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巫女・妖狐6/巫女・妖狐1

 燃えカスとなった家宝のお札を呆然と見つめている神主さんの復帰を待つ。

 静かに、恐縮して。


 雅さんは目を閉じて反応を示さない。自然体な感じだ。

 待つ。

 

 神主さんが緩慢な動作で動き出した。涼音さんの持つハンカチへと震える手を伸ばす。

 

「これが?」


 神主さんの言葉は抑揚も無く端的なものだったが、だからこそ現実を受け入れられてないという心境を感じさせる。まるでこの世の終わりを目の当たりにしたかのような絶望感と浮遊感のようなものが伝わって来た。

 

 オレは深く頭を下げ、言った。


「きっとオレの体質のせいだと思います。オレには、他にそうなった原因が思いつきません。本当に申し訳ない」


 謝ることは苦では無かった。

 オレに自覚は一切ないし、オレの体質で家宝のお札がこうなったという根拠も証拠もない。謝る道理もないかもしれないが、罪悪感を抱いてしまった以上、謝罪せずにはいられなかった。


 神主さんはぎこちない動きでオレの方を見た。顔面蒼白で、今にも倒れてしまいそうだ。


「体質……。さっき言っていた、あの……? 魔人が爆散したという……?」


「ええ。異変に対するかなり強力な抵抗力……とオレは定義しています。そしてこれまでの経験から推測するに、どうやら無差別に作用するものらしく」


「札を異変と認識した君の体質が、札を燃やした……?」


「恐らくは。申し訳なく思います」


 神主さんは力なく首を振った。


「……。いや、君のせいではない。もとはと言えば、勝手に持ち歩いていた涼音の責だ……」


 神主さんの声には力が無い。深くため息をついて項垂れる。

 涼音さんがびくりと跳ねた。

 

「だが……ますます分からなくなった」


 神主さんがぽつりと言った。


「分からなくなった、とは……?」


「東堂さん、あなたのことですよ」


 頭をあげた神主さんは、困ったようにオレを見た。


「過去、多くの妖怪や、恐らくは霊能力者を手に掛けてきた魔人。そして我が一族に伝わる家宝の札……。それらを自覚なく滅ぼすその体質とやらが、私には理解できません。一体、あなたは何者なんです……?」


「本当に普通の大学生なんです。成績は可もなく不可もなく、先生方の覚えがめでたいわけでもありません。誰も信じてはくれませんが……。確かに交通事故で天涯孤独の身となったという重めの過去はありますが、オレ自体は普通……。大学生活も普通に送っていましたし、これからも普通に生きたいだけなんです」


 神主さんは一度瞑目した。そして涼音さんを一瞥してオレに言った。


「それは……大学生としては普通、ということですよね? あくまで学力的や立場的には平均的な大学生である、と」  


「それもあります。ですが、それだけではありません。確かに過去は波乱に満ちていましたが、今は人としても普通だと思っています」


 神主さんが小さく「なるほど……」と呟いた。

 そしてもう一度涼音さんを見てから、オレに言った。


「ひとつお伺いしたいのですが、東堂さんにとって普通とは一体何ですか? 普通の人、とは?」


「東堂様……っ!」


 雅さんが急に割って入る。


 どうしたんだろう、急に。


 神主さんが厳しい視線を雅さんに向け、涼音さんは驚いたように雅さんを見た。

 神主さんは静かに言った。


「雅さん、どうされましたか? 私の今の問いかけに、何か不都合が?」


「……っ」


 雅さんが逡巡し、悔し気に顔を背けた。

 不都合がありますって反応だけど、一体……?


「どうでしょう、東堂さん。お答えいただけますか?」


「はい……。それは答えられます。オレにとって普通の人とは、『他者の事情や境遇を尊重し、抱える苦しみや喜びに共感し、時には身を削ってでも手を差し伸べる人』のことです。それがオレにとっての普通ですし、そう在りたいと思っています。そしてさらにその先で、『頼れる大人』になりたい、と。そう思い、生きてきました」


 涼音さんが奇妙な反応を示している。

 神主さんは小さく笑い、頷いた。


「なるほど。では、あなたにとって『頼れる大人』とは? これも答えられるのでは?」


 それも答えられる。

 信乃ちゃんや律ちゃん、明日香さんのときもそう在りたいと行動したわけだし。


「そうですね。誰かが困っているとき、力を貸してくれる人です。単に話を聞く、相談に乗る、知識や経験から具体的な解決方法やその例を出す。必要であれば……自ら動くことも厭わず、向けられる悪意や困難への盾になる。そんな、色々な引出しを持っている人です」


「なるほど。これはあくまで私の所見でしかありませんが、やはりあなたは誠実で善良な人のようだ」


「……? ありがとうございます。どうして会ったばかりのオレにそのような評価を?」


 小さく頭を下げると、神主さんは笑った。


「お札のことです。故意に破壊したわけでもなく、あなたがやったという証拠もない。わざわざ明かす必要もなかった。なのにあなたは、札が焼失したことを自分のせいだと謝罪されました。謝らずにはいられないと言った様子で。だからあなたがそういう人なのではないか、と思いました。私も仕事柄多くの人間を見てきましたから。なんとなくですが、分かります。嘘を吐くのは得意じゃないんだろうな、と」


 そうでもないと思うけど……。バイト先のときは有耶無耶にしたし。

 ありがたいとは思うが、こそばゆい評価でもある。


「ですので、はっきりとお伝えします。東堂さんのおっしゃったことは『素晴らしい理想』です。平均的な考えや行動……『普通』ではありません」


「いえ……オレはそうは思いません。世の中には募金として身を切る方だっていますし、ボランティアというものもあります」


「なるほど。では、それをしない方のことを普通ではないと考えますか? 何故しないんだ、と問い詰めますか?」


「そんなことはしません。その人にも事情があるでしょうし、義務でなければ悪いことでもありませんから」


「そうです。私も多くの人を見てきました。良い人もいれば悪い人もいた。東堂さんの言うように、人には人の事情があります」


 ……。

 何が言いたいのか、なんとなく分かって来た。

 なるほど。

 多分神主さんが言いたいこととは少しずれているが、涼音さんが『普通ではないことにこだわりを持っている』理由も、オレの考えがあっていれば分かってくる。そしてそれは、オレが涼音さんの言葉が腑に落ち切らなかった理由でもあるし……求めていた回答の一つであると思う。


 神主さんは言った。


「東堂さんは何を以て『普通』を定義されていますか?」


 はっ、と気づきを得た。

 オレが『普通』と考えていることをしない人、出来ない人が居る。だけどオレはその人達のこともまた『普通』と捉えている。

 確かにそれは明らかな矛盾だ。


 じゃあなんでそんなものが生じているのか。

 答えはすぐに出た。


「オレです。オレはオレを基準に『普通』を定めていました」


 ―――オレ『が』普通だ。


 それは周りを押しのけることで確立する強烈な自我であり、異常事態すらものともしない平常性。


 普通じゃないとレッテルを張られたことへの苦しみが反転したもの。

 悪意なく人を苦しめる存在が『普通』であってはならないという強い義務感と、その存在もまた様々な事情からそうなったのだという共感性と、自分こそが普通だという強烈な自我がバチクソに激突して生じたもの。


 それが最近周囲から指摘され、オレも違和感を感じていた歪みの正体か。


 スッキリした。

 オレは大衆の中にいたかったし、大衆をオレの基準に合わせたかった。

 凄く傲慢だなと我がことながら笑ってしまうけど、自分のことを理解できたということもあって、悪い気はしない。


「ありがとうございます。長年つっかえていたものが取れた気分です」


「それは良かった。ご存じかどうかは分かりませんが……涼音も幼い頃……少し、アナタと似たようなモノを抱えていたものですから。どうにもお節介を」


「存じてます。涼音さんも幼い頃に苦労されたと」


 神主さんが「そうですか……」とか細く呟き、柔らかく笑った。

 涼音さんからそこまで聞いてるのか、という理解の呟きだろう。


 神主さんはどこか嬉しそうに涼音さんを見てから、改めてオレを見て言う。


「東堂さん。改めてお伝えしますが、あなたの考え方は素晴らしいものだと思います。善良で誠実……。父として、東堂さんのような考え方を持つ同級生や先生が、当時、涼音の周りに居てくれれば……そう思わずにはいられません」


 神主さんが穏やかにだが力強く続けた。


「だからこそ……その善良さを『普通』とひとくくりにせず、大きな個性として大切にしていただきたい。私はそのように思います」


 身に染みる言葉だ。

 自分で考えるととても気恥ずかしいが……そうか。オレは善良な人だったのか……。

 気恥ずかしいが、そう在れたなら嬉しいことだ。


 しかし……すごい。

 これが神主さんという仕事に就く大人。父親というもの。

 こういう人が普通なのかな。いや、きっとこの人が凄い人なんだろう。


 オレは深く頭を下げた。


「ありがとうございます。肝に銘じます」


 神主さんは嬉しそうに頷くと、雅さんの方を警戒するように見て言った。


「是非に。世の中には……歪みや自覚なき葛藤に『付け入る者』もいますから」


 オレも神主さんに倣い、雅さんを見る。

 雅さんは忌々し気に眉を寄せて俯いた。

 

 この妖怪……。

 さては気づいてたんだな。

 

 確かに効果的ではあったと思う。

 正直、かなり揺れていた。

 雅さんを拒絶することへの罪悪感が強まっていたし。


 まあ、オレの中の常識的な価値観が無意識に警鐘を鳴らしてくれていたからよかったけど。

 殺し屋のようなものに追われてるらしいほぼ初対面の女性を家に匿うのはさすがに躊躇する、っていうのはさすがに普通の価値観だと思いたい。


 さすがは神職とでも言うべきか。

 家宝のお札が燃えカスになった直後にここまで人に気遣いが出来るとは、なんて素晴らしい人なんだろう。


 ……。

 涼音さんはこのお父さんの忠告を無視してたのか……。別の意味で凄いな。

 

「しかし、困りましたね」


 ひと段落したことを悟ったのか、神主さんが本題に戻した。

 胸元を摩っているのはストレスがヤバいからだろう。可哀そうに……。


 神主さんはオレの方を見て言う。


「お札が失われたとなると、頼れるのは涼音の力と東堂さんの体質のみ。人類の存亡をかけた戦いにおける手札がそれだけとなると心もとない。この妖狐が全て本当のことを言っていれば、ですが」


 神主さんは気分が悪そうに胸元を摩っている。胃が辛いんだろう。

 千年規模の家宝を失った直後だというのに気丈に振舞われているだけでもすごいのに、建設的な話を続けようとされるのは頭が下がる。

 正直、オレはこの事態が凄くめんどくさく感じてきているんだけど。


 言ってもしょうがないので、オレ達はさらに話を続けた。


 オレと神主さんは、雅さんから魔人の脅威についてと、涼音さんが魔人を相手にどこまで通用するか、という見解を引き出した。

 大妖怪の似姿をした魔人を相手には通用しないと思うが、下級のモノであれば問題ないという判断だった。しかし天狗と鬼がかなり上澄みだったらしく、それが滅ぼされたとなれば、下級の魔人が個別に襲ってくることはないとのことで、来るとすれば上澄み連中か、下級であってもかなりの数でまとまって来るはず、と。


 雅さんについて。

 もともとは木端妖怪に毛が生えた程度の力だったらしいが、結構強くなったらしい。その理由は魔人の力を吸収したから、とのこと。

 御柱さんの力を使えていた『狭間』にいたときと比べれば大きく劣るものの、それでも今は涼音さんよりちょっと強いらしい。

 基準がよく分からないけど、現代最高峰の霊能力者と見込まれる涼音さんより強いって、やっぱり凄いんだろう。そして雅さんより強い魔人を問答無用で爆散させるオレの体質ね。


 神主さんが言った。


「東堂さんが体質に気づかれたのはここ一年とのことでしたが……もしや以前にも魔人に襲われたことが?」


「それが分からないんです。魔人かもしれないし、そうじゃないかもしれない」


「曖昧ですね……どういうことでしょう?」


 オレはこれまで身の回りで起きたことを神主さんに伝えた。

 すると神主さんは困ったように唸った。


「魔法少女に魔獣、異界の化け物、西洋の竜や麒麟に似た怪物……。聞いたことが無い……。妖怪以外にもそんな存在が……。あるいはそれもまた魔人……?」


 涼音さんが何かに気づいたように、はっと神主さんを見る。


「お父さん! 世の中にそれだけ怪異がいるなら、わたし退治屋で生きていけると思うわ」


 涼音さんの言葉を聞いた神主さんは信じられないものを見るように涼音さんを見て、頭を抱えると深い溜息を吐く。


 オレは思った。


 ―――子育てって、大変なんだな……。


「雅さん。実際、どうでしょう? オレが今言ったような異変も、魔人が起こしていることなんでしょうか?」


「……」


 雅さんが目を細め顔を伏せた。


 考えてる。


 この狐……。

 合っていたらすぐに返答するだろうに、どう答えるか考えているということは、違うんだろうか。問題は何を考えているのかってことだけど。

 いや、そもそも違ったら違ったで面倒くさいな。じゃあアレらは一体なんだって話になる。


「雅さん?」


「……左様でございます。それらもまた、魔人が引き起こせし異変……。東堂様は既に、多くの魔人を祓われてございましたか……」


「……」


「……」


 オレと神主さんはアイコンタクトを取った。

 神主さんも多分オレと同じ考えなんだと思う。


 信用できねェ……、と。

 でももし本当のことを言っているなら……と考えると無下には出来ないのが難しいところだ。


 神主さんは一度外の方を確認した。

 だいぶ長く話していたようで、外も暗くなってきている。


 神主さんは言った。


「東堂さん。本日はここに泊られてはいかがでしょうか。話はまだ長くなりそうですから。食事や衣服は用意しますので」


 夜も話をしようということだろう。

 仕方がない。


「ではお言葉に甘えます」


「良かった。では私は夕飯などの準備をしに一度離れます。話も長かったので、東堂さんも少し休憩を」


「オレも何か手伝えることはありますか?」


「大丈夫ですよ」


 神主さんが笑って言った。

 そのとき、涼音さんが「あっ」と声を漏らした。


「忘れてた。お父さんお父さん。多分魔人のせいだと思うんだけど、境内、凄いことになってたよ」


「なに?」


 離れようとしていた神主さんが立ち止まり、涼音さんの方を懐疑的に見る。

 雅さんは不思議そうに小首を傾げ、オレは静かに目を閉じた。


 涼音さんが続ける。


「扁額と狛犬の首が落ちてたし、灯篭は崩れてたし、木が縦に割れてたの……」


「なるほど……。魔人め……。結界をそうやって潜り抜けたか……」


「あの……、もしかしたらオレの体質のせいかも……。すみません」


「……」


「……」


 神主さんとオレの視線が重なる。

 神主さんは天を仰ぎ、


「魔人め……許せんな……」


 そう言って去って行った。




――――――――――――――――




 走る。

 走る。


 大きな異変、その波動を感じた。

 そこら中に散らばっている小さな妖怪たちが持つ妖力と似ているようで違い、そして比べ物にならないほどに大きな力。


 懐に入れた家宝の札が震えている。込められた力が今にも暴れ出そうとしているような。

 胸がざわつく。嫌な予感がする。

 お父さんの言葉が脳裏を過る。


 虫の知らせ。お父さんは自分の力が最近強まっていると言っていた。

 わたしもお父さんの力が強くなってるのは感じてた。

 お父さんが強くなっているんじゃなく、お父さんの力がより強く発動している感じ。まるでご先祖様がお父さんに力を貸しているような、不思議な感覚。


 買いだしの途中、うちの方からその感じが凄くした。遠く離れていても身近に感じるような力の波動。霊力と妖力、そして未知の力が混ざり合った歪な力の波動だ。


 わたしは買い出しを切り上げ、すぐにうちへと走った。

 いやな予感がする。

 お父さんはそう言っていたし、わたしも今、それを感じてる。


 階段を駆け昇り、鳥居をくぐる。

 破壊された境内が視界に入ったけど、止まらなかった。

 力の波動を凄く感じる方向へ、走る。


「お父さん!」


「……」


 見慣れた背中を見つけて叫んだ。

 お父さんは見慣れない鉄の棍棒のようなものを手に握っていた。

 振り返ったお父さんは、血塗れで……だけどその血がお父さんのモノじゃないってことはすぐに分かった。


 きっとお父さんの向こう側にいる着物を着た女性のものだ。

 わたしにはすぐに分かった。あの女性が人間ではなく、妖怪……それも狐の類だということが。そして……お父さんがお父さんじゃないってことも、わたしは既に理解していた。


 それでも認めたくなくて、認められなくて、理解できなくて、わたしはお父さんに近寄り、声を掛けた。


「お父さん? どうしたの……? その女って、妖怪……狐だよね。やっぱり妖怪っていたんだね……?」


「……霊能力者か。まだそれほどの力を持つ者が残っていようとはな」


 お父さんが振り返り、冷たい目でわたしを見た。


「ただの人間ならば見逃したが……霊能力者となれば話は別だ。そこの狐ともども、ここで死ぬがよい」


「お父さん……っ!」


 お父さんはお父さんだった。

 声とか姿が、じゃない。感じ取れる霊力がお父さんそのものだった。

 だからお父さんが何か別のものになってしまっていることは分かっていても、すぐには受け入れられなかった。

 お父さんが妖怪退治をしている。そう思いたかったし最初はちょっとだけそう思った。

 でも、今の言葉を聞いて冷静になった自分もいた。


「憑かれたんだね。やっぱり、妖怪はいたんだ。でも、大丈夫。わたしがお父さんを助けるから!!」 


 懐から取り出したお札を掲げる。

 奥では妖狐が驚いた様子を見せていたが、今は無視する。


 広げた両掌の上でお札が宙に浮く。

 迸る霊力が光の奔流を作り出し、わたしの服や紙が風に靡く。


 お父さんの姿をした何かが鋭く視線を細めた。


「破ァー!!」


 宙に浮くお札をそのままに、手を引いて体の前で腕を回し、両掌をお札の背面に向けて勢いよく突き出した。 

 両掌はお札に届かず虚空を押したが、お札からは霊力の波動が飛び出した。丸太のような太さの霊力波がお父さんの姿をした何かを呑み込む。


「やった……! お父さん! もう大丈」


「人間風情が……っ!」


 腕を体の前で交差させた体勢で、お父さんの姿をしていた何かが呻くように言った。

 

「お父さん……?」


 お父さんはお父さんではなくなっていた。

 まるで塗装が剥がれ落ちるように、お父さんの体が崩れ、中の何かが見えている。

 

「おおおおおおお!」


 お父さんだった何かが唸り声をあげ……お父さんは目の前からいなくなった。

 見上げる程の筋骨隆々な巨体。血を塗りたくったかのような赤い肌。そしてツノ。


「鬼……! 貴様、お父さんをどうした!!」


「ふん、貴様はコレ(・・)の娘か。知る必要もない。死ねぃ!!」


 凄い速さで近づいてきた鬼が、わたしに棍棒を振り下ろした。

 咄嗟に手を動かせば、お札が追従しわたしと棍棒の間に移動する。


 霊力の盾が棍棒を弾き、鬼はたたらを踏むように数歩後退した。


「人間がァ!」


 まさに鬼の形相。

 怒り狂った鬼が雄たけびを上げる。

 鉄の棍棒をどこからともなく顕れた赤黒い炎が覆う。


「お父さんをどうした!!」


 わたしは突進した。スライディングの要領で鬼の巨体の足元に滑り込み、その足に札を叩きつけようと腕を振るった。

 鬼はその巨体に見合わない俊敏さで飛び跳ねて札を避けると、その丸太のような脚でわたしを潰そうとスタンプのように踏みつけて来る。

 咄嗟に身を翻しそれを避け、バク転を繰り返し移動する。新体操のような動きだと自分でも驚いた。お札の力がわたしに流れ込んでいる。身体能力が向上していることを実感する。


 狐の姿が横目に映るが、どうでもよかった。


 地面に降りた鬼が突進してくるのと、わたしが着地するタイミングは同時だった。

 わたしの防御は間に合わず、お腹に重い一撃を喰らう。


「がっ……」


 わたしは吹っ飛ばされた。

 その進路上に狐が居て、狐も巻き込まれる。


 社に激突し、扉が壊れる。


「い、いたい……いたい……」


 お腹も背中も、体中が痛い。こんな痛みは初めての経験だった。

 荒事なんて無縁だったから。そう望んではいたけど、実際にそうなるとやはり違う。


 けほ、とせき込んだ。

 いやな味がして、口から何かが飛び出る。

 血だった。


「はあ、はあ……」


 痛み。恐怖。

 そういったものがわたしの身を竦ませる。

 下敷きになっている狐のことに気づいたのは、狐が呻き声を漏らしてからだった。


 鬼が近づいて来る。

 嗜虐的な笑みを浮かべて、ゆっくりと。


「……」


 怖い。

 あれはなんなの。

 お父さんはどうしたの。どこにいるの。


 這いずるようにして後ずさった。狐の上から退いたとき、狐がむくりと体を起こした。


「怯えておるな……」


 狐は言った。


「あれは儂とおのれを殺すじゃろう。死にたくなければ、あれを滅する他ない」


「なにを……、あっ……」


 狐が変なことを言った。

 どういうことか聞こうとしたが、喋るだけで体中が痛い。

 

「アレは魔人と呼ばれるモノじゃ。人の世をおのれらの理に染めあげようとしおる害獣よ。儂にとっても、おのれにとっても、の……」


「……」


 何を言っているのか理解できなくて、狐を凝視した。

 狐はこちらを振り返らず、言った。


「おのれの父はあの魔人に喰われ死んだ」


 それが真実なんだということはすぐに分かった。

 あの鬼から感じる妖力と未知の力の隙間、あの鬼の体の中から、確かに慣れ親しんだ優しい霊力を感じるから。

 わたしは溢れそうになる涙を堪えてた。きっと酷い顔をしていると思う。


「仇を討つのなら力を貸そうぞ。儂は『雅』。世に残る最後の『あやかし』じゃ」


 狐は立ち上がり、背中越しにそう言った。

 なにがなんだかわからない。


 何が起きているのか分からない。


 狡猾で有名と勉強した妖狐の言葉がどこまで本当なのかも分からないし、そもそも言っていることの意味も理解できていない。


 だけど、一つだけわかる。

 それはお父さんがもういないってこと。あの鬼に殺され、食われたんだろうってこと。


 家宝のお札をくしゃりと握りしめた。

 激情に身を任せ、1000年に渡り溜められた札の力のすべてを解放させる。わたしの体に流れ込む霊力はあまりに大きく、わたしの体を飛び出して周囲に溢れかえった。小出しに引き出すという発想が無かった。わたしの体だけでは収まり切らず霧散した余剰霊力は後から考えるとすごく勿体ないものだったが、その一部は妖狐の体を包み、流れ込んだ。


 狐の腰から一本の尾が生えて来る。

 狐はそれに気づいていないようだった。ただ、狐の力が飛躍的に上昇したことは理解した。


 力が湧いて来る。痛みが引いていく。

 多分、錯覚じゃない。お札から溢れた霊力がわたしという存在の位階を押し上げてくれたんだろう。霊能力者、祓い屋としてのランクアップ。最初で最後のご先祖さまからの贈り物。


 立ち上がったわたしは鬼を見る。

 鬼はさっきの嗜虐的な笑みを引っ込め、顰め面をしていた。


 狐が腕を広げる。広げた掌に青白い炎が生み出された。狐火か。


「よいか、小娘。儂らが死ぬか、儂らが殺すかじゃ。何も考えるな。ただ殺せ。奴を殺せ。殺せ」


 暗示をかけるように狐は繰り返した。わたしも心の中で繰り返した。自分に暗示をかけるため。

 痛みや恐怖、困惑、そういうものを忘れるため、ただ狐の言葉に身を委ねた。


 ―――激しい戦いの末、わたしたちは鬼を滅することに成功した。


 両腕が千切れ飛び倒れ伏す狐の傍で、傷だらけのわたしは座り込んでいた。肉が削げた箇所もあるが、なんとか五体満足の状態だ。


 目の前では腹に大穴が開いた鬼が仁王立ちしていて……その腹の傷が徐々に広がり、光の粒子となって崩壊していく姿を見つめている。


 やがて鬼の体のすべてが崩壊し、その光がわたしと狐に流れ込んできた。


「……」


 お父さんの気配が完全に消えた。

 鬼が消えるときに少しだけ現れて最後の言葉を遺してくれる、なんてこともなかった。鬼の消滅と共に、お父さんの霊力も消えた。


 わたしは茫然と鬼の消えた虚空を見つめ続けた。



 ―――それがわたしと狐……妖怪退治屋を生業にすることを願った女と、『最後のあやかし』の出会いであり、これより続く、世界の存亡をかけた長い戦いの幕開けだった。



――――――――――


「変な夢、見たな……」


 どこかの病院の、真夜中の病室で、金髪の少女がトイレへと立った。

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