第六話 陽と月 (8)
第六話 陽と月 (8)
時と場所を移して夜、ゼノのガート。半壊した城も領地もこの一週間で、ルイスを中心とした魔術師達の、核の力を用いた土魔術で大分修復された。
その一角、八日前にルイスと、アルとセレナの逢瀬を覗き見した窓辺でリディはぼんやりと夜闇を眺めていた。しかしその眼前に、不意に光が現れる。
『久しぶりだな、リディ』
聞こえた声に一瞬驚き、次いで苦笑してリディは自らの風精霊の名を呼んだ。指示と共に風精霊の気配が遠ざかり、やがて再び目の前の柔らかな光から声が発される。
『着いたぞ』
「そ。アルは成功したみたいだね?」
旧知の者に対するような問い掛けに、しかし光も同様に応じた。
『ミスリル鉱脈の話まで出されればな。…というよりお前、何をやっているんだ。無断でいなくなったと聞いた時には驚いたぞ』
「心配はしないんだ?」
『馬鹿野郎。俺より強い相手に心配もあったものじゃないだろう』
それもそうだ、とリディは肩を揺らして笑う。光から呆れたような吐息と共に、やや改まった口調で訊ねられる。
『…何故、出て行ったんだ?』
リディは苦笑した。
(解ってる癖に)
「嫌になったんだよ。ひとつはもちろん…私の立場に鬱になったのもあるけど…あとは、お前も年頃の娘だ、結婚相手を見繕え、なんてさ。勿論父上が私の事を考えて言ってくれたのは解ってる。でも、嫌だったんだ。世界が鎖されていくのが」
沈黙が僅かな時間、辺りを支配する。やがて光がため息を届けた事でそれは絶たれた。
『お前らしいな。…で、そこに居合わせたのは偶然か?』
「全くの偶然。一度行ってみたいな、とは思ってたけど、まさかこんな事に巻き込まれるとはね」
笑い混じりに答えれば、向こうも笑う気配がする。
『トラブルに突っ込んでいくのがお前だろう』
「失礼な。トラブルが突っ込んでくるんだよ」
『どうだか』
軽口を叩き合い、少し笑い合ってから、不意に真面目な声がした。
『殺すのか』
誰を、とは訊かない。言わずとも、リディには明確にその意図が読み取れた。
「まだ解らない。…ただ、出来ればセレナ自身に決めさせる。『私』はなるべくこの国に関わらない方が良いから…」
少し沈んだリディの声に、光は少し沈黙し、確かにな、と頷く気配を届けた。
『その国の事は、その国が片付けるべき。『お前』は出しゃばらない方が良いだろうな』
リディはうん、と小さく頷いた。漂った暗い空気を振り払うように、光の向こうが話を変える。
『…ゼノを出たら、どうするんだ?アルフィーノに来るのか?』
「いや、アルフィーノからこっちに入ったからね。…オルディアンに行くよ」
『…こっちにいたのか…。ってまさか、ガルケイドの件、お前の仕業か!?』
ガルケイド、という名詞に一瞬リディは思考をめぐらせ、次いでにやりと笑った。あの、自分を攫ってくれた馬鹿な貴族だ。
「御名答。感謝してよ」
『…………。…感謝しよう』
腹を切るような声音に、リディは軽い笑い声を立てた。しかし、ふと真面目に声音を戻す。
「でも、危なかったんだからね。私や私の連れがいなきゃ、女の人百人危なく死ぬとこだったんだよ。そこ、ちゃんとわかっときなよ」
『…返す言葉もない』
「ま、いいよ。次に繋げれば」
数秒、沈黙が場を包んだ。しばし後、幾分低まった声がリディに訊ねる。
『…戻るのか?』
その意味をわずかに測りかね、察するとリディは相手に見えないとわかっていても、首を振った。
「馬鹿言うなよ。リリエイヌを避けて行くさ。エーデルシアスに行きたいんだ」
『成程。あの国は面白いぞ。何より王妃が』
「何だよそれ」
『実際に自分の目で見るんだな』
笑い混じりの声に、リディは目を瞬く。
「…告げ口、しないの?」
『…お前、それ今更だぞ。俺がお前の嫌がる事を出来ると思うか?』
「思わない」
即答する。というより彼がリディに逆らう事はない。三倍返しの憂き目に遭うから。
その時リディの耳が、こちらに近づいてくる足音を捉えた。
「――じゃ、この辺りで切るよ。アルを宜しく。あと陽動」
その口調に、彼も悟ったらしい。
『ああ、責任を持って送り出そう。陽動に関しても任せておけ。――じゃあな、リディ』
「ああ。またね、ヘンドリック」
ふっと光が消える。その数秒後、ひょいと廊下の角から黒い頭が覗いた。
「…リディ?」
きょろきょろと蒼い瞳が周囲を見回す。理由を解っていながらも、リディは微笑んだ。
「ルイス。どうかした?」
「…今誰かと喋ってなかったか?」
「いや?別に誰とも」
ルイスは僅か、探るようにリディを見たが、すぐに首を振って詮索を止めた。代わりにリディの向かいに腰を下ろす。
「アル、平気かな」
「大丈夫だろ。あいつも馬鹿じゃないし」
淡々と返すリディに、微かな違和感を感じるも、その表情はフードに隠れてよく見えない。ここ最近目にすることのない彼女の赤色を少し寂しく思いながら、ルイスは別の事を口にした。
「ここが終わったら…どこに行く?」
リディはなぜルイスがそんな質問をしたか、正確に理解した。彼はリディがオルディアン出身だと知っている。追っ手をかけられる身分であることも。だからこそ訊くのだ、どうする、と。
けれどリディは肩を竦めて答えた。
「決まってるだろ。オルディアンだ」
ルイスはちょっと拍子抜けしたらしい。だが真っ直ぐ向けられたリディの眼に意志を悟り、それ以上無駄な質問を連ねようとはしなかった。
「…じゃ、このままの進路で問題ないな。…ていうか、もう半年以上なんだな…お前と旅を始めてから…」
遠い目になって呟いたルイスを、リディは目を瞬いて見やる。その台詞にはどこか郷愁めいたものが漂っていたのだ。
「…オルディアンの後…エーデルシアスに帰る?」
だからそっと訊ねてみたのだが、勢い良くルイスは首を横に振った。
「まさか。まだ旅を止める気はないぜ。…ただ今回の事でちょっと…色々思い出させられた」
どこか自嘲気味に釣り上げられた唇に、しかしリディは何も言えない。今回アルを使者として向かわせる中で、ルイスは年に見合わない知略と手腕を垣間見せていた。それに加え今までの旅で、彼が自分と同じ貴族出身であることは解っているものの、自分とは立場も責任も違う立場にいるのだろうなと思わせられていた。
「…オルディアンは、リヒトールの森やアルシェルラ湖が有名だけど、温泉もあるんだよ」
だから話題を変える。お互い、空気を読む事は得意だった。
「…へえ。それは初耳だ」
リディの話に乗って、ルイスも表情を切り換える。それだけで二人の間に漂った過去という鎖は霧散した。
「首都レノーラの北に、ジルフェイ山地があるの解る?」
「ああ。標高はそこまでないのにやたら険しい奴だろ。それのせいでグリアンへは迂回していくしかない」
リディは頷く。前人未到とまで称されるその山地のせいで、本来ならさほど遠くないエーデルシアスの首都グリアンまでは山地を迂回していかなければならず、結果実質距離に見合わない所要時間を有している。
「ジルフェイ山地の上の方は基本雪が積もってるんだけど、その奥に最近秘湯が見つかったんだよ」
「秘湯、ねえ」
それは温泉好きにはたまらない魅力かもしれない。上手く道を拓ければ、オルディアンの新たな観光要素になるだろう。たが別にルイスもリディも、温泉好きという訳ではない。ぶっちゃけ、だから何だという話でもある。
ルイスの内心を見透かした様にリディはにやりと笑って人差し指を立てた。
「本題はここからだよ。…当然オルディアンは秘湯までの道を拓こうとした。外部に漏れないように自国民だけでね」
なぜなら、公開前の観光要素がバラされれば損害だからだ。
「そしたら、秘湯までの道のりを邪魔するのは雪と山道だけじゃなかったんだよ。…何だったと思う?」
金の眼が好戦的に煌めいた。その色に、ルイスは自然と自らの口角を上げる。
「――竜の群れ。秘湯に向かおうとしてた調査団が遭遇したらしい」
「…マジか」
ルイスも瞠目した。本来、竜は単体で行動する。と言われている。何分個体数は少なくはないと言われていても、滅多に人前には現れない種族だ。人間がまだ知らない生態系など幾らでもある。
「調査団はそのまま泡を食って逃げ帰ったらしいんだけどね。その話を聞いた後に私はオルディアンを出ちゃったから、今どうなってるかは知らない。――ただ、竜の群れともなれば」
「挑戦する奴はそうそういない、か。――面白そうだな。群れ…一回拝んでみたいな。多分壮観だぜ」
にやりと笑みを二人で浮かべる。よしっ、とルイスが窓の桟から降り様に言った。
「決まりだな。ここ片づいたらレノーラ通ってジルフェイ山地に行くぞ。――それでいいな?」
「いいも何も、この話は私が振ったんだけどね」
くすりと笑って、リディも桟から飛び降りる。
「それと…この間、ありがとう」
ルイスは『この間』がいつを指すのか明確に理解した。軽く肩をすくめて、ぽすぽすと彼女の頭を叩く。
「気にすんな。大したことはしてないしな」
リディはフードの下で小さく笑った。あの夜で、自分が彼の体温にどれだけ救われたか、彼には分らないだろう。彼女自身、わからせるつもりはないにしても。
何にしてもその話はここで終わりだ、というのがルイスのまとう空気から察し、リディは頷いた。
それから南の空を――ゼノの首都、ダリスがある方角の空を――二人で見つめた。
「…絶対に片付けるぞ」
「ああ」
色の違う二人の瞳はしかし、はっきりと同じ決意の光を灯していた。
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アルフィーノが挙兵し、国境に迫っているという報がゼノに届けられたのはその一週間後だった。王宮側は動揺し、王女側は快哉を上げた。三日前に、協力受諾の鷹文は既に届き、応じて反乱軍もダリス近くに密かに進軍していたものの、まるで蜃気楼のようだった勝機が、ようやく現実となって目の前に現れたのだ。
ここ数日で、既に民衆には噂を流してある。王がまた戦を起こそうとし、それを諸外国が阻もうとしている、と。またセレナは幽閉されていることにした。元々人気のある王女だ。民意は一気に反乱軍側に傾いていた。そこにこの挙兵の報だ。
アルフィーノの王は聡明なことで知られている。もともと自国が戴く王に不安を持っていた国民達だ、浮足立つのは当然の事だ。
「今こそ行動を起こしましょう!王も今は混乱しているはず。一刻も早くダリスを奪還するのです!」
逸る声をあげ一人の伯に、野営の本拠地に集まっていた他の騎士や侯爵がそうだと呼応する。瞑目して思考を巡らせていたセレナが、覚悟を決めた眼で一同を見据えた。
「…ドルネイド伯の言う通り、今こそ好機です。サークレイ候とゲネヤ伯は手筈通り先行し、民の煽動にあたって下さい」
「はっ!」
地響きを立てる勢いで二人の男が駆けだしていく。残った騎士達に、セレナは朗々たる声で告げた。
「全軍、攻撃の準備を。明朝、ダリスに攻め込みます」
地を揺るがす雄叫びが上がった。口々にセレナの名が唱和され、次いで準備に皆散る。その後の本拠地に残った巨漢に、セレナは腰を折った。
「ラーシャアルドの方々、ご支援を感謝致します」
「いえ、我らが王子殿下のお望みになった方の願いとあらば。大した事ではございません」
深々と頭を下げたセレナに、ラーシャアルドからいくらかの手勢と物資を運んできた、ユルドレイアス将軍は豪快に笑った。
その、まるで息子の嫁を見るような目にセレナは頬を赤く染める。
この将軍、アルの武術の師であり、第二の父のような存在なのだという。少数とは言え軍勢とは思えぬ速さでガート城に到着し、血走った目でアルの行方を食ってかかった姿は、まさに子を思う父のようで温かみがあったが、なにぶんその熊のような強面のせいで皆が怯えたのは余談である。
そのユルドレイアス将軍に、僅かな間にあること八割ないこと二割を狩人二人は至極楽しそうに吹き込んでいた。結果、ユルドレイアス将軍を始めとするラーシャアルドの人々はすっかりセレナを愛すべき王子の将来の妻とを思い込み、この反乱に異常なやる気を出していた。
まぁ間違いじゃないから良いよね、という全く責任感のない台詞を吐いたのはどちらだったか。
「しかしアル遅いな。もう着いてもいい頃だけど」
同じく本拠地に残っていた当の無責任な二人組は、困っているセレナにはどこ吹く風で頬杖を突いている。
「まぁ魔力温存しながら来れば一週間は見ないとな。最初は力業でやっちまったし」
行きはルイスもリディも持ちうる限りの魔力でもってアルを吹っ飛ばした。恐らく世界最高飛翔速度を持つという竜並に速く飛んでいっただろう。現実に考えればそんな業は帰りは不可能であるから、行きの倍の時間がかかっても仕方ない。
「さ、俺達も準備するか。ユルドレイアス将軍、ラーシャアルドの兵達をよろしくお願いします」
「任せておけい。貴殿らの腕前を早く拝見したいものだ」
ユルドレイアス将軍は、一目見ただけでルイスとリディを手練と判断し、それに応じた敬意を示した。当初王子の名を呼び捨てにし、あまつさえ明らかに異分子であるこの二人組にラーシャアルド兵達は懐疑的な目を向けていたのだが、将軍のそんな様を目にしたお陰で今やそんな空気は消え去っている。フードを被りっぱなしのリディに対しては国籍を問わず皆遠巻きにしている節があるが、ルイスに対しては早くも長年の仲間であるような雰囲気すら漂っている。
「将軍こそ、余り目立ち過ぎない方がいいですよ」
苦笑して部屋を出ようとしたところで、ルイスは息を切らせた兵士と危うくぶつかりそうになった。
「うわっ」
「わっ…す、すいません!」
慌てて謝る兵士を抑えて、ルイスは彼に何事かと訊ねる。兵士は顔を輝かせてセレナに言った。
「アルフレイン王子殿下がお着きになりました!」
ガタン、と椅子を蹴立ててセレナは立ち上がり、それ以降の兵士の言葉を聞こうともせず部屋を飛び出していった。
「噂をすれば、だね」
その背を目で追いながらリディが肩を竦めた。唖然としていたユルドレイアス将軍も、はっとして巨体に似合わぬ俊敏さで駆けだしていく。
「役者が揃ったってことか」
ルイスも口の端を持ち上げて歩き出す。
(…さあ、いよいよだ)
リディも自分の中の緊張を押し隠して後に続いた。
リディの出奔理由は軽いです。