巫女→妖狐1
鬼の体が光の粒子となり、まるでスノードームの中の雪のように散って行く。
いや……、ゆっくりとどこかへ向かっているようだ。
狐だ。
狐の体の中に吸い込まれるように光が消えていく。狐の体が柔らかな光に包まれた。
かと思えば、光の中でどんどん姿が変わって行く。
おや……?
狐の様子が……?
なんてナレーションが流れそうな感じだ。
光の中で狐の姿が変化していく。
触ったらダメかな……?
ダメだよな。キャンセルされそうだ。進化かどうかは分からないけど。
「この人……」
やがて光が収まったとき、そこにいたのは……。
「雅さん?」
全裸の雅さんだった。
……。
何が起きているのか理解しようと目まぐるしく働いている思考を一端置いて、雅さんに近づいた。
とても磨き抜かれた体だと思う。保護欲を掻き立てる華奢な骨格、程よく乗った脂肪に、引き締まった筋肉。黄金のくびれ、豊かな母性、脚線美。まるで古代の彫像……芸術的な美しさ。それだけじゃない。血の通った『性』の艶めかしさが共存している。ただ筋トレをするだけでは到達できない領域……芸術に明るくはないが、感心させられる。きっとこれほどまで女性の肉体美を極めるに至るには、並大抵ではない努力があったことだろう。いや……狐が化けているだけならそうでもないのかな。
ただ哀しいかな。そんな体も、今は全身痣や傷だらけで酷く痛々しい。ふさふさの尻尾も力なく横たわって……。
尻尾?
まあ、狐だもんな……。
どっから現れたとか、もう考える必要もない。狐だよこの人。狐狐。キツネ。キツネが人間に変身しましたね。
世の中にはそういうのもあるんだ……?
狐か……。
雅さん、狐だったか……。
そうか……。
たしか初めて会ったとき、山ほどじゃがいもを煮てたけど、狐ってじゃがいも好きなのかな……?
あの日のアレは狐に化かされてたってことか……。言うほど化かされた記憶は無いけど、そうか。じゃあ世紀末大事故は狐の……というか雅さんの幻術だったってことなのか。それにしては初対面のときの反応が妙だよな……。
そもそも、何故ここに雅さんがいるのか、あの鬼は一体何なのか、そもそも何故狐から人の姿になったのか、オレが神社に入ったときのあれこれはどういったものなのか……分からないことだらけだ。
まただよ……。
せっかく魔法少女の事情をある程度把握できたのに、また理屈じゃ説明できないことが増えた。
鋼鉄の正常性バイアスがぶっ壊れ始めている。ウケる。
まあ、それは置いておこう。今、一人で考えても答えは出ないし。
雅さん……。
この人、いわゆる獣人なのかな。
それとも妖怪変化、みたいなやつ?
さっきのが本当に鬼なら、雅さんもその類な感じはする。初めて会ったときの言動もなぁ……今から考えるとそれっぽかったし。
この場合、動物病院と普通の病院、どっちに連れて行けばいいんだ。
倒れている雅さんの傍に近寄る。
尻尾を見る。やはり本物だ。ケツというか、尾てい骨のあたりからしっかりと生えている。
触れて良いものかどうか……。痣だらけ傷だらけの体は、触っただけでも痛そうだ。
「大丈夫ですか? 意識は……」
息はあるようだけど返事はない。
どうしよう。
こういうのって連れて帰るのがセオリーか?
信乃ちゃんのときは彼女自身が警察沙汰を嫌ったから意志を尊重したのと、不良の抗争真っ只中って感じだったから、最初はあの夜だけのつもりで匿ったけど……明らかに事情が違いそうだし。それにこの神社、結構遠いんだよね。東堂家から。物理的に連れては帰れない。せめて狐のままでいてくれたら……。
「あれ……?」
見る見るうちに雅さんの体中から痛々しい痣と傷が消えていく。
超再生能力。
もしかしてこの人、彩乃さんと同類か?
近くに彩乃さん居たりする?
人が居なかったのはそれでだったり……?
でも超再生能力って亜人とか異人によくある能力ではあるか……。
「彩乃さん、いる?」
一応、周囲を見渡してこっそりと呼びかける。
「彩乃さーん?」
声を張って名を呼んだ。けど反応は無い。いないらしい。別件か否かは分からないが、彩乃さんが近くにいないということだけは間違いないらしい。
雅さんの浅かった呼吸が安定してくる。
体中の痣や傷もほとんど残っていない。
単に全裸の美女が神社の砂利の庭で寝てるだけの構図になった。
シュールだ……。
オレは上着を脱いで雅さんの体に掛けた。
オレではどこかへ連れて行こうにも引きずることしか出来ない。かえって傷だらけになりそうだ。
とりあえず神社の人を呼ぼう。もしまだいたら、だけど。
さっきの鬼みたいに人間に擬態している化物とかじゃなきゃいいな……。
雅さんから離れ、神社を散策する。
人っ子一人いやしない。何故だ。
一回りして雅さんの所へと戻って来た。
雅さんはまだ寝ている。
仕方ない……。
起きるまで待ってよう。
それからしばらく、夕暮れが近づいてきたころ、雅さんが僅かに身じろぎをした。
「ん……」
近くの木の根に座って弄っていた携帯を仕舞い、立ち上がる。
雅さんの傍に寄り、しゃがみ込んだ。
「ん……ぁ……?」
雅さんが薄っすらと目を開ける。
あんまり近くても驚くだろうから少し距離を取って……。
「大丈夫ですか?」
「ぁ……? おのれは……」
「以前、一度会ったことがあります。東堂です。なにやら倒れていらしたので介抱を」
雅さんが起き上がる。痛みとかは無さそうだ。動きがスムーズだった。
オレが掛けていた上着がするりと落ちる。美しい肌、豊満な母性が曝け出された。
ぐい、と視線が頂点に吸い寄せられるのを鋼の精神で律する。
母性をほっぽりだした形になるが、雅さんは特に恥じらう様子もない。まあ、狐だしな……。いや、逆の可能性もあるにはあるか。元々が人間で、狐の姿が変身後っていう。
それにしても狐ねェ……。
あの夜の狐、この人だったのかなぁ。
「……? あ……?」
雅さんがオレを上から下までゆっくりと視線でなぞる。
「大丈夫ですか? 記憶が混濁しているのかもしれません。慌てないでゆっくり……」
「そうじゃ……っ! 魔人……っ!」
雅さんが取り乱したように周囲を忙しなく見渡した。
魔人っていうのはさっきの神主さんのことだと思う。
「落ち着いてください。大丈夫です。爆散しました」
「は……? 何を訳の分からぬ……」
雅さんはそこまで言って、はっと表情を変える。
「お、おのれは……!」
「思い出されましたか? 東堂です。以前……」
「おのれ……っ! おのれ東堂……っ! おのれと出遭うてから儂は……っ! 女の恥をかかされたあげく住処を追われ……っ! あ……?」
雅さんの表情が悲痛さと怒りが入り混じったようなものに変わり、叫ぶ。
かと思えば、スンと困惑したような表情に変わり、周囲を見渡した。
「彼奴の気配が無い……? よもやこの身の力は……」
雅さんがぎこちない仕草でオレを見た。
「おのれは……」
「おのれではなく、東堂です」
「……。東堂、おのれは魔人を……どうしたと……?」
「オレが何かしたってわけじゃないんですけどね……。神主さんに化けてた……のかな。雅さんに暴行を加えていたあの鬼みたいなやつなら爆散しましたよ。もう大丈夫です」
「……」
雅さんは柔らかく握った拳で艶やかな唇を隠し、気味の悪いモノを見るような目を向けて来る。
あまり良い気分じゃない。
「どうかされました?」
「どうもこうも……。おのれは……」
「雅さん。色々と聞きたいこともあるかとは思いますが今は抑えて……。オレも色々と聞きたいことはありますけど、今はそれよりもご自分を案じてください。見た感じではもう大丈夫そうですけど、実際どうですか? 痛みもそうですが、気分の方はどうです?」
人の姿であればマシというわけでもないけど、狐の大きさと人間の大きさでは加えられる力や与えられる威圧感は段違いだろう。狐の姿では、きっと身体的苦痛だけでなく、精神的な苦痛や恐怖も大きかったんじゃないかと思う。
「そうじゃな……。位階があがったゆえか傷は……。お……? 尾が……」
ずっとぺたりと地面に投げ出され動かなかった尻尾が突然ひゅんと動き出した。母性をほっぽり出したままの雅さんの背中越しにふりふり、と尻尾が躍る。
「尾が生えとる!?」
雅さんはどうやら自分に尻尾が生えていることに驚いているらしい。何をいまさら……?
確かに以前会ったときは尻尾が無かったけど。
ふさふさの長い尻尾の先が背中から肩を越え、雅さんの顔の前へと躍り出た。雅さんは自分の顔の前で尻尾を揺らし、感極まった様子で見つめている。
「なんと……! なんと……っ! ようやっと儂にも尾が……!」
雅さんの口ぶりからすると、どうやら雅さんには長い間尻尾が生えていなかったらしく、コンプレックスを感じていたみたいだ。以前に会ったときは尻尾を隠してたんじゃなくて、そもそも生えてなかったということか。
雅さんは本当に嬉しそうに自分の尻尾を見つめている。欲しかったおもちゃを買って貰えた子供のように純粋で嬉々とした表情だ。髪型の影響か、雅さんにはアンニュイな印象を抱いていたのでギャップが凄い。
しかし……さっきまで暴行を受けていたとは思えない切り替えの早さだな。嬲られてたこと自体を引きずっている様子はまるでない。人間じゃないからこそってことなのかな。
「なんというか、はしゃがれているところ申し訳ないんですけど、本当にもう大丈夫なんですよね?」
「あ……? まあ、不自由はせぬ。むしろ軽やかじゃ」
雅さんはいきなり立ち上がった。腰回りを覆っていたオレの上着が地面に落ちた。
今、オレはしゃがんでいる。
すっぽんぽんの妙齢の美女が、オレの目の前に立っている。
オレは視線を目の前の黒から太もも、膝、脛、足先へと移動させた。さっきまでオレの上着で隠されていた部分にも、怪我や痣は残っていない。本当に全身が回復しているようだ。
一方、雅さんは異性が目の前にいることを気にした様子もなく、手を開いたり閉じたり、足を振ったり腕を回したりと体を動かして調子を確認している。剛毅な女性だなと思うが、そういえば狐だったと思い直す。
「大丈夫そうでよかったです」
落ちた上着を拾って立ち上がり、雅さんと目を合わせながら上着を差し出した。
「どうぞ。隠してください」
「……あ? ああ……おのれは初心子じゃったな」
初心とか関係なく、マナーとして隠して欲しい。何も感じないと言えばそれは嘘になるけど、親しくもない全裸の女性が至近距離にいるという非現実的な状況は単純に居心地が悪い。
それに……。
これはオレ自身の尊厳にも関わることなので絶対に口外することはしないが……今日のお祓いのために、オレはすべての邪念を吐き出してきている。
それにしても、雅さんはやはり全裸を晒していることを気にも留めていないようだ。以前、しおらしくオレを誘って来た人と同一人物とは思えない。
もしかして、アレは演技だったのか?
なるほど……。
抱くことを願われる……確かに、ああいう流れに弱い男は数多いだろう。抜群の演技だったことは認めざるを得ない。昨今急増している性病等のリスク意識をオレが持っていなければ……。
そうして乗って来た男を……どうするんだろう。
食べる……?
性的に?
それとも物理的に?
あの日、扉を開けて居たらオレはどうなって……。
―――瞬間、爆散して逝った者達の姿が脳裏を過る。
……どうもなってないか。
むしろ雅さんがどうなってたんだろう。あの頃はまだ非現実を真剣には受け止めきれていなかったから、目の前で雅さんが爆散なんかしてたら立ち直れなかったかも。
差し出していた上着が雅さんの手に渡った。
だが雅さんは前を隠そうとしない。
「どうしました?」
……。
気が散るから尻尾を上下左右にぶんぶん振り回すのは止めて貰いたい。せっかく意識して雅さんの顔を見つめているのに、尻尾の動きに視線が持っていかれ、見ないようにしている雅さんの体の一部にピントが不意に合ってしまう。
しかし……本当に尻尾の存在が嬉しくて堪らないって感じだな。よっぽど重いコンプレックスだったんだろう。
雅さんが言った。
「この布では上か下のどちらかしか隠せぬ」
「それは確かに……。とは言っても、オレももう脱げるものが……」
肌寒い季節になってはいるが、オレはまだ薄着な方だ。もうTシャツしか着ていない。これを脱ぐと上半身裸の変態になってしまう。そして下はオレも脱ぎたくはない。
神社の人がいれば服を貸して貰うんだけどいなかったし、これは後で服を買ってくる必要があるかな。また出費かぁ……。
「儂はどちらでも構わぬ。おのれに任せる」
「じゃあ、上で」
「……」
即答したオレに、雅さんは「なんだこいつ」みたいな目を向けて来る。
いや、上半身はどうしても視界に入って来るけど、下半身は目線を下げなければ問題ないと思って。
雅さんは言う通りにオレの上着を羽織り、前を閉めてくれた。
やっと一息吐ける。
オレは一歩下がり、雅さんに深々と頭を下げた。
しまった。頭を下げたら見えてしまう。
すぐに目を閉じる。
「遅くなりましたが、以前は迷子になっているところを助けて頂いて本当にありがとうございました。結局、ちゃんとしたお礼も出来ないまま黙ってお暇することになってしまって……本当に申し訳なかったです。ご心配もおかけしてしまったかもしれませんが……おかげさまで、あのあとは特に問題なく家に帰れました」
「なんじゃ。おのれ、やはり気狂いの類か……?」
感謝を伝えてそんな返しをされたのは初めてだ。
衝撃が凄い。
顔をあげ、雅さんの目を見る。
「気狂いっていうの、やめていただけますか? 不愉快なので」
「不愉快は儂の方じゃ。女の恥をかかせおった」
ワンナイトラブの誘いを断ったことだろう。
「それは……すみません。恥をかかせるつもりはありませんでした。決して雅さんに魅力が無いというわけではなく」
「なんじゃおのれ、男色か。ならば迂遠な言い回しをせずとも」
「違いますね。誤解しないで貰えますか?」
さすがに尊厳まで傷つけようとは思わないので、「性病持ってそうなので断りました」とは言えないけど、言いたい気分になって来る。
……。
改めて思うけど、あの夜、断ってよかった。
確かに雅さんはオレが今まで見てきた中で一番綺麗で妖艶な体だとは思う。けどこの人、狐だもんな。性病どころの話じゃない。
「戯れはもうよい。……で? おのれは何者じゃ」
雅さんは直前までの雰囲気とは打って変わり、初めて会ったときのような鋭く冷たい気配を滲ませた。
「何者と言われても……。普通の大学生です」
「おのれのような普通があるものか。いかようにか魔人の一角を滅し、儂の術を見抜く目。おのれ、今も見えておるな? 儂の尾が。あのときもそうじゃ。迷子などと、儂を謀りおった。御柱の裁きをいかように避けた? 儂の用意した飯を食らい、嵐の幻の中、なにゆえ現世へ戻れた? おのれは一体、何者じゃ」
雅さんは鋭くオレを見据える。
「な……っ」
……?
雅さんが何かに驚いたような声を零したと思たら、あんなに動き回っていた尻尾が急にしんなりした。しかも震えてる。
狐もイヌ科だし感情が露骨に出てるなら……怯えてるのかな。
もしかしてオレに何か感じているんだろうか。
それとも、魔人とやらを滅ぼしたオレを上位存在と見ているだけか……。
―――とんでもない地雷。
瑠璃ちゃんの言葉がまた頭を過る。
「話をする前にオレも一つ聞いておきたいんですけど、雅さんって狐の妖怪なんですか? それとも獣人? きっと人間が狐に変身できるってわけじゃないんですよね?」
「……」
雅さんは「嘘だろお前」みたいな表情を浮かべてオレを見ている。
「おのれはそのようなことすら分かっておらぬのか……? まことか……?」
「分からないです。普通は分かるものなんですか?」
「……」
雅さんは「まじで言ってんのか……?」みたいな目でオレを見ている。
そっちの常識押し付けられても困るよ。
もしかしたら茶々ちゃんや瑠璃ちゃんなら雅さんがそういう存在だって一発で分かるのかもしれないけど、オレは今まで一般社会で普通に暮らして来たんだから分からなくてもしょうがないと思う。
雅さんは質問に答えてくれない。
「分かりました。先にオレが答えます」
なんかもう慣れてきた『体質』について説明をした。
雅さんの態度は変わらない。
しおらしく萎えた尻尾もそのままだ。
「そのような存在が……この世に……? 神々でも現人神でも魔人でもない……陰陽道に連なる者でもない……」
雅さんがじっとオレを見つめる。
「か弱い人の子にしか……見えぬが……」
雅さんが愕然としている。
バケモンみたいな扱いされてる気がする。
おかしい。
オレは一般社会で普通に暮らして来た。老人会では若い衆として可愛がって貰えている自覚があるし、バイト先の社員さんからも吞みに誘って貰えた。友人も普通にいる……というか出来たし、バイト先の先輩とも関係は良好だ。成績も可もなく不可もなく、身長は平均より高いけど運動神経が秀でているわけでもない。てっぺんなんて取ろうと思っても取れないし、ドベを取ることもない中間層。ちょっとハードな過去がある、能力的には普通の大学生。それがオレのはず。
なのに異変が関わると一気に『とんでもない地雷』、『なにこいつ』って扱いになるんだから世の中って不思議だ。
最近は妙に異変に巻き込まれることが多く、異変関係者には目立って見えているようだけど、オレの体質って普通に生きる上ではまっったく役に立たないからね。今年になるまでオレ自身も気づかなかったくらいだし。
これから大学を卒業して社会人になるにあたって、面接でのアピールポイントにも出来ないし、仕事の役に立つこともない。
いや……?
工事現場や工場なら役に立つかもしれない。
そう考えると割とすごいギフトなのか?
新しい視点だ。
おお……。
ちょっと嬉しくなって来た。
「雅さん、ありがとうございます。おかげでオレ、ちょっとスッキリしました」
「な、何じゃあ、突然。やはり気狂いの……」
「その言葉、止めて貰って良いですか? 不愉快なので」
何故、妖怪(仮)に気狂い扱いをされなければならないのか。
雅さんが素早く首肯した。
……?
まあ、改めて貰えるならそれでいい。
「それで、雅さんって妖怪なんですか?」
「……」
雅さんは答えることを戸惑っているように見える。オレとしては中途半端なやり取りが齎す弊害は茶々ちゃんの件で学んでいるので、しっかり基本情報を交換したいんだけど。
狐の妖怪。
ふと思った。
「もしかして妖怪だって名乗ったら退治されるかも、とか心配されてます?」
「……」
「なるほど。やっぱりそういう能力の方もいるんですね……。ですけどオレは違います。さっきも言いましたけど、オレ、本当にただの大学生なんですよ。仕事もスーパーで雑用のアルバイトをしているくらいで……」
「……」
雅さんが何も言わなくなった。
怯えているようだ。
無理もないのかも。
治ったとはいえ、雅さんが一方的にあんな酷い目に合わされた魔人を吹っ飛ばしたのがオレだ。妖怪は基本的に退治されるものだし、オレがそういう人だって警戒しているのかもしれない。
でも……急に、なんだよな。ホント今さっきオレを威圧するような言動を取ったばかりだし、それまでは普通に話せてたのに。
……。
もしかして雅さん……。オレが気づいてないだけで、今、オレに何かやったか?
それを跳ね返されたか消されたからビビり散らかしてるのか?
うわ、ありそう。
ホントに急だったもんな。
タイミング的にはオレに「何者だ」って聞いて来たときだろう。
「あの、雅さんって悪い人ですか?」
ちょっと含みを持たせて問いかけてみると、物凄い勢いで首を横に振った。
ああ……。
これやってるわ。
だからといって何が出来るわけでもないんだけど……。
「雅さん、人に危害を加えたことってあります?」
ぶわ、と雅さんが総毛立ち、脂汗が滲む。
「あるんですね……?」
「ち、誓って殺めてはおらぬ。ただちょっと吸っただけで……。皆、悦んでおった……っ。合意の上じゃ……っ!」
ワンナイトラブのことかな?
どうやら雅さんは性と精の気を吸うタイプの怪異らしい。その割にはクナイを持ち出してパワータイプの片鱗も見せてたけど。
でも、操って無理やりってわけじゃないなら、雅さんの誘いに喜んで乗っかった人がどうなっていようとそれは別に……。
「それと妖狐の嗜みゆえ……化かしを少々……」
やっぱり妖狐なんだ、雅さん。
九尾の狐ってこと?
でも尻尾が生えたことを大喜びしてたから、まだ見習いみたいな感じなのかな。
九尾の狐って言えば、古代中国とか平安の日本で美女に化けて王朝をどうのこうのって話だったはず。狐の妖怪ってみんな女に化けて男を誘惑するんだろうか。
『化かし』か。
夜道でびっくりさせる程度の可愛いものなら良いけど……。いや、それもそれでめちゃくちゃ迷惑ではあるよな。
どうなんだろう。
雅さんの善悪を理解したところで意味は無いけど。
オレが出来ることなんて警察と弁護士を呼ぶことくらいだから、国家権力が通用しない相手にはどうしようもない。茶々ちゃんや彩乃さん達のような……魔法も超身体能力もないオレには、仮に雅さんが悪い妖怪であったとしても戦うことなんて出来ないし。
……。
「雅さん。お願いがあるんですけど」
「……」
「これからは人に危害を加えないで欲しいです。出来ればでいいので」
「……?」
雅さんは困惑しているようだ。
オレの真意を測りかねているらしい。
「もし、妖怪が人に危害を加えないと生きていけない生態なら、オレの願いは破綻します。それは雅さんに死ねと言っているようなものだからです。だからといって人に害を為す存在を見逃すことは出来ませんから……。熊や猿はもちろん飼い犬でさえ、ラインを越えれば殺されます。雅さんが人を害する妖怪なら、今後もしも雅さんを退治できるような人に出会ったとき、オレにはその人に雅さんのことを……人に危害を加える妖怪のことをきちんと伝える義務があります。でも、雅さんには助けて貰った恩がありますから、出来ればそうなって欲しくない。そう思っています。それがオレなりの誠意です」
「……」
「実際、どうですか? お願いは聞いて貰えますか?」
「……」
雅さんは困惑の表情でオレを凝視している。
「その場しのぎの謀りを口にするとは思わぬのか……? 古来より我らは人を騙し、化かして来た」
「それは考えるだけ無駄だと思ってます。オレは雅さんのことも妖怪のことも、何も知りません。人間同士だって分からないのに、種族すら違う。オレの方だって、妖怪である雅さんに人間側のルールを押し付けて枠に嵌めようとしているだけです。だから騙されたとしても、それは仕方のないことかな、と」
「……」
「ただ……後から嘘を吐かれたのだと分かったら。それはとても哀しいですね」
「奇なことを……。儂を見逃すと?」
「いえ、違います。見逃しはしません。先ほども言いましたが、然るべき人と出会った場合、どのような場合でも報告はします」
「な……っ!?」
「ただし、もしも雅さんが退治されそうになったとき、オレとの約束を守ってくれているという確証があれば、オレはオレの全力で雅さんを庇います」
「……っ」
雅さんが息を呑んだ。かと思えば、俯いて何かを考え込み始める。
垂れていた尻尾がじわじわと動き出している。
「悪……彼奴……庇護下……」
なんか不穏なワードが聞こえたな。
やっぱりこの狐、悪い奴か?
「女狐め。我が同胞をよくも」
突如、獣の唸り声にも似た低い声が聞こえた。声は激しい怒りによって震えている。
声が聞こえた方に目を向ける。
上空。
空に男が浮いている。
「天狗だ……」
赤い顔、長い鼻。烏のような羽。
天狗だ。天狗がいる。
「違う」
「え?」
雅さんが言った。
「あれはかつて在った同胞の形を奪い現世に迷い出た魔の世の民じゃ」
「ごめん、雅さん。凄く緊迫した様子で説明してくれてるのに申し訳ないんだけど、何言ってるのかよく分かんない」
「……」
「つまり有名な妖怪の姿をしているってだけで、実際には中身が全然違う魔界の住人ってことでいいのかな?」
「分かっとろうが……」
オレの解釈で合っているらしい。
魔界なんてあるのか……。
日本の妖怪にまつわる伝奇……地域で小さく纏まったような展開を想像してたのに、魔界。
急にスケールが大きくなって来たな……。
きっと律ちゃんと迷い込んだ異界とは違うんだろうし……。まさか一緒だったりする?
あの化け物がこうなってる……いや、無いか。
改めて思うんだけど、この世界ってどうなってんの?
異変の種類が豊富すぎる。
裏世界パンクしない?
こんなにいっぱい異変があってなんで何一つ表社会に情報が漏れてないんだ?
魔法少女は……被害者が消えるのか。
律ちゃんの件は……一人だけ。
彩乃さんは彩乃さんが食い止めてるから漏れてなくて、明日香さんの件は……よく分からない。信乃ちゃんの件は普通に一般社会の闇と言うか、警察沙汰になっている。というかオレがした。
そう考えると、上手いこと噛み合って回ってる気もする。
それとも……オレがまだ知らないようなことも含めて、この世に存在する全ての異変を把握し、情報を管理しているような組織があったりするのかな。異変の被害を全部ガス会社に押し付ける鬼みたいな組織とか。
「う……っ!」
天狗が手に持っていた巨大な葉っぱのような団扇を大きくひと振りした。
すると雅さんが急に中腰になり、辛そうに両手で顔を覆った。髪の毛がオールバックになっている。雅さんのいるところにだけ、強風が吹いているようだ。
「ぐっ、うっ……!」
「雅さん、大丈夫?」
雅さんが呻くごとに、腕や太ももに鋭利な刃物で裂いたような傷が生まれ、血が噴き出し、風に飛ばされる。痛そうだ。それだけじゃない。オレの貸した上着も被害にあっている。
あの天狗が何かしたんだろう。
「そこの天狗」
「うん……?」
天狗がオレを見下ろし、訝し気に小首を傾げた。
「何をしているのかは分からないけど、今すぐ止めろ。雅さんを傷つけるな。不愉快で腹立たしい」
「女狐の色香に魅入られたこの世界の人間か。弱小。吹けば飛ぶ矮小なる小物よ。運よく我が嵐の範囲外におったようだが……。目障りだ、死ねぃ!」
天狗が団扇を大きく振るった。
「な、なにが……っ!? 馬鹿な……っ!?」
団扇が爆散した。
「貴様、何をした!?」
「なにも……」
「とぼけるな! いや、女狐、貴様か!?」
「えっ!?」
いつの間にか突風から解放されていた雅さんだが、顔や体中が傷だらけになっている。痛そうだ。攻撃全弾ヒットしました、みたいになってる。酷い……。
そんな状況でいきなり天狗から怒鳴られたものだから、雅さんはかなり驚いた様子だ。思わずと言った様子の声も出ていたし。
ごめんね、雅さん。
多分犯人オレ。
「ならばこの一撃を以て『最後のあやかし』に引導をくれてやる!!」
天狗が空中で姿勢を変えた。雅さんの方に頭を向けて一文字に、翼を羽ばたかせ、突っ込んで来る!
咄嗟に雅さんの腕を引っ張った。傷だらけの腕だから、掴まれたら痛いと思う。でもそんな配慮をしている余裕は無かった。
雅さんとオレが天狗の軌道上で重なった。オレはそのまま反対側まで雅さんを引っ張り飛ばすつもりだったが、天狗の突進があまりに速く、そしてその速さで進路を変えられるほどの器用さによって、天狗はそのタイミングでオレ達に……っ!
……。
シュレッダーに入れられた書類みたいに、天狗はオレの目の前で光の粒子になって消えた。鬼の魔人と違って断末魔すら残せなかったのは、そのあまりの速さのせいだろう。
「……?」
光の粒子がオレの頭上を越えて後ろに……。
「おっ、おっ、おっ!?」
雅さんがやけに艶やかな嬌声をあげる。
見ると……体が光っている。
少しして光が収まると、尻尾が一本増えていた。
「尾が……っ! 儂に尾が二本も……!」
雅さんは二本に増えたもこもこの尻尾を振り回し、喜びに浸っている。
そんな雅さんをじっと見る。
どういう理屈?
経験値制ってこと?
雅さん、勝ってないというか戦ってさえいないけど、いいのかこれで。
「あっ……」
見つめていたオレに気づいた雅さんが気まずそうに尻尾を動かすのを止めた。
ほぼ全裸だ。
切り傷だらけだった雅さんの体は既に治っている。だけど、オレが貸した上着は細切れになり、雅さんの体に僅かに布が引っかかっているだけの状態になっていた。
哀しい……。
「……」
「……」
雅さんを見つめる。
雅さんもオレを見つめている。
尻尾が動いた。
雅さんの股下から尻尾が出て来て、前を隠す。もう一本の尾が胸元を隠した。
……。
オレは思った。
―――出来るなら最初からしろや。
雅さんがすすすとオレの傍に寄って来る。豊満な体をぴたりと寄せ、媚びるようにしなだれかかり、こう言った。
「東堂様……。妾でも構いませぬ……。どうかあなた様の身の回りのお世話をさせてくださいまし……。お傍に置いてくださいまし……」
露骨だね……。
でも、そういう正直な人は嫌いじゃないよ。
「きゃっ」
オレは雅さんを引きはがした。




