第三話 後日談
第三話 後日談
ぴちゃん、と水滴が、岩の地面を叩く音が響いて、セティスゲルダは目を開いた。
…否、正しく言えば、その音で目が覚めた訳ではない。この数千年で慣れた気配を、感覚が鋭敏に捉えたからだ。
「…来たか」
口角を上げて、岩にもたれていた身を起こす。
彼がいる場所は東の果ての国、オルディアンの険しい山中の一角にある、小さな洞窟の中だった。
小さい洞窟が、奥には岩から染み出した、濾過され凝縮された水で満たされる小さな泉が存在する。入り口から忍び込む、青い月の光に揺れる水面を、数時間前興味深く見つめていたのは、うっすらと記憶に残っている。
ゆっくりと足を滑らせて、洞窟をあとにする。出たところで、闇夜でも輝く、無数の爬虫類の眼に照らされて、セティスゲルダは立ち止まった。
「…手厚い歓迎だな、竜ども」
少し開けた洞窟の入り口の先の空間を囲うように、何匹もの竜が彼を見ていた。
赤や青、緑に紫、黄に橙と、実に多彩な色の鱗の竜達が、身動きもせずに彼を眼で追っている。
射殺さんばかりの眼差しと殺気に、しかしセティスゲルダは肩を竦めるだけで応える。
「全く、人間共が見たら卒倒するであろうな。このように竜が集まっている場面など」
『黙れ』
竜の中の一匹、鮮やかな赤い鱗を輝かせた竜が、唸り声と共にセティスゲルダに吐き捨てた。
『戯れ言を。何をしにここへ来た、闇の王』
「何をも何も。我に用があるのは、貴様らの主だろう」
激しい唸り声と威嚇音が周囲を満たす。何匹かが翼をはためかせ、殺気と瞋恚に空気が揺れる。
『去れ。お前のようなものが、ここに足を踏み入れるな』
「…全く、敵愾心の強い奴らだな。わざわざ我が自ら足を運んでやったというのに。――なぁ?」
セティスゲルダは言葉尻と共に視線を上げる。ついで竜達が、はっと上を見上げて翼を畳めた。
一瞬で静まり返った場に、嗄れた声が響く。
「わざわざ貴様がここに来ずともよかろうが。つくづく祭りの好きな奴じゃの」
くつくつとセティスゲルダは肩を揺らす。闇の嗤いに、若い竜達が喉の奥で唸った。
「久しいな、マルブレヒト。しばらく見ぬ内にまた年を食ったようだな?」
「は。時を止めている貴様と違って、五百年もすれば多少は老いるわ」
月光の下、突如現れたのは、黒いローブを羽織った、この場で唯一セティスゲルダと同じように人型を取ったものだった。
「貴様も時を止めればよかろう。全く、数千年前はまだ美しかったものを。今や干物ではないか」
「お望みとあらば、その姿になってやろうか」
フードが外されて、皺だらけの老婆の顔が覗くが、それは一瞬で若く美しい女の姿に変じた。
もともとしゃんと伸びていた背筋がさらに伸び、長い、金の艶を帯びた銀髪が艶を帯びて風に零れる。大理石のような肌理細かな顔の肌はしかし――無惨な爪痕に、右半分を削り取られていた。
しかし魔族はそれについて言及することはなく、美貌を揺らして首を傾げた。
「やはり美しいな。なぜわざわざ醜い姿でいるのか、我には理解できぬ」
「理解されたいとも思わん。してセティスゲルダ、貴様、自ら儂の元へ赴いたということは、覚悟が出来ておるのじゃな?」
艶めいた唇から零れるのは美声、反対に口調は老獪なものだが、それがかえって威厳と力を帯びて聞こえている。
どんなものでも膝をつきたくなるようなその威圧感の中で、しかし魔族の王は傲然と笑んだ。
「貴様は、我が覚悟などという下らないものの為に、貴様を訪れたとでも思うのか?――笑止千万だ」
「――じゃろうな」
女の、銀色に煌めく爬虫類めいた眼が、ふっと細められた、その瞬間。
轟音と共に、セティスゲルダが立っていた空間が、背後の洞窟もろとも吹っ飛んだ。
『マルブレヒト様!』
「退いておれ。邪魔じゃ。――メルセイエデスの元へ参れ」
翼をはためかせて飛び上がった竜に、女は一瞥すらせず命じた。その声音に、周囲に集まっていた竜達は、一様に首を垂れる。
『仰せのままに。偉大なる女王』
竜達が去っていった後、未だ砂埃を上げている一角を眇めた眼で見据え、女は冷たく言った。
「何をしておる。遊んでおるつもりか貴様」
「つもりではない」
愉しげな声は、後ろから発された。突き出された鋭い刃先を、しかし女は眉一つ動かさず、現出させた銀の刃で持って受け止める。
金属のぶつかり合う高い音が、夜闇に響き渡った。
「我にとって、現世などは玩具。所詮は遊戯でしかない」
「相変わらず、巫山戯た奴じゃ」
一秒に数度という速度で、金属音が木霊する。
光の煌めきすら追いつかぬ速さで、漆黒と銀閃が交叉する。
「『原初の運命』はなかなかに面白かったぞ」
目にも止まらぬ剣戟の中、セティスゲルダは口の端をつり上げて言った。応じるは、先程から幾分低くなった声。
「…貴様が興味を抱くとはの。何の気まぐれじゃ?」
胸、腹、脇、首。一呼吸で幾つもの急所を狙った攻撃を反らしながら、セティスゲルダは女の隙を窺う。
「たまたまだ。飛んでいたら、我の気配に気付いた。人間にしてはやる。流石は、と言うべきであろうな」
「当たり前じゃ。それが運命なのじゃから」
「く、貴様もなかなかに残酷だな。か弱き人の身に、永く続く血戦の末を背負わせるなど」
「……」
「慈愛の種族が、聞いて笑わせる」
「その口、いい加減に閉じる気はないのか」
「貴様も、いい加減に八つ当たりをやめたらどうだ?」
絶え間なく続いていた戟音が、一際強い破擦音ののち、止む。
数歩の距離を離して対峙した両者に、一切の息の乱れもない。
何もかもが息を止めたような空気の中、二つの吐息と共に、漆黒と銀閃の両方の刃が消失する。
女は吐き捨てた。
「二度とあれらに手を出すでない」
「却下」
消えかけていた殺気が再び灯る。それを感じて、セティスゲルダは首を竦めた。
「…まあ、暇つぶしに見ているだけにするがな。安心しろ、殺しはしない」
「そんなことをした時は、儂が貴様を殺してやろう」
「無理を吐くなよ、老いぼれが」
「貴様こそ、魔族ごときが儂に本気で敵うと思うてか」
「その言葉、そっくり貴様に返してやろう」
黒い視線と銀の視線が、まるで形を持つものであるかのように、火花を散らして交錯する。
永遠にも続くかに思われたそれは、やがてセティスゲルダが宙に浮いたことによって絶たれた。
「ヴィレーヌで、貴様を観たぞ。若き貴様を」
「……」
「彷徨する者。貴様の終着点は、何処なのであろうな?」
哄笑と共に、セティスゲルダの躰は闇に溶けた。
後に一人佇む女は、無言の内に長い溜め息を吐くと、夜空を睨んだ。
その顔が、躰が見る見るうちに縮み、皺に包まれていく。艶めいた銀髪だけはそのままに、数秒と経たずにそこには老婆が立っていた。
「……、」
夜空に浮かぶ月に向かって、小さく小さく呟く。しかしその呟きを、彼女以外に聞き取る者は無い。
老婆は首を振ると、フードを被り、現れた時と同じように、唐突に姿を消した。