ヤンキー?
翌日、オレは明日香さんを探し、大学の構内をウロウロと歩き回っていた。お茶代を請求するため、ではない。金銭的なことは、たとえ友人関係であっても、いや友人関係だからこそ有耶無耶にすることはよろしくないことだと思っているが、昨日は状況が状況だったので仕方がないだろう。お金の話はまた後日にちゃんとするとして、明日香さんのことを心配していた。
あのとき明日香さんは気丈に振舞っていたが、きっと傷ついていたはずだ。彼らの話を鵜吞みにするならば、あの御曹司は明日香さんの婚約者だった男ということになる。仮にも婚約者からあんな侮辱を受けて平静でいられるはずもない。
色々と疑問に思うところはある。あの御曹司たちが現れたのは、何故あのタイミングだったのか。下界やらのワード、瞳の色の変化などがそれだ。だが、それは二の次だ。あのときに御曹司にも言ったことだが、オレは友人を侮辱されて不愉快だったし、侮辱された当人である明日香さんの心が心配だった。
疑問はある。気になることはある。正直なところ、気になってしかたがない。だが、オレはそれを、「それはそれ」として心の片隅に格納することができるだけの自制心があった。
だが、どれだけ大学の構内を探しても、明日香さんの姿は無かった。田辺に明日香さんの姿を見ていないかと尋ねると、明日香さんは数日前から休学しており、大学では姿を見ていないと言う。 そのとき、なんとなくだが、田辺が虚ろな表情をしていて、声音にも力が無いような感じがしたが、多量の講義を受けている弊害だろうと思い、微糖の缶コーヒーを奢っておいた。オレの好みである。
しかし、どういうことだ?
昨日、いたよね……?
いやでも、昨日は図書室で会っただけで、彼女が講義を受けている姿は見ていない。オレに用があってわざわざ休学した大学の、それも図書室にまで来たのか?
何の用で?
そう思うと、そもそも彼女は何か用があって図書室に来たはずなのに、入って来て早々オレと一緒に出て行った。
何の用だったんだ。悩み相談はオレ側から提案したことだし……なんだったんだろう……。
あの御曹司は下界だのなんだの言ってたし、しかも眼が写〇眼みたいに変色してたし、なにか特別な力が働いて……。現実とか認識の改変とか、そういう系の……。昨日思った通り、やっぱり明日香さんは天界の天女とか天使とか……? じゃあ婚約者ってなんだ。追放とか言ってたが、どこ追放されたんだ……。
これでは講義にも身が入らない。今日は一限から最後まで講義を入れているのに、気づいたら一日が終わっていた。
日も暮れて辺りが暗くなった頃に講義が終わり、オレは最後に同じ講義を取っていた田辺と並んで大学を出る。田辺は「つかれた~」と伸びをしながら、「たまには夕飯を一緒しないか」とオレに声を掛けてくれた。
明日香さんのこともあって、気持ちを切り替えたかったオレは、田辺の誘いに乗ることにした。
共に同じバスに乗って、いつもの駅に辿り着く。そして田辺に誘われるままに、駅前にあるカラオケ店にオレは足を踏み入れた。オレ達は荷物をソファの上に放り投げて、思い思いの場所に腰を下ろした。二人で使うには、少し大きな部屋だった。
「ライさんってなんつーかぁ? 落ち着いてっからさぁ? カラオケとかで騒ぐのは嫌いなタイプかと思ってたぜ~。断られると思ってたからよ~。ダメもとだったんだけど、誘ってみるもんだなぁ~」
「歌を歌うのは嫌いじゃないよ。それに、オレは自分が落ち着いてるとは別に思ってない」
「そういうところなんだよなぁ~。なんつーの? 年上の余裕って奴? 感じちゃうよなぁ~。包容力って言うの? なんか何でも受け入れてくれそうな感じ、あるよなぁ~!」
「そうかな? でも、褒めてくれてるんなら嬉しいよ。ありがとう。君は愛嬌がある人だね」
「愛嬌? あんのかなぁ? あ、でも、姉貴は可愛がってくれてると思うんだよなぁ。よく遊びにつれてってくれたし?」
「お姉さんがいたんだ。確かに、そんな感じがするかも」
「そんな感じって、どんな感じ?」
「愛嬌があるってことだよ」
「そっか~」
田辺は気の抜けたような喋り方をする隙だらけといった感じの男だが、これで多くの講義を上位の成績で履修している優等生でもある。友達も多いようで、男女問わず、彼の周りに人は絶えない。だからこそ、オレは気になって訊ねた。
「どうしてオレを誘ってくれたの?」
「ん~。ライさんと帰る時間被るのって週一回だしさぁ。しかも一緒に大学出るなんて久しぶりじゃん? だからこのチャンスは無駄に出来ないって感じで? ライさんっていつも気づいたらいなくなってるしさぁ。結構前からこの時間に誘おうと思ってたんだけどさぁ。いつもこの時間、講義終わったらライさんすぐいなくなってる気ィすんだよなぁ」
「そんな足早に帰ってるつもりはないけど……。田辺がそう言うなら、そうなのかもね」
そんな他愛もない話をしながら、デンモクを使って歌いたい曲を探していく。田辺はアレがいい、これもいい、と一曲目に歌う曲を何にするか迷っているようだ。優柔不断なようである。
オレは一言断ってから、一曲目を送信した。流れ出すのは、落ち着いた感じのアニソン、そのイントロだ。それを聞いた田辺はぱっとデンモクから顔をあげて、笑った。
「その曲知ってんぜ~! ライさんってアニソン聞くんだなぁ。意外だなぁ! オペラとか聞いてるんだと思ってたからよぉ~!」
「オペラって……。仮に聞いていても、カラオケでそれは歌わないよ」
田辺の言葉に、オレは噴き出してしまった。これが『天然』というものだろうか?
オレが一曲歌った後、田辺はオレの歌を褒めてくれた。興奮した様子で、上手だと一生懸命に伝えてくれる。
田辺は裏表がなくて、曝け出した一面は人懐っこい善良なものだ。意図してかは分からないがユーモアもあり、雰囲気も柔らかく人を和ませるものだ。彼を慕う人が多いのも理解できる。改めて友人になれた感謝を伝えるべく、オレは田辺にこう言った。
「田辺。君はやっぱり愛嬌があるね。人を穏やかな心にさせる才能もある。間違いなく、君の美徳だよ」
「な、なんだよぉ~。そんな褒めんなってライさんよ~」
田辺がはにかんで頭を掻いた。一応断っておくが、田辺は坊主頭のマッチョマンである。筋トレを日課にしていて、家に筋トレマシーンをいくつか購入している程の筋金入りだ。だからこそのギャップもあって、人を惹き付けるのかもしれない。
「あ、オレこれにしよかな」
田辺がデンモクから歌う曲を送信した。片思いを歌った、切ないラブソングだ。オレは思わず目を瞬かせてしまった。
「意外だね」
「あ、ライさん今見た目で判断したろぉ~? ダメだぜそういうのはよぉ~」
「はは。ごめんね」
「いいけどよぉ~」
田辺はそう言いながら、歌い始めた。ビブラートが凄い。声も高い音域も出ている。結果、採点はオレよりも上だった。
「凄い特技だね。歌手になれそうだけど」
「ん~。そんなうまいわけじゃねぇと思うんだけどなぁ。気持ち込めて歌ったからかなぁ~?」
「気持ちを? もしかして、誰かに片思いをしているの?」
「……」
田辺は少し切なそうにはにかんで、マイクをテーブルの上に置いて、ソファに腰を下ろした。
「ごめんね。もしかして、触れて欲しくないところだった?」
「いやぁ~謝んねぇでくれよ、ライさん。話の流れ的にそうなっちまうのはしょうがねぇよ」
田辺は苦笑している。
急に空気が重くなったなと、オレは思った。場を和ませようとしている田辺の笑みが、逆にその悩みの深刻さを物語っているようである。オレは心配になり、こう言った。
「よければ相談に乗るよ? もっとも、オレはこの年まで恋愛をしたことがないから、役に立つかは分からないけど」
「ん~」
オレの言葉に、田辺は悩むように唸り始めたが、少ししてあっけらかんと笑い、こう言った。
「今はいいや」
「そっか。いつでも頼ってくれていいからね」
「ありがとよぉ~。やっぱライさんは包容力あんなぁ~」
オレは田辺に微笑みかけたが、それ以上は追求しなかった。田辺もまた、その話題を以後口にしなかった。その後も田辺の歌には気持ちが乗っていたが、ラブソングを歌うことは無く、まるで鬱屈した感情を発散するかのように、ロックな曲ばかりを歌っていた。
興が乗ったオレ達は、二人で終電直前まで歌い続けた。田辺は『オール』、つまり徹夜でのカラオケ続行を希望したが、オレはそれを丁重に断り、帰宅する選択をした。特に理由はないが、しいて言うならば気が乗らなかったからだ。歌うことは嫌いではないが、徹夜してするほどでもない。酷く残念がる田辺に対して、オレは苦笑しつつこう言った。
「また来よう。誘ってくれれば喜んで付き合うよ」
「ライさん、また付き合ってくれんのか?」
「うん」
「やったぜ~!」
オレが答えると、田辺は分かりやすく嬉しそうな表情を浮かべた。本当に裏表がない。感情がすぐに顔に出るタイプだ。しかも根が善良なのだろう。田辺との付き合いは大学に入ってからだが、人を不快にさせるような悪感情を田辺がその表情に浮かべているところを見たことが無い。たまに「薄情者~!」なんて恨みがましい言葉を、講義が終わったので颯爽と帰ろうとするオレに対して投げかけて来るときもあるが、当然本気ではない。顔が笑っているし、そんな彼を見た周りの友人たちは「あんたホントにライさん好きだね~。大型犬みたいじゃん」などと揶揄って遊んでいたりする。そんなやり取りを外野を交えてできる程に、田辺の雰囲気は優しくて人懐っこく、その懐は開かれているのである。
喜んでいる田辺は続けてこう言った。
「ボウリングとかも良いのかぁ~?」
「いいよ。経験はあまり無いけど、田辺となら楽しそうだ」
「お~! 楽しみだなぁ~!」
オレは田辺とボウリングで勝負する光景を想像し、笑った。
オレが勝とうが田辺が勝とうが、田辺は飼い主が帰って来た犬の様に大騒ぎをするだろう。全力で楽しむ姿が目に浮かぶ。先ほど田辺には姉がいると聞いたとき、オレは「それっぽい」という感想を抱いたが、まさに弟みたいなやつだ。これは田辺の姉も、田辺に構うのは楽しいだろう。
オレとしても楽しい時間だったが、退室の時間が来てしまった。オレ達は店を出て、駅へ向かう。その道中でも取り留めのない話をしながら駅に辿り着いたオレ達はそこで別れ、別々の帰路に就いた。その後、一人終電に揺られ、東堂家の最寄りの駅にて降りたオレは、ゆっくりと歩みを進めた。
田辺と二人で遊んだのは初めてだが、楽しかった。彼を中心とした友人たちの輪もまた、きっと楽しいものに違いないだろう。
そんなほんわかとしたオレの心は、帰路の途中で鳴り響く騒音によってしぼんでいった。
オレがこの時間に外を出歩くことは稀だが、それにしても、今日はやけに騒がしい。大通りを歩くオレの隣を走る車道には、先ほどから何台ものバイクが往復しているのだ。騒がしさの原因は、蛇行運転を繰り返すバイクの群れが放つ排気音だった。テールランプが帯となり、まるで一つの生き物のように揺れている。バイクは大小様々で、ハンドルが厳ついものになっていたり、後方の部分が肥大化していたりと、いわゆる改造車であることは明白である。暴走族だろうか? いわゆる特攻服のような衣装を身に纏い、時代錯誤に感じなくもない髪型をした女性たちが運転しているところを見るに、暴走族でもレディースと言われる人達だろう。近所迷惑な話である。
「危ないなぁ。それに煩い」
オレはこの騒音から逃れるために、いつもより早い場所で道をそれ、裏道を通って帰ることにした。煌びやかな大通りとは異なり、電灯も満足に整備されていない道だ。暗く静かな道のはずだが、遠くにはやはり騒音は聞こえている。せっかくの楽しい時間の思い出が台無しである。
落胆を感じながら歩いていると、バイクの騒音に交じって唸り声のようなものが聞こえた気がした。オレは立ち止まり、音のした方へと視線を向ける。そこには個人が経営している小さな自動車工場があって、暗闇の中目を凝らすと、その工場の壁に何か影のようなものが寄りかかるようにして蹲っているのが見えた。気になったオレは、ゆっくりとそちらへと近づいていく。
「ちッ……見つかったか……」
豊満な胸をサラシで覆い、素肌に血と土埃で汚れた白い特攻服を身に纏った少女が工場の壁を背にして座り込み、オレを鋭く睨みつけている。少女は長い長髪にパーマを当てていて、傍らに木刀を転がしていた。化粧もとても厚い。明日香さんとは違う方向でとても気合いが入っていた。平時ならば強気な美人といった風貌であるが、その表情は酷く辛そうに歪んでいて、殴られたのか腫れている。脇腹も痛そうに押さえているところを見るに、どうやら体中に怪我を負っているようだ。心配になったオレは少女に声を掛けた。
「君、大丈夫? 怪我をしているようだけど、何があったの? 救急車を呼ぼうか?」
「救急車だぁ? んなもん呼ぶんじゃねーよ。情けねぇ」
オレの問いかけに少女は悪態を吐いて拒絶を示した。しかし殴られたと思しき少女の顔は赤く腫れているのに、全体の顔色は悪く、呼吸も荒かった。放っておいたらこのままここで倒れてしまいそうだ。放っては置けない。心配である。
だがオレは同時にこうも思った。
――昭和のヤンキーもの……?
平聖が終わり、霊和を迎えた今の時代に、こんな気合いの入ったレディースが存在するのか。警察は何やってんだ警察は。
そんなオレの考えをよそに、少女はオレから逃れるようにオレに背を向け、木刀を力ない所作で拾うと、木刀を支えに、もう一方の手は壁に付けて、よろよろと立ち上がった。しかし足にきているのか、少女は数秒も立位を保ってはいられず、ふらついて倒れそうになる。少女は壁に肩から寄りかかり、気だるそうに俯いている。乱れた髪がセットされた形から飛び跳ねていた。
状況から考えるに、さっきの暴走族の集団は無関係ではないだろうが……。縄張り争い、いわゆる抗争というやつでもしているんだろうか。
そんなことを考えていると、少女が壁を離れ、一歩、二歩と歩き出した。見かねたオレはこう言った。
「君、動かない方が……」
「うるせぇじじい! 話しかけてんじゃねぇ!! ……ッ」
オレの声掛けに、少女は怒声を返して来た。しかし少女は自分の大声という、その程度の衝撃でさえ痛みを感じて立ち止まってしまった。それほどに、少女は傷ついているようだ。少女はまた歩き出すが、足取りはおぼつかず、今にも倒れてしまいそうだった。オレは少女に近寄ると、一言断ってから、ふらつく少女の体を抱き留めるように支えた。
「離せやじじい! 触んじゃねぇよ痴漢野郎が!!」
「落ち着いて。大丈夫だから」
じじい、と言われるのは少し傷つく。少女の歳の頃は中学生から高校生くらいだろうが、この年頃の少女にとって大学生はもう爺なんだろうか。確かに小学生の時のオレは、大学生をおっさんだと思っていた。しかしじじいとまでは……。
そんな考えは速やかに心の片隅に蹴飛ばして、オレは興奮している少女を落ち着かせることに努めた。
「大丈夫だよ。何もしないから。落ち着いて」
「してんじゃねぇか! はなしゃあ!!」
少女が暴れる。一、二発顔を殴られた。しかしオレは少女を離さなかった。何故ならば、少女の足腰に力が入ってないことは、オレに寄りかかってきていることから分かったからだ。少女の口と上半身は暴れているが、下半身は既に脱力してしまっているのだ。オレが手を離せば、少女は固いコンクリートの地面に倒れてしまうだろう。少女もそれは分かっているはずだが、暴れるのを止めようとはしなかった。少女はまるで傷ついた野良犬のように、オレに弱みを見せまいとしているのだ。少女を案じている旨を伝えるオレに、少女は強い言葉で威嚇し続けた。
「うるせぇんだよ! きめぇなてめぇ!! 死ねじじい!!」
「危ないよ、そんな怪我で動いたら。痛いんだろう? 動かない方が良い」
オレは思った。このままではオレが逮捕される。少女の言う通り、放って帰るのがベストなんだろう。所詮は他人事であるし、不良な少女の自業自得のような状況にしか見えず、わざわざ関わる理由もない。少女は続ける。
「てめぇにゃ関係ねぇだろうがじじい!! きえろや!」
いつもなら遺憾の意と共に不快感を示すところだが、今の少女は興奮していて、錯乱状態にある。それを咎めることはオレには出来なかった。少女は今、周り全てを敵だと認識しているのだ。味方がいるのだと言う認識を持つことすらできない恐慌状態にあるとも言える。だからオレはオレの考えを伝えるべく、こう言った。
「確かに、オレと君に交友関係はない。君が大人なら、警察だけを呼んですぐに帰るよ。でも、君はまだ子供だ。子供が傷ついているのを見て助けない大人なんていないよ」
「こ、こども……?」
急に少女が大人しくなった。オレは少女の表情を見る。腫れあがった目元や頬が痛々しい。可哀そうだ。少女は殴られて腫れた瞼の奥にある瞳を丸くしてオレを見つめていた。
ようやく会話が出来そうだと少し安堵したオレはこう言った。
「そうだよ。君、まだ高校生くらいだろう? オレからしたらまだ子供だ。だから心配なんだよ。君が大人でも当然心配はするけど、子供ならなおさらだ。こんな夜中に、人気の無い道で座り込んで怪我をしてるなんて、君本人に何を言われても、放っては置けないよ」
「子ども扱いしてんじゃねぇよ……」
何か思うところがあったのか悪態を吐く少女だが、その言葉は弱弱しい。内心は分からないが、少女を不快にさせたようで、オレは謝罪の言葉を口にする選択をする。何故ならこの年頃の青少年の心は複雑だからだ。やっと会話ができるようになったのに、下手に精神を逆なでして元の木阿弥になるのは憚られる。
「気に障ったなら謝るよ、ごめんね。君の意思を尊重して、今は警察も救急車も呼ばないことを約束する。だからまずは場所を変えよう。本当は今ここで、君に何があったのかを詳しく話して欲しいんだけど、オレの予想があってるなら、喧嘩とかに巻き込まれたんじゃないか? 大通りの暴走族がもし君を探しているなら、ここにいるのはあまり得策では無いよね?」
オレは穏やかな声音を意識し、ゆっくりと少女に話しかける。それは人を落ち着かせる効果があるからだ。少女は考えるように唸ったあと、こう言った。
「……マジで呼ばねえんだな?」
「約束するよ」
少女が言った確認の言葉に、オレは力強く答えゆっくりと頷いた。少女は静かに目を閉じて、大きくため息を吐くと再び瞼を開けた。少女は目を細め、眉根を寄せると、忌々し気に小さくこう呟いた。
「12分後……」
「えっ?」
近くにいたので聞き取れたが、少女は時間を気にしているような言葉を口にした。12分後に何かあるのだろうか? こんな状況で人と待ち合わせ、なんてことは無いだろう。
オレの疑問を遮るように、少女はこう続けた。
「分かった……。つれてけ。あたしゃ歩けねぇ」
少女の声音は弱弱しいものながらも、その口調は尊大で、頼み事は横柄なものだった。きっとそれは、彼女が彼女自身の心を守るために見せた強がりであり、必要なことだったのだろう。そして同時に、それはオレに見せられる精一杯の弱みでもあったはずだ。そう捉えたオレはただ「ありがとう」と一言伝えて、彼女に肩を貸して歩き出した。しばらくして、少女がこう切り出した。
「どこ行くんだよ」
「近くにオレの家がある。そこで少し休むといいよ」
「ふん……」
少女は小さく鼻を鳴らした。オレはその所作に、どこか諦念というか、失望のような色を感じ取った。いかがわしいことをするような人間だと思われてるのだろうか? やっぱりこいつもか、みたいなことを思ってそうな印象を受けた。
先ほどの態度からしても、人を安易に頼れず、信じられず、弱みを見せられない性質なのだとは察せられる。だが今の短いやり取りでオレは、彼女が「人を疑う要素」をこそ探してしまう子なのだと感じた。そういった性質を持つ人に多く見られる共通点に、「人を信じることを恐れるあまり、信じずにいられる理由を探す」といったものがある。何か裏切られた、と感じた時、やっぱりそうだった信じてなくてよかった、と心を守るための作用。
それが正しいのだとすれば、この少女は……余程傷ついているらしい。暴行を受け怪我を負っている体もそうだが、心のことだ。考えすぎかもしれないが、もしかすると家庭に問題があるのかもしれない。これは今まで以上に気を遣った方がよさそうだ、とオレは思った。
無言で歩くのも気まずいかと思って、オレは彼女に声を掛けることにした。
「大丈夫かな? 痛くない? 歩くペース変えようか?」
「うるせぇ。黙って歩けじじい」
あんまりな返答だったが、先ほど考えた通りに気を遣うべく、オレは微笑みを浮かべてこのように答えた。
「そっか。元気そうで安心したよ」
オレの言葉を聞いて、彼女はバツが悪そうな表情を浮かべた。そして僅かに唇を噛んで、俯いてしまう。
もしかすると、彼女は自分の口が悪いことを気にしているのかもしれない。素直になりたくてもなれず、攻撃的な言動になってしまう人はそれなりにいるものだ。しかしそれは仕方のないことでもある。そうならざるを得ない人生を歩んできたのだろうし、彼女の場合は、今の状況が状況だ。危機的状況にあって、彼女の心は心身を守るために張り詰めているのだろう。つまり、彼女の「うるせぇ。黙って歩けじじい」という言葉は「大丈夫。そのままで」と言い換えることができる、とオレは捉えた。オレは「気にしてないよ~」ということを言外に伝え、彼女を安心させるべく、微笑んでこう続けた。
「大丈夫だよ。気にしなくてもいい。分かってるから」
本当はなんにも彼女のことを分かってない可能性は大いにある。オレの推測が的外れで見当違いであり、普通に彼女の性格が悪くて、今オレがしていることに対しても「利用してやる」くらいにしか思ってない場合だ。だがまあ、そのときはそのときでいいだろう。明日香さんの時もそうだが、結局のところオレがやりたくてやってることだし。
オレの言葉を聞いて、彼女はびくり、と小さく震えて俯いてしまった。なんだろう、今のは。
怖かったかな?
気持ち悪かったかな?
「あんたは……」
「着いたよ」
彼女の言葉を遮る形になってしまったが、話は後で聞くとして、オレは自宅に着いたことを彼女に伝えた。隣の茶々ちゃんの家は既に電気が消えている。小学生はとっくにお休みの時間だ。
「結構でけぇな……」
「そうだね。一人暮らしには大きすぎるかもしれない。ああ、そうだ。安心して欲しい。今も言ったけど、オレは一人暮らしだから、他に誰もいないよ」
「それ、安心するとこじゃねぇだろ」
呆れた様にオレを見上げて来る彼女に、オレは小首を傾げる。公共機関に知られたくないような事情を抱えているのなら、オレに家族がいないことは彼女にとって都合がいいと思ったのだが。そこまで考えて、一つ思い当たる。彼女は女性だ。年若い女性が一人暮らしの男の家に不本意ながら上がることになって、「安心して」は違ったか。
「そうかもしれない。うーん、なんて言えばいいんだろうね……。警戒はしなくてもいいよ、とか?」
「なんだよそれ。そんな変わってねぇだろ。つーかあたしに聞くんじゃねぇよじじい」
彼女はそう言って、小さく笑った。少しだけ緊張が解けたようだ。オレは少し安心して、家の扉を開けた。
玄関に入り、木刀を靴箱に立てかける。そして靴のまま家の中に入った。彼女を降ろす手間を省くためだ。
彼女はオレが自宅に土足で足を踏み入れたことに驚いたようで、目を丸くしてこう言った。
「じじいの家って土足で入る家なん?」
「いや、違うよ」
「じゃあ、なんでじじいは靴履いたままなんだよ」
「君も靴を脱いでないけど……?」
「そういう話をしてんじゃねぇんだよクソジジイがよぉ!」
少女が怒鳴った。時間も時間だし、近所迷惑だ。隣の家には小学生が寝ているし、起こしてしまい、睡眠不足で勉学に差し障る様なことになればご両親に謝らなければならなくなる。オレはそれに関してはちゃんと伝えるべきだと思い、真面目な声音で、彼女をこう窘めた。
「お隣さんちには小学生の女の子がいるんだ。騒ぐのは止めて欲しい」
「……け。わーったよ」
すごく不服そうではあるものの、彼女は了承を示してくれた。ありがとう、と伝えながら洋室に入る。彼女はふん、と鼻を鳴らした。
オレは部屋の電気をつけ、ソファへと歩き出す。そして彼女をソファに降ろした。彼女は力なくソファの背もたれに寄りかかり、大きく息を吐きながら、天井を見上げた。パーマの掛かった長髪がソファの背もたれの向こう側に流れて揺れる。彼女は疲労困憊な様子で、脱力していた。
少しは安心したのかもしれない。
それと、実はこのソファはオレが仕入れたお気に入りの一品で、人をダメにするクッションに勝るとも劣らない座り心地をしている。それに和んだのも多分にあるだろう。
オレはソファに寄りかかって座り、動けないでいる彼女の足元にひざまずき、ちゃんと一言断ってから靴を脱がせた。そして立ち上がり、立った状態で自分の靴も脱ぐ。そしてオレは、指先に自分と彼女の靴を引っかけるように持ち上げて、彼女を見下ろし、こう言った。
「靴を履いたまま家に入った理由だけど、君を早く休ませてあげたかったからだよ。ゆっくりしてて。今、救急箱持ってくるからね」
「……っ」
微笑みを彼女に向けた後、オレは振り返って玄関へ向かった。鍵をかけ、チェーンをする。彼女の関係者がこの家に来ることは無いと思うが、一応は念のため。
そして二階に上がり救急箱を持って降りると、彼女はソファで横になり、その心地よさを体全体で感じ取っていた。オレはそれが微笑ましくて小さく笑った。すると彼女は腫れあがった顔を別の理由でほんのりと赤く染めて、睨みつけて来る。怒鳴って来なかったのは、先ほどのオレの頼みを覚えていてくれているからだろう。彼女は代わりに、小さくこう言った。
「……んだよ」
「気持ちいいよね、そのソファ。オレも気に入ってるんだ」
「べつに、んなことねーし」
彼女はオレから顔を背けた。オレは苦笑を浮かべ、彼女の傍に跪き、救急箱の箱を開けた。とはいえ、オレは医療などに詳しいわけじゃない。傷があるところを消毒して、絆創膏やガーゼを貼ったりするくらいしか出来ない。それでもしないよりはマシだろうが、出来るなら病院に行ってほしかった。
「……っ」
傷に染みるのか、時折彼女が身じろぎし小さく息を漏らす。その都度、オレは「がんばろう」と声を掛けた。そして処置が一か所終われば、ねぎらうつもりでその箇所を優しく撫でる。
手足の処置を終えて、オレは彼女に座り直して貰った。背中の処置をするためだ。それを伝えると、彼女は特攻服を脱いでくれて、背中を曝け出した。オレは黙々と背中の処置をする。
「背中、終わったよ。サラシの下は……」
オレは「自分でして」、と伝えようとした。さすがにサラシの下と腹部の処置は出来ないかな、と思ったのだ。だが、彼女はおもむろにサラシを解き出したではないか。度胸あるなぁ、とオレは思った。
手を止めているオレに、彼女はどこか挑発するような声音でこう言った。
「なんだよ? どうかしたか? ん?」
彼女の得意げな声には、オレが照れたり取り乱したりすることを望んでいたことがありありと滲んでいる。だが残念ながら、オレはそういうのには強い。だからオレは自然にこう返した。
「びっくりしちゃったよ」
「ち、つまんねー」
オレが全く動じていないことが分かったのだろう。彼女は小さく悪態を吐くと、鼻を鳴らした。癖なのかな?
背中の処置を終えて、オレは彼女にこう言った。
「胸部はお願いできるかな? その間、オレは廊下に出てるから、終わったら言ってね」
「なんだよ? あたしの胸触りたくねーのか? 今なら合法的に触れるぞ?」
彼女は背中越しにそう言った。
彼女の声音は少し硬かった。今の言葉が本心ではないことは明らかだ。であれば、彼女はオレの反応を試しているのだろうし、だからこそ「乗ってくること」を期待しているのだろう。そうすれば、彼女にはオレを「信じない理由」が出来る。
正直、オレとしてはどっちでも良いんだけど……なんか、この子すげぇ荒んでるからなぁ。
そう思ったオレはこう答えた。
「そんな自分を軽んじるようなこと、《《言って欲しくない》》よ」
「ふん。真面目ぶりやがって。ジジイが。てめぇだってホントはそうしたいって思ってんだろうがよ!」
彼女の言葉からは、彼女の生活歴が少し伺えた。
てめぇだって、という言葉はつまり、彼女がそう思ってしまうような目にあったことが以前にあるということだろう。
オレは男で異性愛者のため、当然、異性に対しての性欲はある。端的な否定には嘘が入ることになるし、彼女はそれをきっと見逃さないだろう。少なくとも、オレはそう思った。
オレに彼女の考えや悩み、苦しみは分からない。下手なことを言うべきではない。ならばいつも通り、オレはオレの気持ちを伝えるしかない。
だが言葉だけでは無意味だともオレは思う。疑心暗鬼が根強く見える彼女が最も欲しているものは、一つ二つの言葉ではなく、言葉に則した行動とそれに伴う結果だ。彼女は言葉ではなく、相手の行動や表情、雰囲気といった、全体を俯瞰して見ている。
「……君は、とても繊細な子だね。いや、そうならざるを得なかった、と言うべきか」
「……。いみわかんねぇ」
彼女は力なく呟いた。オレは俯く彼女の隣に救急箱を置き、こう言った。
「前はお願いできるかな? その間、オレは廊下に出ているから」
彼女の背中越しにそう言った。オレは彼女の返答を待たずに動き出し、廊下に出た。ついでにそのまま歩いてキッチンへ向かう。冷蔵庫を開けてプラスチックのボトルを、棚からコップを取り出して、ケトルに水を汲み電源を入れた。少しして湯が沸き、ボトルの中の液体をコップに注ぎ、さらに湧いた湯を注ぐ。柑橘系の爽やかな香りが湯気と共に昇り、鼻を擽った。お盆の上にコップを乗せ、彼女のいる洋室へと戻る。
扉をノックして、待つ。少しして、彼女の声が聞こえた。
「とっくに終わってるっつーの。いつまでそこにいる気だよジジイ」
入ってよかったらしい。オレが黙ってても入ってくると思っていた彼女は、いつまで経ってもオレが入ってこないものだから痺れを切らしたようだった。扉を開けて中に入った。サラシを巻きなおし、特攻服を着直した彼女は、訝し気な表情でオレの持つお盆に視線を向けている。
オレは彼女に近づくと、お盆の上のコップを差し出した。彼女はコップとオレを見比べて、こう言った。
「なんだよ」
「ホット檸檬だよ」
「だからなんでそんなもん……」
「オレの好きな飲み物なんだ。君にも飲んでみて欲しくてね。淹れたてであったかいよ。ほっとするんだ」
「湯気昇ってんだから、見りゃ分かんだよジジイ。つーかほっとするって、ホット檸檬だからってわけじゃねぇだろうな」
「え?」
「このクソジジイが。あたしが滑ったみてェんなってんだろうが。てめぇのせいだからな!」
「だからあまり大きな声は……」
「うるせえ!」
彼女はオレから引っ手繰るようにコップを奪い去った。彼女はそれを片手で持ち上げ、呷るように勢いよく飲もうとしていたが、その動きは直前でぴたりと止まった。彼女は両手でコップを持ち直し、ふー、ふー、と可愛らしく息を吹き、ホット檸檬に向けて風を送り出す。そしてちび、と舐めるようにホット檸檬を口に運んだ。
「どうかな? サービスで少し濃い目にしておいたんだ」
「うっせえジジイ。なんだよサービスって」
サービスはサービスだ。友人の家で出されたカルピスが濃い目だと嬉しいだろう。そういう小さな幸せの積み重ねが心の安らぎには重要なんだよ。
実際、彼女はオレの言葉にぶっきらぼうに返答したが、僅かに目じりが緩んでいるのが分かる。腫れてはいるが。
彼女がホット檸檬を半分ほど飲み、会ったばかりのときのような興奮状態からは完全に抜け出したことを確認して、オレはこう言った。
「たいへんだったね」
彼女は困惑した様子で、しかし恐る恐ると言った様子にも見える所作で、オレに視線を向けて来た。
処置を行っていて気づいたのだが、小さな傷が多い。それは昨日今日のものばかりではなく、彼女が日常的に傷を負っていることの証明でもあった。虐待されているのか、あるいは喧嘩を毎日のようにしているのか……。やはりどこか役所に相談した方が良いとは思う。だけど、約束は約束だ。今その約束を破れば、彼女の人間不信が増悪することになりかねない。乗りかかった船だし、最後までしっかりと責任は取ろう。オレは改めて決心した。
「べつに、たいしたことじゃねーよ」
彼女はぷい、と目線を逸らし、吐き捨てるように小さく言った。そしてこう続ける。
「いつもんことだ」
そう言った彼女の言葉にはどこか嫌悪のようなものが滲んでいるように思えた。それはオレへと言うよりは、彼女自身に向けられたもののように感じる。そしてそのことへの疲弊も滲んでいるように思える。
だからオレは彼女にこう返したのだ。
「だろうね。オレはそれを言ったんだよ」
オレの言葉に、彼女はゆっくりとオレに視線を戻す。オレは続けた。
「傷を見たけど、古いものも多かった」
そう言ったオレへ、彼女は咎めるように鋭い視線を刺してくる。
「なんだぁ? てめぇも止めろってヌカす口かよ? おあいにく様だがな、あたしゃ好きでやってんだ。男相手だってひるみゃしねぇんだよ」
「勝気そうだもんね」
「はあ? なんだこのジジイ。意味わかんねーよ」
彼女はオレをバカにするように、呆れたようにそう言って、天を仰いだ。コップを持ったまま手をお手上げ、というように小さく広げたことで、傾いたコップからホット檸檬を零し掛け、慌ててもとに戻している。
「色々、聞きたいことは在るんだけどさ。君、オレにそういうの話したくないでしょ?」
「たりめーだろクソジジイ。なんで見ず知らずのてめーに身の上話しなきゃなんねーんだよ。言っとくけど、これに関してもあたしゃ感謝なんてしねーからな」
「それは別にいいよ。オレが好きでやったことだから」
「へっ。あーやだやだ。そうやって善人ぶってるやつが、あたしゃ一番キライなんだよ」
「だろうねぇ。そんな気はしてたよ」
オレがそう言うと、彼女は気持ちの悪いものを見るようにオレに視線を向けて、こう言った。
「アンタさぁ、なんなんだよ。なにがしてえんだよ。さっきから何も見えねぇし」
「見えない? 何が? もしかして君、目が……」
「うるせぇジジイ。見えてるよ、あっちのカレンダーの祝日の内容もな!」
もしかして目に何か異常が起こっているのかと思って心配したのだが、そうでもないらしい。月末にある、大砲記念日とかいう意味の分からない祝日を日付ごと読み上げたので間違いないだろう。
気になるが……今は置いておこう。
オレは改めて彼女に向き直り、こう言った。
「君は……体にはたくさん怪我を負って、心にもたくさん傷を負って。きっと、君は凄く頑張って来たんだろうね」
だからこそ彼女は繊細だった。様々な事象を繊細に捉えなければ、彼女自身を守ることが出来なかったからだ。そしてだからこそ攻撃的だった。そうしなければ繊細になった自分を守ることが出来なかったからだ。内からも外からも、自分にも他人にも攻撃され続けた彼女の心身は酷く傷ついている。今の彼女に必要なものは休息だ。そう思った。
それが正解なのかは分からない。結局オレには、自分の気持ちを伝えることしか出来ないからだ。心が嘘偽りなく伝わるように、言葉を尽くすことしか出来ない。そう言う意味では、言動含めて全身で、かつ自然に自分の感情を伝えられる田辺は凄いと思うが、今は良い。
果たして、オレの言葉を聞いた彼女は息を呑んで動きを止めた。眼球だけが小刻みに動いている。
「だからオレが言いたいのは、今は休んで良いんだよってことかな。オレは、君の敵じゃないからね」
過酷な長い旅をしてきた渡り鳥が少し羽を休めるように、オレを止まり木だとでも思っておけばいい。彼女の言動はオレから見て、痛々しく感じる。
「ど、同情かよ」
俯いた彼女がコップを包む手を震わせながらそう呟いた。オレは彼女の前でしゃがみ、こう言った。
「どうだろう? ただ、疲れたら休むのは当たり前のことだよ。そうは思わない? 誰だって休む。オレだってそうだ。でも君は若くてエネルギーに溢れてて、休むことに無頓着みたいだから……人生の先輩として少しアドバイスをしたかったんだ。ほら、オレは君の言うようにジジイだからさ。よく聞かないかな? ジジイは説教が好きなんだよ」
オレは立ち上がり、彼女の頭をぽんぽんと軽く触る。初めて会ってからずっと威嚇し、体を大きく見せていた犬や猫が、小さく丸まったように見えたのだ。
「オレは二階で寝るから、一階は好きに使って良いよ」
そう言い残して、オレは洋室を出た。振り返る直前、彼女の肩が小さく震えているような気がしたが、気のせいということにして、オレは廊下を歩き階段を昇り、その途中で階段を降り、洋室に戻った。
彼女は少し赤らんだ目で、訝し気にオレを見ている。
オレはこう言った。
「寝る前にお風呂入ろうと思ったんだけど、着替えここに置いてたんだ。あ、それ」
「しまらねーんだよジジイ!!」
オレが指さした着替えに彼女は勢いよく手を伸ばし掴み取ると、力一杯オレへ向けて投げ飛ばした。
それを受け取ったオレはシャワーを浴び、寝た。
次の日の朝、オレがいつもより少し遅く起きた時、彼女の姿はもうどこにもなく、ただ味がやけに濃くて、具材がとき卵のみと言う味噌汁だけが、キッチンの上の鍋の中に満たされていた。
後日、この辺の暴走族がひとつ残らず壊滅したという話を町内会の集まりに出席したときに聞いた。たった一人の人間が、しかも無傷で。それをやったのは「金夜叉」と異名を取る金髪の女番長で、「この辺で暴れるんじゃねぇ! あの人の睡眠の邪魔になるだろうがよぉ!!」と叫んで本人が暴れ回っていたとのことだ。
……まあ、いいか。
それとさらに後日、最近この辺で家屋を物色するような動きをしている金髪の不審者を見掛けるので、空き巣などに注意してくださいという回覧板が回って来た。
用があるなら普通に来ればいいものを……。まあ、自意識過剰なだけで本当に不審者の可能性もあるし、戸締りはちゃんとしておこう。




