第六話 陽と月 (6)
第六話 陽と月(6)
響いた声に、その場は一瞬静まり返り。
「アル…いいのか?」
ルイスはアルに静かに訊ねた。彼が行くと言った、その理由は。
アルは苦笑する。
「ああ。こうするのが一番だ」
「…そうか」
ルイス、そしてリディが瞑目して頷き、それぞれアルを見据えた。
「しっかりやって来い。お前の肩に全てがかかってるのを忘れるな」
「くれぐれも無礼を働かないようにね」
「解ってる」
狩人三人の会話に、唖然としていた周囲はようやくここで意識を取り戻す。ルーベンス伯が慌てた声を上げた。
「な、何を言っている!?我らを救ってくれた事には感謝する、だが狩人などに一国の交渉を担わせるわけには…」
「騙していた事は先に謝っとく」
凜とした声がルーベンス伯の言葉を遮る。声に漂う威厳に、集った兵士も、そして各伯や諸侯は息を呑んだ。先程までと、空気が違う。
「――セレナとは、約束してたよな。この戦いを生き延びられたら、オレの本当の名前を教えるって」
セレナは目を見開いた。皆、何が言われるのかと、固唾を呑んで少年の言葉の行方を待つ。
アルは表情を別人のように改めると、言った。
「その約束を今果たそう。オレの名は、アルフレイン・ウグリス・ロウ・カーラント・ラーシャアルド。ラーシャアルドの第三王子だ」
場は静まり返った。物音ひとつせず、誰もがぽかんと口を開けてアルを見つめる。その状態が永遠に続くかと思われたが、侯の一人によってそれは破られた。
「ま、まさか!なぜ、ラーシャアルドの王子ともあろう者が、こんな所にいる!?」
アルは口を開く、がルイスが遮った。
「ゼノがきな臭いのは、ラーシャアルドにも伝わってたんですよ、侯。殿下は王命を受けてゼノを探っていたんです」
アルが目を剥いてルイスを見る。自分は断じてそんな命は承けていない。しかしそう言おうとしたアルの足を、衆目からは見えない角度でリディが蹴飛ばした。
「いっ…」
強烈な痛みに涙目になったアルが、リディをきっと睨む。
「何す…」
「ここで君の出奔がバレたら、ラーシャアルドの信用に関わるんだよ。黙ってて」
リディが押し殺した声で言う傍ら、ルイスが言葉を続ける。
「間もなくラーシャアルドの監察がここにも来るでしょう。その時に確かめなさればいい。――セレナ、文を急げ。時間はない」
事実を呑み込もうと頑張っていたセレナは、我に返って頷いた。そう、時間はないのだ。オルディアンが動く前に、アルフィーノに行かなければならない。
「わかりました。ルーベンス伯、手紙の用意を」
「私にも一枚くれる?…あとアル、少しでも寝てなよ。馬は使えないんだから」
ルーベンス伯に手を挙げて頼んでから、リディはアルに言った。そう、馬ではとても間に合わない。持てる限りの魔力で持って、空を翔けていかなければならない。
「わかった」
話の流れに憮然としていたアルも、道理だと思ったのか頷き、壁によりかかるとすっと寝入った。限界まで消耗していたのだろう、三秒とかからなかった。
「ベッドで寝ればいいのに…ルイス、治療と魔力、分けてやって。それから運んでやってくれる」
「了解」
駆け戻ってきたルーベンス伯から紙とペンを受け取ってリディは踵を返す。セレナも同様に、辛うじて無事な城のへと走っていく。ルーベンス伯を始め、諸侯達もそれを追った。
残ったルイスは息を吸い込むと、周りの兵士達に言った。
「悪いけど、そこら中に散乱してる核を全部集めてきてくれ。勿論見張りは立てろよ。あと避難させていた領民の保護を。備蓄は使って構わない、明日俺達が核を換金して物資を調達してくるから、お前達も含めて栄養を補給しろ。腹が減っては戦は出来ないからな」
兵士達は頷いて、皆駆け出していった。各々まだ動揺し、疲労が溜まっている様だが、文句を言わずに従った精神は立派だ。しかしその動揺に付けこんで、本来自分が出す権限を持たない命令を下し、受け入れさせた自分は卑怯か否か。――否。
(この状況だ。少しは勘弁しろ)
「…さてと」
自分の残り魔力も僅かだ。ルイスは瞑目すると、懐から薄くなった橙色の核を取り出し、寝入るアルの治療を始めた。
――――――――――――――――――
その夜半。
一日をばたばたと補修作業や怪我人の治療、領民達への説明などで追われていたルイスは、疲れ切った体で城の中を歩いていた。アルがラーシャアルドの王子と判明し、その従者という認識を持たれているルイスは、いいようにこき使われているようだ。同じ同伴者でも、リディは遠巻きにされているのにと少し理不尽に思わないでもない。
(…ただ、リディも変だ)
髪を晒したくないのはわかるが、カツラを被った上にフードをかぶり、なおかつ人に近づかないように拒絶の空気をまとっているのはおかしい。彼女がオルディアンの国民であるというのは周知の事実の為、ゼノの者達が自ら彼女を避けているというのも一因しているとはいえ、彼女の空気は尋常でない。素顔を見て話しかけたそうにしていた者達も、二刻と待たず消えうせた。
そのことにどこか安堵を覚える自分に苛立ちながら、自然とルイスは足をリディの部屋の方へ向けていた。
特に何を思ったわけでもない。だが、妙な勘――虫の知らせとでも言うのだろうか――に誘われて、彼はその部屋の前に立った。
なるべく気配を殺して、扉の向こうの気配を探る。人一人――勿論リディの気配を掴んで、ルイスは数秒悩み、そっと音を立てずに扉を開けた。単に、眠っているのならノックの音で目を覚まさせてしまうのを悪く思っただけなのだが――それは、予想外の光景を彼に見せることとなった。
月明かりのみが照らす、暗い部屋の中、扉からすぐ入った所から見える場所で、リディは蹲っていた。
「な――リディ!?」
驚愕して、彼女の脇に駆け寄る。床に倒れて身を丸めていたリディは、その足音にぴくりと肩を揺らして顔を上げた。その顔色にまた、ルイスは絶句する。
青白い、を通り越して土気色だ。唇の端からは涎が流れた跡があり、窓の外のバルコニーにはそれを証明するように吐瀉物があるのがわかった。
「どうした!?」
水精霊にそれの清掃を命じてから、ルイスはリディを抱える。そしてその体が、異常なほどに震えているのに気づいてますますうろたえる。
「おい、リディ!どうかしたのか!」
「…なん、でもない…」
「何でもない訳ないだろうが!くそ、医師を――」
治療術が使えると言っても、それは怪我に対してだ。病や毒に関しては、知識のある専門家でない限り任せるに値しない。そう判断して立ち上がりかけたルイスの裾を、リディの手がつかんだ。
「いい。呼ぶな…医者は、いらない」
体はいっそ無様なほど震えているのに、ルイスの裾を掴む手は強い。一瞬反論しようかとも思ったが、日中に見た彼女に病の気がなかった事や、毒を盛られる必要性もないことを鑑みて、立ち上がるのをやめて彼女を抱き抱えた。
「…ちょっと…」
「倒れるならベッドに倒れろ」
彼女をベッドが接する壁にもたれかけるようにさせてベッドの上に座らせ、脇にあった水差しからコップに水をついでやり、ルイスもベッドの縁にぼすんと腰をおろして頬づえを突いた。
「で?どうしたんだ」
「……」
唇を噛んで、リディは目を反らす。しかしその顔色は未だ悪く、震えが止まらない。握りしめられた掌からは、幾筋も血が流れた跡があった。
「……」
ルイスは無言でその手をとり、治療魔術を使う。穏やかな金色の光がリディの手を包み、食い込んだ爪の痕を跡形もなく癒した。
「…言えないなら、いい。お前が今回のことで何にそんなに傷を負ったのか、俺にはわからない。――ただ、俺に出来ることはないのか?」
静かな口調に、リディは再び丸めた身ごと、ルイスを見つめた。深い蒼色が、凪いだ湖面のような穏やかさで彼女を映している。
「……ごめん」
しばしの葛藤のあと、リディは首を振った。
このことは、自分が負うべき咎なのだ。誰かに背負わせる事は決してしたくないし、また出来ることでもない。――それでも、未だ癒えない傷に、寄る辺が欲しい心は制せなかった。
「話せない――けど、ちょっと、胸貸して…」
そう言うなり、リディは傍らに座るルイスに手を伸ばした。
「は?」
理解が追い付いていない彼の背に、細い手が回る。そのままぎゅっと彼の胸に小さな頭が押し付けられた。
「リ……」
「ごめん。少しだけ、こうさせて…」
狼狽してリディを見下ろしたルイスは、けれど彼女がまだ小刻みに震えているのを直に感じ取り、短く息を吐くと腕を回し返した。
人肌に触れた為か、少しずつリディの震えが収まっていく。常日頃からは考えられないほどに弱った彼女に、なのに踏み込むことが出来ない自らの無力さを嘲笑いながら、ルイスは抱く力を僅かに強める。
(お前の中の闇は、なんなんだろうな)
幾ら規格外とはいえど、彼女もまだ十七歳の少女だ。二歳しか変わらないとはいえ、自分はそうそう感情を崩すことのないように育てられた。そうあるべき立場の為に。だが、彼女は違う。
(頼れよ…なんて、何も話してない俺が言える台詞じゃないな)
自嘲の笑みを消さぬまま、ルイスはいつしか腕の中の少女の震えが消え、微かな寝息を立て始めてもなお、その体を抱きしめ続けていた。
ちなみに、翌朝早くにルイスを探してリディの部屋を訪れたアルが、彼女と一緒にうっかりそのまま寝こけた彼を見て、生温い笑みを浮かべるとともに、部屋の扉に立ち入り禁止の札をそっとかけていったのは余談である。
――――――――――――――――――――
ラーシャアルドの監察がやってきたのは、それから三日後だった。彼らの第一声は、城門の前でひらひらと手を振っていた彼らが王子殿下に向けて発された。
「殿下っ!?」
「おー、久し振り、か?マルクスにポール」
「何故にこんな所にいらっしゃるのですかっ!?マリナリオの陛下がっ…」
そこまで叫んだ所で、マルクスと呼ばれた監察の男は周りで見守るゼノの兵士達に気づいて、言葉を呑み込んだ。
「…ともかく、ご無事で何よりです」
後でキッチリ話して頂きますよ、という視線を苦笑して受け止め、アルは顔を改める。
「今の状況、お前達はどれだけ把握してる」
それに伴って監察達の表情も変化する。その様を見ていたゼノ兵達は、それまで半信半疑だった、この少年が本当にラーシャアルドの王子という事を初めて確信した。
歩き出しながらマルクスとポールはアルに報告する。
「おおよそは。ゼノ王は本気です。魔術師達に十年かけて、魔物を誘導する術を学ばせ、今度こそオルディアンを攻めるつもりです」
「オルディアンの様子は」
「今のところ目立った動きはないようです。ただオルディアンにいる監察からは、国境付近の防備を固めている、という報告が」
「ゼノに攻め入る気はない、と?」
城の脇から現れたルイスが二人に訊いた。監察二人は驚いた様子でルイスを見、次いでアルを見たが、彼が頷いたのを認め、はい、と肯定する。
「ゼノが戦を仕掛ければ即座に反撃はしてくるでしょう。ただ自ら進んで戦をする気はないようです」
「そっか。マルクス、ポール、父上に連絡しろ。オレはゼノ第一王女、セレナエンデを援助すると。オレの権限で余っている物資を送るように言え」
「…は!?」
耳を疑うように監察二人は叫んだ。気にした風もなくアルは続ける。
「オレはこれから名代としてアルフィーノに発つ。よろしく頼んだぜ」
言うだけ言って方向転換した王子を、唖然としたマルクスとポールが慌てて追う。
「お待ち下さい!!殿下、それは一体…」
「アル」
彼らを遮るように、二人の人影が現れた。――リディとセレナだ。リディは再びフードを目深に被っている。セレナはアルの目の前で立ち止まり、紫の瞳で彼を見上げた。
「…お行きになるのですか」
「ああ。待ってろ、セレナ」
アルは柔らかく笑んで、くしゃっとセレナの髪を撫でた。全く状況が解らないまでも、姿かたちから少女がこの国の第一王女だと知っているマルクスとポールはひぃっと息を呑む。殿下っ!と叫ぼうとした口は、ひょいと伸ばされたルイスの手によって塞がれた。
「……」
そんな周りの一幕に気づかず、目を伏せるセレナに、アルは笑う。
「心配すんなって。――直ぐに戻るぜ」
「…解りました。恥をしのんで、お願い申し上げます。どうか無事に、この書をアルフィーノにお届け下さいませ」
セレナは手に持っていた書簡を差し出した。少し離れて見ていたリディが、こちらは小さな封筒をアルに渡す。
「アルフィーノの陛下に渡して。誰からかとかは言わなくていい。渡せばわかるから」
「何だよそれ」
言いながらもアルは素直にリディの文を受け取った。落とさないようにセレナの書簡と共に荷物に丁寧に入れる。
「じゃ、行ってくっから。後頼むぜ」
「ああ」
「任せろ」
リディとルイスはひらひらと手を振り、アルは頷いて一歩下がる。それぞれが風の精霊の名を呼んだ。俄に風が巻き起こる。
アルフィーノまでは遠い。半日程で、集めた核の魔力と睡眠でほぼアルの体力魔力は回復したとはいえ、きつい行程であることには変わりない。その為、初速はルイスとリディが飛ばしてやる事にしたのだ。
たまっていく魔力に、アルは顔が引き吊るのを抑えられなかった。速いのは有り難い。有り難いのだが、いかんせんこの二人、魔力が強すぎる。結界もついでに張ってくれるとはいうものの、風に押し潰されないか非常に不安を感じる。
「アル!」
と、不意にセレナが叫んで、アルに飛びついた。驚いたルイスとリディは顔を見合わせ、取り敢えず魔術の発動を待機させ、二人を見守る。
セレナはぎゅっとアルの体を抱き締めて、震える声音で言った。
「…どうか、ご無事でっ…」
アルはちょっと狼狽していたが、首を振ると軽く彼女を抱き締め返した。
「だから心配いらねーって」
そっと肩を離し、セレナと距離を取り様、アルはセレナの耳元で囁いた。
「…好きだ」
セレナが目を見開いた瞬間、ゴウッ!と音を立てて風が巻き上がる。強烈な旋風に思わず皆が目を閉じ、開けた時には既に少年の姿は無かった。
「でっ…殿下ー!?アルフィーノって何がどうなって…ってそれ以前に、セレナエンデ王女殿下と一体何がー!?」
「どどどどうしましょうマルクスさん、陛下になんて言えばっ…」
さぁ持ち場に戻るぞー、と集まっていたゼノの兵士達が去っていく傍ら、ラーシャアルドの監察二人は右往左往におろおろしている。セレナは掌を組んでじっと空を見上げていた。
唯一、風魔術の行使者であるお陰で会話も全て聞き取っていた狩人二人は、全てを眺めてから顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「やるなぁアル」
「純情純情」
この三日、アルは殆どセレナと行動を共にし、自分達が生き延びている事の隠蔽、裏切り者の魔術師の調査、物資の調達、父王の動向などを伯達から聞き、頭を捻らせ、領地を走り回っていた。まるで夫婦のように寄り添いあって行動していた彼らに、兵士はもちろん領民ですら、温かい目を向けていたのは周知の事実だ。渋い顔をしていたのは、セレナを娘のように思っているらしい壮年の諸侯達ぐらいか。
それくらい彼らの間にある絆と感情はまるわかりで、ルイスとリディにしてみれば面白がる以外の何物でもなかった。
リディもあの夜の後は、普段通りの精神状況でいるようだ。一応、毎晩こっそり彼女の部屋を覗きにいっているルイスも、規則正しい寝息が聞こえているのに安堵しつつ、自分の過保護ともいえる行動に半ば呆れていた。
ひとしきり笑ってから、二人は未だに狼狽えているマルクスとポールの首をがしっと掴み、城の中に向かって歩き出す。
「き、貴殿らっ…」
「安心しろ、最初から全部話してやるから」
「君達の王子様の恋も全部ね」
恋っ!?と揃って上がった悲鳴に堪えきれなくなって再び盛大に肩を揺らしながら、彼らは城内へ戻っていった。