ヤンキー?3
ソファから立ち上がった信乃ちゃんは、鼻息荒くオレを見つめている。
信乃ちゃんの瞳は爛々と輝いていて、興奮していることは明らかだった。これまで誰にも打ち明けられなかった悩みを開示できるかもしれない相手が現れて、歓喜しているように見える。
さて、オレはそんな信乃ちゃんになんと声をかけるべきだろうか。
初邂逅のときから思っていたことだが、この子には余裕というものがない。
たびたび攻撃的な面が現れていることからも、それは間違いないだろう。
だからこそ、あの夜と比較したときに感じられる彼女の変化は、オレの対応が間違っていないならば、心を開き始めてくれていることの表れと見て良いと思う。
それを踏まえた上で結論を出す。
オレは慎重になるべきだ。
信乃ちゃんがオレに秘密を明かしたことは、オレに対して絶対的な信頼を抱いているから、というわけではないと思うからだ。
他に縋るものが無いこと。
これが一番大きな要因だろう。
そして、彼女がまだ若く、その精神が発達途中であるということもそうだ。彼女はまだ、感情の発露を留める術を持たない。それは彼女との関わりが短いものであっても、十分に感じられることだ。
他に縋るものが無く、激情を抑えきれない。
だから彼女は勢いのままに言葉を口にしたのだ。未来が視えるなどという、普通に考えればあまりにも馬鹿げた与太話を。
オレはテレビを消して座り直し、微笑みを意識して、興奮している様子の信乃ちゃんへと視線を向ける。
「落ち着いて、信乃ちゃん。ほら、座りなよ。飲み物のおかわりを持ってくるから」
「あ、あたしは本気でッ!! あんたもやっぱり……っ!!」
オレは座ったまま掌でソファを示し、座る様に促した。
しかしオレを見降ろす信乃ちゃんはそう言って、悲し気に表情を歪めてしまった。
興奮して話す言葉には、本人の思い込みや感情論が多く入る。支離滅裂にもなりやすい。それを避けるための提案だったのだが、信乃ちゃんはそうは捉えなかったらしい。
オレは小さく首を振った。
すると信乃ちゃんはその表情に悲哀の色をさらに濃く現した。余程心の傷が深いのかな。
オレは宥めるように手をあげて、こう言った。
「信乃ちゃん、落ち着いて。大丈夫だよ。誤解させたようだから謝るけど、恐らく君が考えているだろうことは、オレの言動には全く繋がらない。オレはただ、長い話になりそうだからその準備をしようと思ってるだけだから」
オレが言い終わると、信乃ちゃんはぽかんとした表情を浮かべた。オレの言葉の意味を理解しかねているようだ。
「君も、積もる話があると思うしさ」
信乃ちゃんはぽかんと硬直している。
「ゆっくり君の話を聞かせて欲しい、とオレは思ってるんだけど……。どうかな?」
ぱち、ぱち、とゆっくりと瞬きをした信乃ちゃんは、次の瞬間、物凄い速さで首を上下に小刻みで動かし始めた。
どういう意図があっての動きかは……まあ分からなくはない。
オレは小さく笑い、こう言った。
「首、取れるよ」
オレは小さく笑った。
「あぅ……」
信乃ちゃんは顔を真っ赤にして、見た目にそぐわぬ(失礼)行儀の良さで、ちょこんとソファに座った。
オレは席を立ち、再びキッチンへ向かった。冷蔵庫に保管されている飲み物の中から、濃縮還元果汁100%のちょっとお高めのリンゴジュースを選び、リビングへと戻った。
信乃ちゃんの前に置かれているコップへ、とぷとぷとジュースを注ぎ、オレもソファに座る。
オレは信乃ちゃんを見据えて、こう言った。
「まず、最初に言っておきたいんだけど……」
すると彼女はびくりと身体を震わせ、姿勢を正すように背筋を伸ばしてこちらを見た。緊張しているのか、その表情には若干の不安の色が見える。
どうやらオレの言葉を聞き逃さないよう集中してくれているようだ。
こういうところを見ると、やっぱりまだまだ子供なんだなって感じてしまう。年相応って言えばいいかな?
まあ、でも、こんな状況での一言目がこれってのはちょっと怖く感じるかもしれない。
何を言われるんだろう、と委縮してしまったんだろう。これはオレのミスだな。
「夕方にちょっと用事があってね。出なきゃいけないんだ。もし話がそれ以上長く続きそうならまた後日か、用事の後でいい?」
「……?」
信乃ちゃんは無言のまま小首を傾げた。
「実は町内会の集まりがあるんだ。色々事情があってどうしても抜けられなくてね。申し訳ないんだけど、そこは分かって欲しい」
「え、あ、いや……別にそりゃ構わねーけど……」
信乃ちゃんは困惑した表情を浮かべたかと思えば、呆れた様にオレを見つめて、こう続けた。
「あのさ、KY(空気読めない)って言われねぇ?」
「うーん……? オレはなるべくマイペースでいることを意識してるから……。それをKYと呼ぶなら……そうかもしれない」
「それをKYっつーんだよ!!」
そうなのか?
違くないか?
何故ならオレは別に空気を読めていないわけではなく、マイペースを崩さないようにしているだけだからだ。空気をあえて読んでいないというわけでもない。
それこそ、彼女が何を望んでいるかを察して、その期待に応えたつもりだ。
けどそこを議論しても意味は無いだろう。
彼女がそう思うなら彼女の中ではそうなのだ。別に彼女の認識を訂正させるほどの問題でもないし。
しかしオレが不服に思っていることが伝わったのか、彼女は口調荒くこう続けた。
「こ、こないだも!!」
そう怒鳴った彼女は何かに気づいたように表情を気まずげに変え、怒り肩をしゅんと降ろし、小さくこう続けた。
「……そうだったじゃん」
拗ねた様に唇を尖らせる彼女に、オレは苦笑を浮かべた。
「そっか。なんかごめんね」
「え、あ……。べつに、謝ることじゃねー……です」
信乃ちゃんは、ふい、と顔を背けてしまった。
機嫌を損ねてしまったようだ。だが、怒りの感情を感じないところを見るに、傷つけたというわけではなさそうだ。
続ける言葉を持たないのか、信乃ちゃんは気まずそうにしている。
未来が視えるっていう話をすればいいのに自分から話題を変えないということは、オレに再び口火を切って欲しいということか。
となると、信乃ちゃんはそういう甘え方の子なのかもしれない。
いわゆる誘い受けってやつ?
自分から行くというよりは、切っ掛けだけを作って、最終的には構って貰う方向に流れを持っていく感じの甘え方。
違うかもしれないけど。
だとすれば、とオレは思った。
なるほど。面倒くさい子だ。
オレは微笑みの下に内心を隠し、こう言った。
「それで……未来が視えるって話だったけど、今日ここに来たのはそれに関してなのかな?」
「……え? ああ、うん……そーだけど」
信乃ちゃんは一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、こくりと首肯した。
そして訝し気な表情でオレを見る。
「どうかした?」
「いや……信じてくれんのか? あたしのこと……」
信乃ちゃんはまるで怯えた子猫のようだ。
落ち着いた彼女は、自分の立ち位置が視えて来たらしい。
勢いで秘密を打ち明けた結果、再び自分が傷つくリスクに晒されているという現状が。
さて、どう答えようか。
信乃ちゃんの様子から推測するに、信乃ちゃんは過去に他の誰かへ秘密を打ち明けたことがあるんだと思う。そしてそのとき、信乃ちゃんは望む対応を貰えず、傷つくだけで終わった。
それはまあ、そうだろう。
だって、未来が見えるなんて、そんなの普通じゃない。
信乃ちゃんが当時どういう子だったかは分からない。だけどもし今と変わらない格好と言動だったのだとすれば……最悪、薬物乱用を疑われて警察沙汰になりそうだ。
たとえ信乃ちゃんの言動が、絵にかいたような真面目な優等生のそれだったとしても似たようなものだとは思う。
最初は冗談だと流されるか、相手のノリがよければ雑談として盛り上がるかもしれない。だがそれは決して信じてくれたわけではない。
そして若く未熟な精神は、諦めることを知らない美徳を以て、「本当なんだ」「信じてくれ」と縋りつき、最後には相手から精神疾患を疑われ、孤独感と絶望感の中に沈むのだ。
それは仕方のないことだ。
誰しも自分の持っている常識から逸脱しているものに対しては、恐怖や忌避感を抱くもの。
『相手の世界』と『自分の世界』が明らかに違うとき、人は排斥に動く。それは人類の歴史を見ても明らかである。
そもそも、信乃ちゃんが本当のことを言っているという保証もない。
未来が視える、なんて絵空事を真面目に捉え信じたとしたら、恥をかくのは信じた方だ。普通なら、そんなことはまともに取り合わないか、一笑に付して終わる。
オレは嫌いではないが、信乃ちゃんの格好は申し訳ないが一般的に見て、他人に好印象を与えるものではない。
まず、こいつは何を考えてるんだと訝しがられるだろうし、親身に相談に乗った後に掌を返されバカにされるかもしれないという警戒心も湧くだろう。
正直、オレだってそうだ。
見た目云々ではない。
会って二回目、名前すら本名かも分からない身元不明の少女から、突然「未来が視えます」なんて言われて鵜呑みにするなど有り得ない。それをするのは考え無しのただの馬鹿だ。
だからこそ、オレはオレの話を信乃ちゃんにはしない。
オレはこの子のことを、オレの悩みを明かすに足る相手だとまだ認識していない。まあ、そもそも中学生くらいの女の子に二十歳の大学生が真剣な人生相談というのも……ちょっとね……。
でも信乃ちゃんの方がオレにそう在って欲しいと望むなら、それは栄誉なことだと思うし、出来る範囲でなら力になりたいと思う。
思考を纏めたオレは、不安に揺れる信乃ちゃんの瞳を見つめてこう言った。
「え? 嘘なの?」
「ううう!?」
信乃ちゃんが目を見開いて唇を震わせ始めた。
「ウソじゃねーよ! あたしを嘘つき呼ばわりすんじゃねー!! やっぱアンタも―――」
「してないよ」
怒鳴り声をあげた信乃ちゃんに怯まず、言葉を遮って、オレは端的に告げた。
「してないよ」
じっと信乃ちゃんの瞳を見つめる。彼女の過激な反応は、きっと過去にそういう扱いをされたがゆえのことだろう。
オレは安心させるために、肩の力を抜いた微笑みを浮かべた。
たとえ信乃ちゃんがどれほど取り乱しても、オレは決して動じず、平静を保つ。そうすれば、信乃ちゃんも落ち着くだろう。
オレを見つめる信乃ちゃんの表情が、ゆっくりと歪み始める。
信乃ちゃんがオレの所作に何を感じ取ったのかは分からない。
泣きそうに見える表情の信乃ちゃんは、唇を震わせながらこう言った。
「あんたは……ちげぇのかな……?」
震えた声だ。
怯えたような瞳がオレを見つめる。
信乃ちゃんはオレに縋ろうとしているのだな、と分かった。彼女はオレに依存したがっている。
拠り所が無く、孤独でいることに疲れているがゆえに、盲信できる存在を求めているんだろう。
オレはそんな信乃ちゃんを見て、強い憤りを覚えた。もちろん信乃ちゃんにではない。この子にそんな表情をさせる程に劣悪な、彼女を取り巻く環境に対してだ。
頭を抱えたい気持ちだが、それをしては信乃ちゃんに不安を抱かせてしまうからできない。おくびにも出さず、内心でだけため息を吐く。
オレは信乃ちゃんを見つめて、問いの答えを告げた。
「ごめんね、信乃ちゃん。その問いにはまだ答えられない。君がオレと誰を比べていて、何が違うと感じたのか……。オレはその答えを持ってない」
信乃ちゃんが傷ついたように瞳を揺らす。拒絶されたと感じたのだろうか。
少なくとも、オレがこの子の望んだ答えを返さなかったということは間違いない。
繊細だなぁ。分かるけど。ホントに伝え方には気を付けないと……。
でも下手なこと言って盲信とか依存されても困るし、この子のためにならないと思うんだよね。
いやさ、確かに凄い面倒くさいことではあるし、オレが骨を折る義理も無いんだけど、さすがにね。ここまで露骨に助けを求められてるのに放って置くってのはちょっと出来ない。
「だから、まずは教えて欲しいんだ。君が何を考えていて、何に苦しんでいて、何をしたいのか……。前に言ったと思うけど、オレは別に君の敵じゃない。君が何か辛い思いを抱えてるってのは、今も凄く伝わって来てるからさ。言い辛いって思うなら、それはそれで構わない。オレとしては何か悩んでそうな君のことは心配だし、気になりもするから、教えて欲しいと思ってるけどね」
「なんであたしのこと……」
信乃ちゃんが言い淀む。
オレはその言葉の先を想像し、引き継ぐように言った。
「気にするのか、って?」
信乃ちゃんは頷き、躊躇うように話し始めた。
「最初に会った時だって……。あんな格好のあたしをなんも聞かずに家にあげやがって……!!」
最初は弱弱しかった信乃ちゃんの口調が荒くなる。止められないのだろう。
強い口調とは裏腹に、その表情は痛々し気に歪んでいる。
あー、これは遮っちゃダメだな、とオレは思った。
何言われるんだろうと思いつつ、オレも腹を据えて傾聴の姿勢を取る。
信乃ちゃんは荒く続けた。
「おかしいだろーがよ! アンタおかしいんだよ!! アンタの周りだけ全然視えねぇし!! 隕石で地球は滅亡するはずなのにしねぇし!! 意味わかんねぇ!! 意味わかんねぇんだよ!!」
信乃ちゃんはテーブルに突っ伏した。握られた拳が震えている。ごめん。意味分かんないのこっち……。
語彙が乏しいのは、彼女が錯乱しているからだろうか。感情のコントロールを失っているようだ。
気になるワードが結構あったけど、今そこを突くことはさすがに出来ない。物凄く気になるが。
「なんでアタシがこんな!! おかしいだろーが!! おかしいだろーが!!」
信乃ちゃんの叫びは、世界を呪うような、怒りと哀しみが詰まったものだった。
オレの周りだけ見えないってどういうことだろうな、と思いつつ、オレは彼女が落ち着くのをじっと待つ。
「信乃ちゃん」
落ち着いて来たのか、突っ伏したまま黙り込んだ信乃ちゃんに、オレは声をかけた。
びくり、と信乃ちゃんの肩が揺れる。
やっちまった、とか思ってるのかもしれない。後悔とか羞恥に苛まれてるのかもしれない。
オレは思った。
―――今更だから気にしなくていいよ。
さすがに口にはしないが、そう思いつつ、オレは言った。
「話、聞くよ」
オレはさっきから考え方も捉え方も変えていない。
オレの言うこともやることも別に変わらない。
「なんで……」
ぽつり、と信乃ちゃんが言った。
オレはこう続けた。
「話してみてよ、信乃ちゃん。オレは君の敵じゃないからさ。力になりたいんだ」
「なんでぇ……っ」
信乃ちゃんの声が震えている。体勢的に表情は見えないが、泣いているように思える。忙しない子だ。それだけ追い詰められてたって事だろう。
恐らくだが、理由がない(というか理由の分からない)優しさが怖いのだろう。オレのこの対応が優しいかどうかは分からないけど、信乃ちゃんの反応的にそんな感じがする。
それほどまでに、この子は愛を注がれてない、あるいは愛を受けているという実感を得られずに生きてきたんだと思う。そしてあの夜の言葉を鑑みるに、えぐい裏のある表面上の優しさに晒されていたってところか。
可哀そうに。痛ましいことこの上ない。
オレとしては、信乃ちゃんがもうこれ以上ないって程に言外の助けを求めて来てるのを感じるから付き合ってるんだけど、信乃ちゃんは納得できる理由が欲しいようだ。それとも、「なんで」とはまた別の誰かに向けられた言葉かもしれない。
ならば、とオレは独白のような信乃ちゃんの言葉に、こう返した。
「君が苦しそうにしてるから。今はそれだけだよ」
「分かんねぇよ……! 分かんねぇよ……!」
信乃ちゃんが弱弱しく言う。
まいったな。
オレのちょっとした弱音からとんでもないことになってしまった。やはり感情に振り回された言動は碌なことにならないと痛感する。もうちょっと信乃ちゃんとの距離が縮まってからの悩み相談だったなら、ここまで拗れることは無かっただろうに。
まあ、しょうがない。切り替えよう。
ちら、と壁に掛けてある時計を盗み見る。
時間はまだあるし、根気よく行こう。
「さっきも言ったけど、別に今言わなくたっていいんだ。君が話したいと思った時で良い。今日で縁が切れるわけでもないし、またうちに遊びに来ても良いしさ」
そしたら、そのうち話したくなるかもしれないし、もしかしたらオレに相談するまでもなく自己解決できるかもしれない。
それか……。
「他に信頼できる人がいるならその人に……」
「いねぇからきてんだろーが!!」
ばっと顔を上げた信乃ちゃんは目が赤い。
この野郎、と怒ってるのか哀しんでいるのか呆れているのか、あるいは全部か、ともかく何とも言えない表情でオレを睨みつけている。
「さっきから聞いてりゃよ! なんだよクソジジイ!! もっとねちっこく近づいて来いよ!! 露骨にアタシんこと狙ってくりゃいいじゃねーかよ!! 君の味方だの信じて欲しいだのきめぇおっさんみてェなこと言ってみろや!」
信乃ちゃんが放つ怒声と共に唾が飛び散る。
頬に掛かった信乃ちゃんの唾が冷えていく感覚がある。拭いたい気持ちをぐっとこらえて、オレは信乃ちゃんの気持ちを受け止めた。
なるほど。
そういう甘い言葉を掛けて来る人、男の裏を何度か見たことがあるらしい。
オレは試されていたのかもしれない。いや、それだと語弊があるか。今のあれこれは演技じゃなかったと思う。
今までの信乃ちゃんの経験とオレの対応があまりに違うから混乱が強すぎて素が出てきたって感じかな。多分、これが信乃ちゃんの素なんだと思う。
追い詰められて糸が切れそうになってただけで、この子、意外と強い子なのかもしれない。
オレは思ったことを口にした。
「信乃ちゃん……」
「んだよジジイ」
ぐし、と目元を腕で拭いながら、さらに言えば鼻も水も素手で拭いながら、信乃ちゃんがオレをぎろと睨み悪態を吐く。
オレは近くのティッシュに手を伸ばし数枚箱から抜き取って信乃ちゃんに渡し、こう言った。
「なんかさ、その方がらしいね。オレは嫌いじゃないよ」
「あぅ……」
そう言った信乃ちゃんは気の抜けた様にソファに腰を下ろした。
思わず微笑みを漏らしたオレを見て、信乃ちゃんは苛立たし気に、しかしどこか恥ずかしそうに眉根を寄せて、言った。
「うっせークソジジイ」
そう言った信乃ちゃんの肩の力が抜けたのが分かった。
オレは信乃ちゃんを見守ることを選び、静かに時を待つ。
そして、信乃ちゃんはぽつりぽつりと身の上話を始めた。
オレは思った。
―――長かった……っ!! 実際の経過時間以上に……っ!!
そう思ったのは束の間だった。
信乃ちゃんの話す内容が結構深刻だったからだ。
信乃ちゃんは父親の顔を知らないらしい。信乃ちゃんの母親が信乃ちゃんを妊娠したと分かるやいなや失踪したとのことだ。
信乃ちゃんは、母親から頻繁に暴力を受けていたらしい。
信乃ちゃんの母親はいわゆる夜の仕事をしていて、まともにコミュニケーションを取った覚えがないと。
信乃ちゃんの母親は信乃ちゃんが幼いころから毎日のように自宅へ男を連れ込んでいたらしい。しかも日によって違ったと。
狭い家の間取り上、薄い壁や扉越しに母親と男の「声」を聞いていたらしい。
それで気づいたらスケバン(死語)をやってたとのこと。
信乃ちゃんの話を聞きながら、オレは思った。
―――アレ? 未来予知の話は……?
未来予知ができることを明かしたら誰にも信じて貰えずに、みたいな話じゃなかった。
普通に人生相談だった。
いや、可能性としては考慮していたことではある。ただ、想像以上に重かったのでちょっと思考をリセットしただけだ。
信乃ちゃんは続けた。
それだけでもしんどかったのに、ある日、さらなる転機が訪れた。当然、悪い方に。
信乃ちゃんの母親が連れ込んだ男が、信乃ちゃんに乱暴を働こうとしたらしい。
さすがにオレも、信乃ちゃんを取り巻くあまりに劣悪な環境に憤りを抱いたところで、信乃ちゃんは事も無さげにこう続けた。
「まあ、そいつは準備してた木刀で半殺しにしたんだけどよ……」
半殺しにしたらしい。
強い。
準備してたということは、そのときから未来が視えていたのだろうか。というかうちに置いてった木刀って……。
聞いてみるとそうだった。なるほど、そこに繋がるのか……。
そして信乃ちゃんは母親に自分が乱暴されそうになったことを伝えたが、取り合って貰えなかったとのこと。
聞いてる感じ、男が何かをする前にいきなり木刀で半殺しにしたみたいだから、まあ母親の反応は分からないでもない。どうにも数日前に自分が乱暴される未来が視えたので、その男が家に上がった直後に後ろから木刀で殴りつけたらしい。
行動力が凄い。
だけど、母親からすれば自分が連れ込んだ男を錯乱した娘が凶器で暴行を加えたわけだから、分からないでもない。そして信乃ちゃんは必死に未来が視えたと訴えたが、ヒステリックを起こした(やはりそれ自体は分からないでもない)母親から手酷い拒絶を受け、家を飛び出した、と。
その後は友人を頼ったり、未来予知を駆使してなんとか生活をしていたらしいが、まあその間も男関係で色々あったらしい。しかも信乃ちゃんを襲おうとした、というか信乃ちゃんに襲われた男がなんと暴力団関係者だったらしく、街の暴走族を使って信乃ちゃんに追い込みをかけたのだ。腕っぷしには自信があった信乃ちゃんだが、さすがに多勢に無勢で負傷し、そしてあの夜に繋がったとのことだ。
オレは思った。
オレ、大丈夫かな……?
ていうか信乃ちゃんは大丈夫なのか?
あー、そう言えば信乃ちゃん、この街の暴走族全部潰したって噂になってたっけ。
信乃ちゃんがやったで合ってるんだよね?
「ん? ああ。構成員に闇討ち掛けて一人一人金玉潰した」
聞いてみると、物凄い言葉が返って来た。
うーん、想像以上にとんでもない女の子である。
この子、狂犬とか呼ばれるやつだろ。ああ、夜叉か。
そら夜叉とも呼ばれるよねっていう……。
普通に傷害罪な気もするが、自首を勧めた方が良いんだろうか?
いや、今はそこじゃない。
聞いた話を頭の中で整理して、オレはまずこう聞いた。
「その暴力団関係の人ってのはどうなったの?」
「わかんねぇ。多分、まだアタシんこと探してると思う」
「そうか……」
悩みながら呟けば、信乃ちゃんは血相を変えた様にこう続けた。
「あ、いや、付けられたりしてねぇから!! ライルさんに迷惑は―――」
オレは信乃ちゃんの言葉を遮って、こう言った。
「いや、相手が組織なら目撃情報があれば辿れる。付けられてるとかは今の時代そんな関係ないよ」
「そんな……」
信乃ちゃんの顔色がみるみる蒼褪めていく。
こう言ってはなんだが、この子ちょっと頭が……。
まあ、それはいい。
「分かった」
オレはそう言って、少し考えを纏めたくて押し黙る。
信乃ちゃんが蒼褪めた顔のまま不安そうにオレを見ている。
オレは携帯を取り出して電話帳アプリを起動し、電話番号を押した。数秒のコールの後、聞きなれた声が電話口から聞こえて来る。
相手の名乗りを聞き終えてから、オレは言った。
「こんにちは、東堂です。突然すみません。ちょっと問題が起きまして、力を貸して欲しいんですが……。はい。急な頼みで申し訳ないんですが、明日にでも……。あ、いえ、そうじゃなくて。はい、実は暴力団関係者とちょっと……。いえ、友人が少し……。いえ、おっしゃる通りです。はい。はい。すみません。あー、ちょっと用事が……。え? いいんですか? すみません。ありがとうございます。はい、分かりました。あ、それとですね……、実は、別件というわけでもないんですが、児童問題に強い弁護士の紹介も……。はい。はい。おっしゃる通りです。すみません。はい。はい。ありがとうございます。助かります。感謝しています。はい。ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」
耳元から電話を離し、ディスプレイを確認する。
電話が切れたのを確認し、テーブルの上に置いたオレは、改めて信乃ちゃんを見る。
信乃ちゃんは蒼褪めたまま、呆気に取られたようにオレを見つめていた。
オレは微笑んでこう言った。
「もう大丈夫だよ。信頼できる弁護士に相談したんだけど、すぐに動いてくれるって。今日の夜に会うことになったから、君も来てくれる?」
ぱち、ぱち、とゆっくりと瞬きを繰り返す信乃ちゃんに、オレは言った。
「大丈夫だよ」
「べ、べんごし……?」
「うん。ちょっとした伝手があってね。頼ってみた」
「なんで……」
信乃ちゃんが困惑したように言うが、なんでもなにも、もはやオレも巻き込まれてるし。まあ、巻き込まれてなくても、信乃ちゃんの家庭環境の件を聞いたときから相談はすることは決めてたんだけど。
信乃ちゃんは混乱した様子をそのままに話を続けた。
「え、あ、いや……だって……あたし、未来が視えるって言って……」
「そうだね」
「そうだねって……ふつう、信じねーだろ……。アタシの話なんて……。全部、ガキの与太話だって……」
「そうだね。普通はそうだと思う。オレが今、普通だったら明らかに愚かな選択をしたってことも分かってるよ」
今夜の相談もタダってわけじゃないし。でも、そのことは語るべきことじゃない。
そして、信乃ちゃんが何を言いたいのかも、分かってるつもりである。
「だったら、なんで……」
信乃ちゃんは困惑を露わにオレを見つめている。本当に訳が分からないと言った様子である。
でも、まあ、その答えは簡単だ。
疑って傷つけるより信じて自分がバカになった方が良い、なんて洒落たことは考えもしない。
君を信じるよ、なんて無垢な善良さも特にない。
ただオレが、かつて『傍にいて欲しかった人』に成りたかっただけだ。
だからオレは、今回の信乃ちゃんの問いに対してはあっさりと答えを口にした。
「そりゃ、オレが君に言ったんだから。休んで良いよって」
「……え?」
信乃ちゃんはぽかんと口を開いたまま固まってしまった。
オレは微笑みを浮かべ、穏やかな口調を意識しつつ、こう続けた。
「これまで、よく一人で頑張って来たね。あとは頼れる大人に任せていいよ」
そして最後、オレは信乃ちゃんのこれまでを労わる気持ちを込めて、優しく語り掛けるように言った。
「お疲れ様」
信乃ちゃんはオレの言葉の意味を理解できなかったのか、変わらず呆けた様子だった。
しかしほろり、と信乃ちゃんの目じりから一筋の雫が零れ落ちる。
信乃ちゃんは自分の頬を触り、指先についた湿り気を見つめる。
信乃ちゃんの唇が震える。
くしゃり、と信乃ちゃんの表情が歪む。
信乃ちゃんは両掌で顔を覆い、しばらくの間、静かに肩を震わせていた。
オレは静かにリビングを出て、扉を背にし、こう思った。
―――この後、見回りあるんだよね……。
消えた茶々ちゃんたちや木刀のことなど、結局オレの疑問は何一つ解決せず、信乃ちゃんの『異能』の真偽も付かないまま、新たな問題を抱えただけである。
でも取っ掛かりはありそうだし、今はそれで良しとしよう。
オレは少し歩き、目の前の扉を開ける。
そして目の前の器に座り、我慢していた生理現象を解放した。