【幕間-5】カインズとアニタ
【幕間】カインズとアニタ
静かな廊下に、一人分の足音が響く。大理石の床は、裸足でもない限りどうやっても足音がするので、侵入者防止にはもってこいだ。
(変わってませんねえ)
足音の主――カインズ・ベルクヴァイン・ラザフォードは、目を細めて回廊を見渡した。
彼がここを出たのは10年前だ。オルディアン・ゼノ間で起きた戦争の直後。当時から月長騎士団団長を務めていたカインズだったが、国王に手紙のみを残し、ふらりと姿を消した。
こののち第二王子にまで出奔された王は、うちの国には放浪癖でもあるのかと頭を抱えることになるのだが、それは別の話だ。
姿を消したカインズがなにをやっていたかというと――まあ色々あって、数年後ひょんなことから狩人パーティ『テトラル』(当時の名前は違ったが)に所属することになり、彼らと共に世界を巡った。
(楽しかったですね…、もう、夢にしか見れないでしょうが)
世界の危機を前に、カインズは己の地位に戻った。まあ、連れ戻されたといっても特に齟齬はない。だがどちらにせよ、こうなってしまった以上、遅かれ早かれ戻ってくることに変わりはなかっただろう。
(いやしかしやっぱ陛下怒らせんのは懲り懲りです)
10年前の自分は、それなりの思索と覚悟をもって国を出た。後悔はない。――が、それをちょびっと恨むくらいには王の説教は堪えた。
(正座説教五時間ですもんねー。途中から王妃殿下も混ざるし…ああ辛かった)
…が、いくら嘯こうともこの男、根から堪えてはいない。そうでなくば、月長騎士団団長は務まらないが。
つらつらとそんな考えを巡らせていたカインズは、自国の城ということもあり、完全に気を抜いていた。
そのため気づかなかった。柱の影に、見知った顔が潜んでいたことに。
「カインズ」
「へ?――ぶへっ!」
低められた声が、己の名を呼んだのに、何も考えず反射的に振り返り――つぎの瞬間、左頬を衝撃が走り、同時にばちーーん!といい音が響き渡る。
「!?」
反射的に身構えかけ、はたとカインズは目の前で、恐らく己の頬を引っ叩いたと見られる手をぷらぷらさせている女に気づく。
「…アニタ?」
唖然、と言った風に名前を唇から零れさせれば、彼女は半眼に眼を細めた。
「久しぶりね、カインズ」
その声音に、反射的に背筋が伸びる。
『テトラル』の紅一点、アニタ・ベリスは、(他の女狩人に比べれば)優しく控えめで、気配りの利く穏やかな女だ。だが、『テトラル』の男連中は決して彼女の意思を蔑ろにすることはない。
それはもちろん、彼らの人間性が、女性だからといって見下すような腐ったものではないこともあるが――。
「なにか、私達に、言うことがあるんじゃないかしらね?」
アニタは微笑んでいる。微笑んでいるが――全く眼が笑っていない。システィアと張れるブリザードが、背後に吹雪いている。
カインズに残された選択肢は、yesオアはい。つまり、逃げられない。
カインズはうな垂れた。
「はい…」
――普段穏やかな人間ほど、怒らせると怖いと言う。アニタ・ベリスはまさにそれであった。
「ふーん、最強国家の最強騎士団の、しかも伝説とまで謳われた団長、ね…ご立派なご身分だこと」
「う、あ、はい…」
騎士団長の私室まで強制連行されたカインズは、甲斐甲斐しく紅茶や菓子などを用意させられた挙句、ソファにふんぞり返るアニタの正面で正座していた。一応いっておくと、正座は自発である。
「出会った時の、胡散臭い奴って印象を忘れるんじゃなかったわ…」
ちっと舌打ち。だがそこに、怒りとは真逆の色が含まれているように感じて、カインズは瞬く。
「アニタ…?」
「…ねえ。私達は、あなたに利用されただけなの」
落とされた、囁くような声音に瞠目する。それから、静かに頸を振った。
「違います。最初は…確かに、いい隠れ蓑だと、思っていました。けれど…すぐに考えを改めました。私は、あなた達の仲間であることが、本当に嬉しかったし、楽しかった」
もともとがそこそこ高位の貴族の出で、格式張った生活にうんざりしていたカインズは、狩人達の飾らず開けっぴろげな生き様がとても新鮮であったし、好ましく思えた。
「出来れば、あなた達と共にいたかった。それでも…いつまでも、自分の役目から眼を逸らせているわけにはいきません。ただでさえ…私はシルファーレイ殿下をお守りできなかった」
――もし。もしカインズが出奔することなく、王宮に仕え続けていたのなら――部下であっただろうギルバートの変異にも気づけたのではないか。無論、たらればの話だ。今更なにを思おと、起きてしまったことはなかったことにできない。
「今までありがとう。本当に――楽しかった」
頭を下げてそんなことを言ったカインズの後頭部を、アニタは無言で見つめ――ばし、と叩いた。
「あいたっ」
「馬鹿ね」
頭を抑えるカインズの頬を、引っ張りながらアニタは言った。
「全部終わったら、顔だしなさい。奢らせてやるから。システィアにも声かけるから、覚悟なさいよ」
「ええー…」
「それから、あなたが騎士団長だからって特別扱いなんてしないわ、私達は。むしろいい繋ぎが出来たわ。せいぜいパイプ役になってよね」
「アニタ…」
少々意地の悪い答えにはなったが、頭がいいこの男には充分だったようだ。丸くなった瞳が、へなりと撓む。
が、そこで終わらないのがこの男だ。
アニタの手を自然な動作で掬い上げ、その中指の付け根に口付けた。
呆気にとられるアニタに、彼は嫣然と笑む。
「…わかりました、奢りますよ。――全てが終わったなら」
「…期待してるわ」
一瞬でも呑まれたことに悔しげに唇を噛みつつ、女は唇を持ち上げた。
(そういえば、10年前にエーデルシアスを飛び出した時から、ってことは…あなた、15才で既に騎士団長だったの!?ちょっと信じられないわ…)
(ああ、そういえば言い忘れてましたね。私、本当は32才です)
(………………え?)
(だから、当時は22才でした。アニタ達と会った時は…25才だったんですけど、ふつーに未成年と見られて困りました。昔から童顔童顔陛下には言われてましたけど…面倒だからいいか、と思って。撹乱にもなりましたしね)
(…………としうえ?)
(…ああ、そうなりますね。君は29ですからね…アニタ?)
(年上…まさかの年上…え、ちょ、待った)
(アニタ?顔色が…)
(――っ!な、なんでもないわっ!て、て、ていうか近いっ!)
(ぅごっ!?)
年下だから眼中外だったけど、さあどうしましょうかアニタさん。




