人とも殆ど無駄口を叩かず仕事に徹し、戦闘時張りのコンビネーションを発揮して山を着実に減らしていった。
まだルイスの帰還は貴族達には知らされていないため訪れる者は無かったが、ルイスの部屋付きの侍女達は、その様子を目の当たりにして絶句した。筆頭侍女は、長年王宮に仕え、夫も子供も王宮勤めのベテランの中年女性で、侍女の中でも肝が太く、滅多な事では驚かないと評判だが、その彼女をして、その部屋の様子にはあんぐりと口を開けた。その後ろに付き従っていた二人の若い侍女は言わずもがなだ。
定時にお茶の用意をして部屋に入ってみれば、そこにいたのは第二王子だけではなかった。簡素なサラフを身につけただけの、その年の女性としては洒落っ気の一切ない少女が黙々と仕分け作業をしていたのだ。
一瞬何者かを思案し、その見かけない鮮やかな赤い髪と、まだ幼さの多少残る美貌に、すぐさま昨日訪れた隣国の公爵令嬢と思い至る。しかし若い年頃の男女が目すら上げず、それぞれの作業に没頭する様は異様だった。
(…もう一つお茶の用意をしましょう。あと、甘いものを)
どうすべきか考えた間は一瞬しかなく、侍女頭は素早くそう若い侍女に指示を下し、間もなく二人分の茶菓子が用意されたものの二人が手を伸ばす気配はなく、仕方なしにそろそろと部屋を出て行ったのだった。
また部屋の護衛に転じたゼリクは、あんまりといえばあんまりな彼らの姫に、そっと天を仰ぎ、元から護衛を勤めていた騎士に同情された。
真円に程近い月が、頂点まで三十度を指す頃。ようやく溜まりに溜まっていた白い書類山脈が、元の茶色い机平野に姿を取り戻した。
「終わったあー…」
ルイス本人よりよっぽど疲れた声を上げて、リディはソファにぼふっと沈み込んだ。文字を追いすぎた目が痛い。ルイスが苦笑して、騎士に最後の書類を持って行くように頼み、今更のように冷め切った紅茶を飲み干した。
「俺もまさか一日で終わるとは思ってなかった。ありがとな」
「どういたしましてー」
ぱたぱたと手を振り、…それ以降二人共沈黙した。ソファに沈み込んだまま、リディの額に冷や汗が浮かぶ。
(そ、そういえば私達――)
誘拐並びにルイスの正体発覚のどさくさに紛れていたが、シュリアグランデの最後の記憶では口論していた。しかも今考えると、凄く下らない事で。
(ってか何だ私、ルイスが幻覚にころっと引っかかった事になんかムカついたんだっけ?幻覚って――そうだ、大切な人の顔――)
ずき、と胸の奥が軋んだ。訳も解らず何かがせり上がるような感覚を覚える。
(わけわかんない…)
俯いたままでいると、不意にルイスの声が響いた。
「リディ」
「…なに?」
まともに目を合わせたらなにかが溢れそうで、上目遣い気味にリディはルイスを見た。しかし月を背後にリディを見つめる蒼い瞳に、吸い寄せられるように目が合わさる。
「悪かった。シュリアグランデで、あんな風な言い方をして」
出し抜けに言われた言葉に、リディは目を瞬く。
(えっと…何言われたんだっけ)
確か、戦闘中に油断するな、と怒鳴られた気がする。
(もっともじゃん!)
あれはどう考えてもリディのミスだ。ルイスの叱責も当然である。何故か苛々して言い返した自分にリディは愕然とした。
「え、あ…いや、あれは私が悪いよ。ルイスは間違ったことなんて一つも言ってない」
大体、あのサキュバスは、わざわざ人が油断するような幻覚を選び抜いて使っているのだ。なんの予備知識もないまま相対して、動揺しなかったら人間出来過ぎだ。
サキュバスの幻覚のことを思い出してまた若干心が沈んだリディに、躊躇いがちにルイスが言葉を紡ぐ。
「いや…他にも言い方はあった。ただ、無性に苛々して――」
…ルイスも苛々していたのか。それは知らなかった。でも、何故?
リディの視線の先でルイスはぐしゃっと前髪を丸め、あーとかうーとか呻いていたが、やがて何かに押されるように零す。
「お前の目に見えたのは、誰だったのか――とか、余計なことばっかり頭にチラついて」
……。それって、どういうことだろう?
(私が見たのは、ルイスだ)
ルイスを殺そうとしたあの淫魔を探しながらも、目を覚まさないルイスが心配で、もしかしてもう覚まさないんじゃと考えると恐怖が押し寄せた。だから、これだけ考えてたんだからルイスの顔が見えたのも当然だ、と思う。
なのにルイスは、リディが見たのは誰かと言う。そんなの、訊かれるまでもない。
「私は――」
ルイスが見えた、と続けようとするのを、ルイスが遮る。どこか熱を持った瞳がリディを見据えて、俺は、と囁くように言う。
「俺は、リ」
その先の台詞は、何もかもを吹き飛ばすように勢い良く開け放たれた扉によって紡がれることはなかった。
「はっ!?」
目を点にして振り向けば、目に映ったのは鬱陶しい程長い金髪。
「リディ――!!こんなところにいたのかい!?僕に何も言わずにいつまで経っても帰らないから、心配で――」
「~ッ、うっざいわこの色馬鹿兄貴がっ!!」
避ける間もなく抱き付かれ、最初は呆気に取られていたリディも後半は顔を歪め、最後には蹴り飛ばした。
「私の行動は私が決める!一々気にかけないでいい!!」
息も荒く叫んでからふとルイスを見れば、なんだかとても脱力していた。がっくり、と言うのもおこがましい沈みっぷりだ。
「どうかした?ルイス」
「いや…」
力なく首を振り、ルイスはうなだれる。何やらぶつぶつ呟いているのがなんだか哀愁を誘い、リディはふと思いついて言った。
「ねえ、これから少し鍛錬しない?今朝出来なかったし」
その言葉にルイスは顔を上げ、しばし黙考してから頷いた。
「いいな。肩も凝ったし、やるか」
「リディ、君は何を…」
「煩い。ただの気晴らしだよ。私は戦闘職種なんだから」
止めようとしたサーレクリフをあしらい、リディは自身の武器を取ってくるためにルイスの部屋を出て行った。
リディの背を見送り、さて、と重い上着を脱いで肩を回しながら、ルイスは知らず苦笑した。
(…言おうと思ったんだが。…邪魔されたなあ)
絶対確信犯だ。とサーレクリフをちらりと見る。と、見事に目が合った。
常は甘く微笑みを象る金色の眼が、いっそ冷たささえ宿してルイスを見据えていて、ルイスの背をひやりと撫でる。
「…君はあの娘をどうしたいの」
女性に対しては優しく、睦言でも喋るかのような声も、今はひんやりとして色味がない。
あれだけ、本人に対して言うのに煩悶とした言葉が、ルイスの喉から滑り出た。
「好きですよ」
ぴくりとサーレクリフの眉が寄る。ルイスは怯まず、微笑を浮かべた。
「本人がどう思ってるのかは、わかりませんけど。俺は、彼女を愛してます」
サーレクリフの纏う空気が、ますます冷たさを増した。…立ち居ふるまいから単なる貴族だと思っていたが、どうやら大きな間違いだったらしい。この顔を常に隠し持っていたのだとすれば、演技力にかけては、リディのはるか上だ。
(あいつの兄なだけある――立派な戦闘職種だ)
考える以前に、彼もほぼ王族の直系なのだ。そこらの狩人より余程強い事に間違いはなかった。
「そう。…君は知っているの?あの娘が『誰』なのか」
「知ってますよ。…『烈火の鬼姫』でしょう」
間髪入れずにルイスは答えた。サーレクリフの眉が更に寄ったが気にしなかった。
「あの娘が言ったの」
「いいえ。俺が自分が誰かを言わなかったように、彼女も言いませんでした。でも俺はゼノで気付いて――彼女も俺が気付いた事には気付いたでしょうが、特に何も話しませんでした」
「へえ。じゃあ君は、『氷の軍神』である君と、『烈火の鬼姫』のリディなら釣り合いが取れる、とでも?」
初めて、ルイスの顔から笑顔が消えた。蒼い瞳が眇められ、サーレクリフを睨み据える。
「それは、俺だけでなくリディに対しても侮辱です。釣り合いとか、力とか。そんなの俺と彼女の間には何も関係しません」
怒気すら籠もるルイスの声に、サーレクリフは若干詰まった。数秒の沈黙の後、冷たさが少し薄れた声で、再び問う。
「君は――あの娘を、どう愛している?エーデルシアスの第二王子として?男として?」
何を今更、とはルイスは言わなかった。彼らの間でそれは重要なことだからだ。
王族の結婚は、大抵が政略だ。アルとセレナの場合は異例と言っても良い。政略結婚の後幸せな家庭を築く場合も少なくないから、一概にそれが悪いとは言わないが、そこに某かの意志が介在する事は否めない。
だがルイスは一笑に付した。
「『氷の軍神』と『烈火の鬼姫』ですよ?下手をすれば大陸中の格好の攻撃材料です。もし俺が他国の者なら、なんとしてでも防ぐでしょうね」
彼ら二人がもし結ばれれば、それはただでさえ強大な力を持つエーデルシアスが、更に凄まじい力を誇る事に繋がる。同じく大国であるオルディアンとも事実上、これ以上ない同盟を結ぶ形となり、他国はその事に間違いなく危機感を抱く。最悪、エーデルシアス・オルディアン対他十一ヶ国となってもおかしくはない。
でも、そうなるかもしれない危険性を承知していても。
「俺は一人の男として、リディを愛してます。誰にも否定なんかさせない」
ルイスはそう、断言した。
「遅かったねルイス。なんかあったの?」
ルイスが、日中は騎士達が鍛錬に使用している場所へ着いたのは、二人が別れてから大分経った後だった。
待てどもルイスが来ないので、リディは一人型の反復に励んでいたが、彼が来たことでその手を止める。
「いや、ちょっとな」
肩を竦めて見せるルイスの顔は、確かに疲れを浮かべているのにどこかすっきりとしている。
(さっきは別にあんな顔じゃなかった気もするけど)
リディは首を傾げたが、元々細かい事は余り気にしない質だ。そ、とあっさり頷いて、ルイスから数歩離れて剣を構えた。
しんと静まり返った鍛錬場。少し離れたところにある騎士団の宿舎にそれなりの人の気配を感じるが、そろそろ就寝時刻なのもあって、自主練をする者は一人もいない。
騎士団の朝は早いのだ。そろそろ真夜中というこの時間では、夜明けに起きる彼らに取って遅い部類に入る。それでも普段なら皆起きていてもおかしくはないが、今は大事な時期だ。団長麾下、全員割り振り通り寝起きしているのだろう。
まあなんにせよ、誰もいないのは都合が良い。一応今のリディは『公爵令嬢』だ。
…ならこんなことやんない方がいいんじゃ、という理性の隅の囁きは綺麗に無視して、リディはルイスに向かって地を蹴った。
主にバレないように、物陰から二人の様子を窺っていたゼリクは絶句していた。
奔る銀色の光、静止することなく地面を弾く足捌き。王子の容赦のない剣先を最小限の力で受け流し、逆に間合いに踏み込む身のこなしと剛胆さ。並外れた跳躍力と、生来の素早さと歩法とを重ねた驚異的なスピード。
「リディ様…」
エーデルシアスの第二王子は強かった。剣に力と速さがしっかり乗り、攻勢には反撃する余裕を持たせず、守勢には隙がない。
もし自分が立ち会ったとして、勝利を手に入れられるかと言えば、迷った末、否と言わざるを得ない。
しかし目の前でかの王子と剣を交すリディは、明らかに対等に戦っている。しかも、攻撃の手は王子より上だ。守勢は甘いが、守勢に回る隙を見せない矢継ぎ早の攻撃と足捌き、見切り。
見た目はたおやかな少女であるのに、どこからあんな剣閃を繰り出すのか、と常日頃から思っていたが、全てに置いて、一年前よりキレも速度も格段に上昇している。
しかも、それを王子は冷静に弾き、正確に防いで剣を返し、攻撃を仕掛けている。悔しいが自分なら瞬時にガードを崩されて負けを喫すような突きを、しっかり見極めて弾き、さらに攻めている。
ガサ、と微かな物音がして顔だけ振り返ると、サーレクリフの姿を見咎め、ゼリクは驚いた。
「サーレクリフ様」
「……」
ゼリクの小声に無言で応じ、サーレクリフは目の前の剣戟を眺めた。先程から絶え間なく続く金属音。闇の中で、剣は銀の光にしか見えない。
「あの子は…強くなったね」
囁くような声音に、ゼリクは頷いた。
「ええ…剣に迷いが見られない。本当にお強くなられた」
サーレクリフはそれには返事をせず、黙って二人を見続ける。
『俺はリディを愛してます』
先程の青年の声が甦る。どこまでも彼の眼は本気だった。妹一番のサーレクリフが、妹を任せてもいいかもしれないと揺らぐ程に。でも、
「…どうせあの子は気付いてないんだろうね」
昔から恋愛に関しては悲劇的に鈍い妹だ。サーレクリフらが潰すまでもなく自分で知らない内に叩き払った数、数知れず。
「…まあ、君次第だ」
面白くないが、妹もまんざら皆無というわけではなさそうだ。文字通り、後は彼の行動如何だろう。
くすりと笑った主に、ゼリクは本日何度目がなため息をついたのだった。
カァンッ、と一際高い音を立てて剣が弾き合い、二人は同時に飛びずさった。軽く肩を上下させながら睨みあい――時を同じくしてふっと剣を下ろした。剣を鞘に納めた後、リディはどさりと地面に腰を下ろす。
「熱が入りすぎたね。ちょっと疲れた」
「あれだけ書類仕事やった後だしな。でも大分鬱憤が晴れた」
リディに向かい合うように座ったルイスも同意し、しばし無言で二人で空を見上げる。
「…なんか、自分が意外。こっちの生活に戻ったことが」
「平和が信じられないか?…ここはここで戦場だが」
付け足された呟きを、リディは少し間を置いて理解した。
「…やだな。私社交界、嫌いなんだよね」
「病弱設定まで作ってたんだから相当だよな」
「……。だって私、情報戦とか得意じゃないし。家柄に媚売ってくるうざい奴もいるし。特に男はしつこい。婿狙うったって、うちには兄貴がいるから無意味だってのに」
「……」
それは家柄に対してじゃなくお前自身に興味があったからじゃないのか、とはルイスは言わなかった。代わりに、
「ならまたやるか?虫除け」
と言った。リディが怪訝そうに首を傾げる。
「虫除け?」
「ビグナリオンでやったろ。お前は男が厭、俺は女が厭。なら俺達が一緒にいりゃ、大分減るだろ」
その台詞に後ろで何か騒ぎが起きたが、ルイスは敢えて無視した。抑えてくれたらしいオルディアンの騎士に感謝だ。
リディはルイスの言葉の意味を把握するなり、ぱっと顔を輝かせた。
「名案!…でもいいの?」
「俺が言い出したんだ、いいに決まってるだろ。…それとこれ」
リディの手を掴んで裏返し、掌に銀の小さな耳飾りを落とす。リディは首を傾げた。
「何これ?」
「メルセイエデスの核だ」
「かっ…」
目を剥いてリディは耳飾りを見つめ、次いでルイスに詰め寄った。
「って、核はもっと大きいだろ!こんな小さな宝石みたいのになる訳…」
「なるんだよ。直系王族の極秘技術だけどな…シルグレイも、リューイとミリアも付けてたろ?お前の国の王太子も、これに似た形の耳飾りか何か付けてないか?」
過去出会った王族達、それにあんまり思考に上らせたくない自国の王太子を思い浮かべ、確かに、とリディは頷く。
「言われてみればしてたかも。…でも、アルとセレナは?そんなのしてた覚えないよ」
「十六歳未満の内は、『それがなんなのか』を知らされない。アルは旅に飾りをするタイプじゃないし、セレナは父親に幽閉されてたから、その時に取り上げられでもしたんだろう」
「…成程。でもじゃあ、なんで私にこれを?直系王族には近いけど、違うし」
尤もな問いにルイスは自分の髪をかきあげて青玉の耳飾りを見せて、言った。
「その核を貰ったのは俺達だからな。俺はこの通り持ってるし、流石に王位継承権を持たないラグにこのことは露出出来ない。つまり選択肢は一つだ」
「成程、諒解。なら有り難く貰うよ。同伴もよろしく」
「ああ」
言いながら、ルイスは誘いがあっさり成功したのが嬉しいような、拍子抜けのような気分を味わっていた。
一般的に、貴族達のパーティーで同伴している者は、恋人や婚約者同士、もしくはエスコート役というのが多い。しかしエスコート役というのは、大抵親族もしくは特に親しい付き合いのある者が殆どだ。リディのエルクイーン家とエーデルシアスは別に親しい付き合いではないし、親族関係もない。それなのに、彼ら二人が連れだっていたら。…何を言われるかは想像に難くない。
そのうち気づけば、リディは怒るかもしれないが、ルイスとしてももう退く気はさらさらなかった。相手は鈍いリディだ。多少強引な手を使っても外堀を埋める。
もしこれをアルが聞いたら、だったらまず告白から始めろよ――とでもいうことは間違いないのだが、『本気の恋愛』をしたことがないルイスにとっては、これが精一杯なのであった。
煩悶するルイスを余所に、リディはふっと眉を寄せた。
(――…まただ)
この国に入った時と、王宮で目覚めた時感じた感覚。
頭を内から引っかかれるような違和感、不快感。ぞっと肌が粟立つような寒気。
「ルイス、今…」
「あ?どうかしたか?」
しかし、ルイスは何も感じていないらしい。リディを見返す瞳は少し丸い。
「……。いや、何でもない…」
三回目ともなれば、気のせいでないのは解っている。ただ、それを感じているのは、どうやら今のところリディだけだ。
ファーデリアでは、二人が二人、そういった感覚を覚えていた。結局全ての人間を救うことは叶わなかったが、警戒することは出来た。
本来ならば、この事をルイスに伝えるべきなのだとは思う。
けれど、エーデルシアスは彼の国で、彼女の国ではない。自分自身だけの微かな感覚だけで、国の頂に立つ者の一人にそれを伝えてしまう事は、躊躇われた。
そして彼女は、ずっと後になってからこの時を思い出し、後悔する事になる。
やたら長くなってしまいました。区切りが見つからず…
vs 兄。
ルイスは恋愛に関してはアルよりヘタレかもしれない。
バカバカ言われてる王太子は、一応どこかの後日談に出てきているヒトです。