第七話 神の愛し子 (2)
第七話 神の愛し子 (2)
リディが彼を案内したのは、リオーラの街の、割合端の方に位置する屋敷だった。一般庶民よりは大分大きいが、貴族にしてはこぢんまりとしているな…というのが第一印象である。おそらくは中級貴族だろう。
さて入るか、と門に歩き出そうとしたルイスを、リディは呼び止めて、屋敷の塀の側面まで移動した。曰わく、「正面はマズい。あれは解けない」とのこと。意味不明だ。
「じゃ、やりますか」
塀を見上げて指を鳴らしたリディを、当然ルイスは慌てて止めた。
「おい、やるって何を!?まさか不法侵入する気か!?」
「だって正面突破なんて、流石に無理だよ。私だけだったらともかく、ルイス結界解読なんてしたことないだろ?」
「…結界解読?」
鸚鵡返しにルイスは訊ねた。
「結界破りじゃなくてか?」
「まぁ本質的にはそうなんだけど。言ってみれば一時解除みたいな。勿論そのまま破ることも出来るけど」
「なんだそれ」
他人が張った結界を破る方法は2つある。
一つ、使用者の魔力切れを待つこと。
二つ、外から強制的に結界の効力以上の負荷をかけて、結界を無効化、つまり破壊すること。
前者は所謂持久戦であり、使用者の魔力が空になってしまえば、保持は不可能。言わずもがな結界は完全に消失する。
後者は所謂力比べであり、対抗者は莫大な魔力を要するが、結界に対して、保持不可能な圧力をかけるのだ。風船が抱き締めれば割れるのと同じ原理で、形から崩壊する。
つまり、一度破ってしまえば、その結界はもはや効力を発揮する事は出来ず、消える。しかし、一時的に無効化するなどという話は、聞いたこともなかった。
「ていうか、この屋敷、結界なんて張ってあるのか?」
屋敷を見上げてルイスは呟いた。確かに門には門番らしき者はいなかったが、中からは人の気配がした。貴族の屋敷なら当然だし、綺麗に手入れが行き届いているのを見ても、決して人が少ないということはないだろう。そこにわざわざ乗り込む強盗はいないし、結界の必要性は感じないのだが…。第一、住まいに結界を張っているのは、王族ぐらいな筈なのだが。
「そうだね…じゃルイス、ちょっと魔術で攻撃してみて」
「は?」
「そしたらわかるよ。いいから遠慮せず」
ルイスはかなり躊躇った。リディが言うとはいえ、対象は民家だ。精霊は封印しているとはいえ、方向を間違えれば間違いなく倒壊させてしまうだろう。しかしリディは無情に催促した。
「平気だよ。ほら早く」
仕方なしに腹を決め、水精霊を呼ぶ。軽く屋根を傷つける程度の威力に調整して、ルイスは氷の刃を放った。
――――が。
「は!?」
それなりの速度を有して飛んでいった氷刃は、塀を超えた瞬間、パキィンと澄んだ音を立てて砕け散った。砕片すら残さず失せた魔術の産物に、ルイスは呆然と立ち竦む。
「今回は消失か。前は反射だったけど…さてどうしようかな」
硬直するルイスの傍らからひょいと顔を出し、リディは顎に手をやる。
「…リディ」
「なに?」
「お前俺で試したな?」
「うん。ごめんね?」
「……っ」
(絶対悪いと思ってないコイツ…!!)
ぶるぶると拳を握り締めて、ルイスは殴りたい気持ちを抑える。リディは彼を意に介さず思案していたが、よし、と頷くと、軽く跳躍して塀に飛び乗った。
「ルイス」
呼ぶ声に応じて、気持ちを切り替えたルイスも彼女の隣に着地する。
そうして気付いた。
「なんだ、これ…」
下からは見えなかったもの。結界が、塀より少し内側に、ぐるりと張り巡らされていた。近くで見ないと気づかない、でも気づいてしまえばその存在を無視できない、複雑怪奇かつ強固な結界だった。
「安心して。こんなもの作れるの、多分ここに住んでる馬鹿しかいないから」
言いながら、リディは小さく精霊を喚んだ。火、風、雷そして聖の魔術が彼女の手に収束する。
何をする気かと見守るルイスの目の前で、リディは魔術をまとわせた手を結界に押し付けた。
「な…!」
驚愕したルイスが、先程の事を思い出して慌ててリディを引き戻そうとして、はたと気付く。
リディの手は、先程の彼の氷刃のように消失してはいない。結界に触れ、そしてまるで水の中に手を突っ込んだように、揺らいで見えているだけだ。
「えーと…あったあった。ここが火で、あっちが雷…で不可視…で破壊…」
ぶつぶつ呟きながらリディが結界に触れていると、結界が奇妙に歪み始めた。しかも、リディが手で触れている部分を中心にした、小さい範囲でだ。
「リ…」
「…っし、ルイス、飛び込んで!」
話しかけようとした刹那、結界に穴が開く。リディの命令に押され、取り敢えずルイスは穴に身を投じた。
浮遊感は一瞬、すぐに両足が柔らかい芝生を捉える。遅れてすぐ隣に軽い着地音と共にリディが降り立った。ルイスは自分達が通ってきた結界を見上げる。魔力を込めて見上げてようやく可視できるそれはしかし、今しがた自分達が通ったにもかかわらず、滑らかな壁を保持し続けていた。
「…今のは…」
「結界解読。あとで教えて上げるよ。結界破壊にも応用利くから」
言外に質問は後だ、と告げてリディは歩き出す。内心が疑問でいっぱいになりつつも、ルイスもそれについていった。
人気のない庭を歩く。まばらに人の姿は伺えるのだが、注意していれば避けるのは簡単で、あれだけ強固な結界のあとだと、なんだか拍子抜けする。
「…慣れてるんだな」
迷いもせず歩いていくリディに、ルイスがそう問えば、
「よく避難しにきてたから」
と肩を竦めた。
(避難ってなんだ避難って)
ところどころ廊下も抜けながら、やがて二人は屋敷の北にある一室に着いた。しかし、リディに言われなければルイスは全く解らなかったほど、扉は質素で、とても貴族の部屋とは思えない。
「ここか?」
「ああ」
頷いて、リディはドアをノックした。
――返事はない。
「さてはまた寝てるなあいつ…」
ぶつぶつ呟きながら、リディは遠慮なしにドアを開けた。開けた視界の光景に、ルイスは呆気に取られた。
「なんて本の数だ…」
扉からすればかなり広い室内は、しかしうずたかく積まれた本に占拠されていた。しかもよく見れば、天井までの高さがある本棚にぎっしりと詰め込まれた上でだ。
「また増えてるよ、これ…」
リディもさすがに呆れたらしい。手近にあった本をぱらりと捲り、溜め息をついた。
「思った通りだ。今のあいつの興味はやっぱり竜か」
ジェインのはアタリだな、と半ばぼやくように言って、リディは声を張り上げた。
「ラグ!起きろ!久しぶり!」
しばらく何の反応もなく、外で小鳥がチュンチュンと鳴く声だけが響き、ルイスが「…いないんじゃ…?」と言いかけた時、ごそっ、ドサッという音と共に、少し先の本の山が崩れた。ゴンッ、という音も同時。
「いっ…」
「いたいた」
痛そう、と顔を歪めたルイスとは対照的に、リディは苦笑してそこに近寄る。そして短く「ウェーディ」と喚んだ。
穏やかな風が巻き起こり、ふわりと数冊の本が浮かぶ。浮かんだ本を適当に積み上げ、リディはルイスを手招きする。
ルイスが躊躇いながらも寄ると同時に、むくりと本の山の間から白いものが起き上がるのが見えた。
「ラグ、起きた?」
リディは腰に手を当てる。ルイスも並んで、ようやく彼女が話しかけている相手を視界に捉える。
真っ白い髪はくるくると天衣無縫に跳ね、肌はリディよりは濃いものの白。大きめの赤い眼は、夕焼けを思わせる。白衣に包まれた華奢な体つきは、しかし直線を描き、健康な少年で在ることを示している。
丸い眼鏡の奥のその眼が、ぽわんとしながらもリディに焦点が合い、軽く見開かれた。
「…リディ?」
「久しぶり、ラグ」
二年ぶりに会う幼なじみに対し、リディは笑顔で手を差し出したのだった。
「…へぇ、狩人なんてやってたんだ…まぁ、君らしいといえば君らしいよね…」
辛うじて生き残っていたテーブルと椅子に座ってお茶を飲みながら、彼、ラグ・ルガンナ・シューベルトは呟いた。
「…それで彼と…男の人と旅なんて、びっくりだよ。まぁ成長したってことかな…」
「…ラグ」
「改めて。僕はラグ・ルガンナ・シューベルト。魔術師兼研究者。君は…?」
リディの低い声音をあっさりと流し、ラグはルイスに首を傾げた。彼を眺めていたルイスは、はっと我に返って悪い、と頭を下げてから名乗る。
「俺はルイス・キリグ。狩人だ」
「ふうん…リディと同じか」
赤い眼は茫洋としていて、感情が読めない。後半は意味深に聞こえた今の台詞も、彼が意図してそうしたのかは解らなかった。
「で、リディ。一年近くも行方を眩ましてたのに、どうしたの…?」
「まだ眩ましてる最中だよ。今日来たのは、ラグが興味ありそうな話があるからだ」
「…へえ?」
赤い眼が煌めく。それを見ながら、雪兎みたいなやつだな、とルイスはかなり失礼な感想を抱いた。
「なに。君の持ってくる話はロクでもないのが大概だけど、期待は外さないんだよね…」
「お褒めに預かり光栄だよ」
にやりとリディは笑って、話し出した。
「実はさ。私達、ジルフェイに登ろうと思ってるんだ」
赤い瞳が見開かれた。僅かに探るような視線をリディとルイスに向けてから、ラグは息を吐く。
「…本気?」
「本気。だからお誘い。君も来ない?」
「…全く、君には参ったよ…」
ラグは紅茶を一気にあおると、首を傾げた。
「出発はいつ?」
「明後日の朝」
「なら、その時屋敷の前に来て」
「わかった。じゃあ、明後日」
席を立ってラグに別れを告げ、部屋を後にしながらルイスは知らず詰めていた息を吐いた。それを横目で見、流石だね、とリディが歩きながら囁く。
「微塵も動揺を出さなかった魔術士は、君くらいだ」
「…必死で堪えたさ…」
ゆっくり深呼吸して頭を振り、ルイスはひたとリディと目を合わせた。
「あいつ、何者だ?あんな魔力…尋常じゃない」
ルイスがラグから感じた魔力。魔術師の中でもかなりの量を誇るルイスが、足元にも及ばないという感覚を抱いた。…並では、ない。
「詳しくは言えないけど…あいつは、オルディアンの国家機密の一つだ」
廊下に目を走らせ、人がいないのを確認してからリディは進む。
「人間の域を超えた、膨大な魔力。あと…ルイス、聞いて驚くなよ」
前置きして、リディは淡々と言った。
「あいつは、五属性持ちだ」
「――――ッ!?」
人は通常、火風地水雷の中から一つの魔力属性を持つ。偶に2つ、ごく偶に三つ持つものがいるが――四つ、五つは確認された事がない。そう、言われていた。
「…驚くな、って言ったのに」
絶句して凍りついたルイスに、リディは呆れたように言う。ようやく解凍されたルイスは、馬鹿か!と叫んでリディに詰め寄った。
「驚かずにいられるか!五属性なんて、聞いたこともない!!」
「聞いたことなくても、現実にあいつは存在する」
目でルイスに歩くよう促して、リディは続けた。
「この屋敷のあの理解を越えた結界も、五属性をもつラグだから張れる結界。あの結界には、五属性の魔術が全て編み込まれてる」
「…馬鹿な…」
「そう思うのも仕方ないよ。でも、真実だ。それにあいつは治療術も使える」
ルイスは力なく頭を抱えた。リディはごめん、と呟いて、軽く彼の腕を叩く。
「いきなりこんな事話されても困ると思う。でも、あいつと同行する上で…知って貰いたかった」
俯いていたルイスは、なあ、と訊いた。
「オルディアンは何故、彼の存在を公表しない?」
「あいつがまだ、未成年だから」
キッパリと答えたリディに、ルイスは顔を上げる。リディの眼は、苦笑に細められていた。いつの間にか抜けていた廊下の先の、庭に降りる。
「ラグは今十七歳だ。もしあいつがそんな力を持っていると知れれば、利用しようとする輩がわんさか現れるのは目に見えてる。だから、あいつが成人して、しっかりと自分の身を自分で支えられるようになったら、公表しようとヴィ…王太子と、陛下が決めたんだよ」
ルイスは黙り込んだ。
賢明な判断だと思う。確かに幼い内から公表していたら、彼はあっという間に政治の道具にされていたかもしれない。高位貴族ならともかく、彼の家は中級貴族。彼を庇護しきる権力などないだろう。
それでも、もやもやした感情は残る。万が一彼が、戦の要員となったら――他国に、それを防ぐ術はない。ただでさえ、この国には『烈火の鬼姫』がいるのだ。
「…ちなみに、エーデルシアスとアルフィーノの国王は知ってるよ」
見透かしたようなリディの付け足しに、ルイスははっとし、次いで決まり悪く息を吐いた。
ならば、問題はない。
「ま、私としてはふわふわに見えるけど、あいつはそんな馬鹿じゃないと思うんだけどね」
肩を竦めてリディは笑い、よっ、と塀に跳躍した。
「だからこそ研究者になって――逆に研究の魅力に取り付かれたって意味では、馬鹿か」
二人の目の前に、大きな穴が開く。今度は、あの少年が開けたのだと直ぐに理解出来た。
「そういうことだけど、あいつの同行許してくれる?」
街路に飛び降りてから、リディは上目遣いにルイスを見上げた。ルイスは珍しくきょとんとした後、くっと笑い出した。
「今更過ぎるだろお前…当然だ」
「ありがと」
ほっとしたように笑うリディに、内心で憮然とした思いを抱いたルイスは、心のままに一つの質問を口にする。
「そんなに大事なのか?あいつ」
きょとんとしたのは、今度はリディの方だった。数秒目を瞬かせ、首を傾げる。
「大事っていうか…昔からの付き合いだから、弟みたいな感じかな」
「…弟ってお前、同い年なんだろうが」
答えながら、憮然とした気持ちが消えていくのを感じ、ルイスは顔をしかめた。
ゼノでの夜が、脳裏に蘇る。
(…変われば、変わるものか…)
半ば自身にあきれながらも、彼もリディに並んで宿に戻る道を辿った。
ラグはメインの一人です。魔術だけならセティスゲルダともタメかそれ以上張れます。