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SH2

 落ち着いた様子の律ちゃんを部屋に残し、オレは首だけを外に出して周囲を見渡した。化け物の姿はなく、音もしない。廊下に体を出して、少し待つ。特に異変も無いことを確認してようやく律ちゃんに手招きをする。

 律ちゃんは縮こまりながら無言でオレの傍に寄って来る。体をぴったりと寄せて来るのはひと肌を感じることでしか摂取できない安心感を求めてのことだろう。余程恐ろしいようだ。確かに、薄暗い廃墟ってだけでもホラーの舞台に相応しいのに、荒れ果てた廃病院という要素を付け加えた上に、グロテスクな化け物なんて見たら普通なら恐怖が天元突破してパニックになるだろう。

 そこで、思うことが一つある。オレは今まで普通に生活していたし、ホラーというジャンルにそれほど興味が無くて触れる機会も少なく、それ(・・)を気にしてもいなかったけど……。律ちゃんや桃香ちゃんを見て改めて思った。


 オレ、恐怖って感情欠落してねぇ?


 拳銃を向けられたときや世紀末大事故に遭遇したときもそう。彩乃さんに助けられたときもそう。そしてさっきの化け物に襲われたときもそう。自分のことだから気づかなかったけど……。客観的に恐怖を感じている人を改めて見ると、普通ならそうなるよなって思った。そして、異変に対して一切恐怖を感じていない自分に気づいてしまった。

 確かに、それらが命の危険を生じるものだと冷静に判断することは出来る。だけど、そのことに対して恐怖心を抱いた記憶が無い。ああ、危険だから避けよう、と理性的に淡々と思考が処理される。

 さっきの化け物もそうだ。その見た目に対して感染症のリスクを忌避したり汚染される嫌悪を抱いても、恐ろしいとは感じなかった。


 マイペースに生きることを極め過ぎた……か?

 それとも、オレの未知の力が作用しているとか?

 よく聞く設定ではある。自分の精神性が能力として発現する、みたいな。それとは逆に能力に精神が奪われる、みたいなのも。

 

 いや、一つだけ恐怖を感じるものがある。

 それはオレが、他者から『一般常識から逸脱している』と評価され、嫌悪・忌避されることだ。逆にそれ以外に対して恐怖心を抱いていないという事実に気づき、驚愕する。

 そこまでトラウマかぁ……あの頃のこと。まあ、それはそう。本当に……辛かったしなぁ……。


 ……。

 何とも言えない。

 まあ、しゃあない。だからこそ昨日は信乃ちゃんを助けられ、今は律ちゃんを案じた行動が出来るとも考えられる。長所と弱点は表裏一体! 何事もポジティブに行こう。信乃ちゃんにもそんなこと言ったしね。


 死に対する恐怖が無いからといって、それを避ける行動が取れないというわけではないんだし。自分から命綱なしで高いところでパフォーマンスをする、なんてことをやりたいとかも思わないし。死への恐怖を感じていなくても、オレの中の一般常識がちゃんとオレを律してくれる。それが分かったのもラッキーだ。りっちゃんありがとう。


 ちょっと考え込みすぎたかな。

 律ちゃんが不安そうにオレの腕に手を触れた。また震えてきている。

 オレは囁き声で律ちゃんに話しかけた。


「りっちゃんは高校生なの?」


「はい。一年生です」


「そっかぁ……。学校はどう? 楽しい?」


 今は11月。新入生気分はもう無くなっているだろうし、交友関係なんかもとっくに固定されている時期だろう。オレは今世では高校生活は特殊だし、前世のことは覚えていないので普通の現役高校生の生活というのが気になる。


「そう……ですね。友達はいます。みんな良い子で一緒にいて楽しいです」


 少し含みのある言い方だったけど、踏み込んで良いものかな。

 でもこの状況を一緒に乗り越えるには信頼関係を深めた方が良いだろうと思うので、続ける。


「それは良いね。オレは友達があまりいないから……。最近は少し増えたけどね」


 最近増えた友達なんて、実際は信乃ちゃんくらいなので少し、という言葉ですら盛っているとも思うけど、そこは見栄を張らせて欲しい。


「何をして遊ぶの?」


「えっと、カラオケとか買い物とか」


「カラオケかぁ。歌、上手なの? オレはカラオケはあまり行かないけど、結構好きって最近気づいたかな。友人からはオペラとか聞いてそうって言われて笑っちゃったんだけど、好きなのはアニソンが好きかなぁ? りっちゃんはどういう歌を歌うの?」


「流行の歌です。その……わたしもアニソンが多いかな……」


「りっちゃんもアニソン好きなんだ? 奇遇だね。十八番とかあるの?」


「その、ちょっと心惹かれちゃう、とか。触って!とか。燃え上がれダム!とか。素直じゃなくてごめんねぇ! とか、ですかね……」


 ……?

 流行とは……? 

 それ、うん十年前のアニメの歌なんだけど……。それも君が生まれるずっと前。

 流行ってたのは違いないんだけどね。


 まあ、名曲は時代を経ても色あせないということだろう。

 それはそれとして結構曲名を出してくれたなぁ。どれも甲乙つけがたいくらい好きってことなのかな?

 ジャンルも多岐に渡るし。関係ないけど燃え上がれダムってネーミングセンス凄いよね……。


「古い歌が好きなのかな? 確かに昔の曲っていいよね。一曲の歌詞全部で一つの物語を作ってたり、直接的で分かりやすい言葉選びがされてたり。テンポが一定の曲が多くて、そこに味があるって言うか。歌謡曲の雰囲気を引き継いでるというか、時代を想起させてくれる暖かさを感じるよね」


「そうなんです!」


 律ちゃんは目を輝かせて言った。

 流れ変わったな。


「わたし子供の頃は体が弱くて、家にいることが多かったんです。でも両親が共働きで一人でお留守番をすることが多くて……、でもお母さん、わたしが寂しくないようにってアニメをたくさん準備してくれてて。わたしずっとそれを見てて大好きになって! 両親とアニメの話をするのも好きなんです。でも……それが全部お母さんたちの世代のアニメで……。それでその、お友達と話が通じないってこともあったんですけど……。でも、東堂さんの言う通り、昔のアニメの主題歌ってその、落ち着いてるっていうか、追いかけやすいペースっていうか、気持ちを落ち着けて聴けるんですよね! 最近の歌も嫌いじゃないですけど、あんまりテンポが早かったりするとちょっとどきどきしちゃって。急に激しくなるとびっくりしちゃうんです。大きい音が苦手で、カラオケはちょっと苦手に思ってたんですけど……でも誘ってくれるのは嬉しいので行って……。最初はみんな、わたしの選曲に戸惑ってて、わたし、きゅぅ……ってなっちゃったんですけど、でも、友達の一人が一緒に歌ってくれて、褒めてくれて。凄く嬉しくて。それでカラオケが好きになったんです! それでもっと歌えるようにって一人でも練習してて。友達はわたしがおっとりしてて声も落ち着いた感じだから昔のアニソンと合ってるって。それでわたし、もっと昔のアニソンが好きになって」


「そうなんだねぇ。そんなに熱く語れるなんて、よっぽど好きなんだなって、りっちゃんの想い、たくさん伝わって来たよ。聞いているとオレも昔のアニソンを聞きたくなったくらいだ。でも……今はもう少しだけ声量を下げた方がいいかもしれないよ」

 

 明らかに興奮して声量が大きくなって来ていたので少し窘める。微笑んで言ったので圧を感じさせていないとは思う。

 律ちゃんは恥ずかしそうに口元を隠し、身を縮ませて周囲を見渡した。

 そして恥ずかしそうにオレを上目遣いに見て、消え入りそうな小声でこう言った。


「ご、ごめんなさい。あまりその、今までそう言ってくれる人っていなくって……。わたしを褒めてくれた友達も、昔の歌自体にはあまり興味ないみたいで。その子は歌自体は流行のポップなのが好きなので……」


「分かるよ。趣味を共有できるって嬉しいよねぇ。一体感って言うのかな? 誰かと気持ちが繋がるって気持ちの良いことだし、もっともっとってなっちゃうのも分かる。微笑ましかったよ」


「……ぅぅ」  


 律ちゃんは顔を真っ赤に染めて首を竦めてしまった。

 緊張は解れたみたいで良かった。


「お友達も良い子みたいで良かったね。聞いてるだけでも好感を抱いたよ」


「はい。とってもいい子なんです。……帰れるのかな、わたし。お父さん……お母さん……」


 友達やご両親に会いたくなってしまったようだ。こんな不安に晒されれば縋りたくもなるだろう。


 しょんぼりとした律ちゃんに、オレも困った顔を浮かべてしまう。

 笑ってしまうと申し訳ないが、オレは多分帰れると思うんだよね。でも律ちゃんは確かに。誰かと一緒って初めてだからオレも戸惑うところはある。

 言われて思ったが、確かにそうだなと、律ちゃんの不安に納得する。普通、こんなところに突然迷い込んだらその心配も抱くだろう。その辺も少しずれている自覚をして、ちょっとナイーブになるオレである。

 無責任なことはあまり言いたくない。かといって素直に分からないというのも不安を煽ってしまうだろうしなぁ。少し考えてオレは言った。


「……そうだね。不安だと思う。でも信じよう。オレ達は帰れるって。またみんなに会えるって。二人でここから帰ろう。怖いと思うけど、踏ん張って帰る方法を探そう」


「あるんでしょうか……?」


「信じて探そう。気持ちを強く持って。大丈夫。不安になったら遠慮なく言って? ちゃんと受け止めるから」


「でも……」 


 信じたいけど信じきれない、そんな感じだ。迷子の子供のように、というか実際に迷子の子供なのは間違いないんだけど、困り泣きそうな表情である。


「そうだよね。不安だよね……。いきなりこんな常識破りな目にあったら何を信じたら良いか分からないよね。オレもそうだよ」


「……え? あ、その、ごめんなさい。凄く余裕そうというか、冷静そうで凄く大人なんだなって思ってたので……」


「マイペースをモットーにして生きてきたからね。もう顔に引っ付いちゃって取れないんだ」


「あは。なんですか、それー」


 少し律ちゃんが少し笑う。

 オレは少し新鮮味を感じて、内心でほっこりとする。

 律ちゃんと話していると楽しい。安心できるというか……オレの求めてる素朴な平穏がそこにある。

 状況的にある程度の配慮は必要だけど、ザ・普通って感じの感性の子だからだろうか。昨日一日で疲弊した心が和んでいく感じだ。

 田辺と明日香さんに会いたいなと、ふと思った。


 遠くからがらがらと、乾いた音が聞こえてくる。

 金属性の何かを引きずる様な音だ。さっきの奴とは別みたいだな……。


「……ひぅ!?」


 律ちゃんの体が跳ねる。悲鳴を小さく抑えてくれたのはありがたい。

 律ちゃんは腰が抜けそうなのか、生まれたての小鹿のように震える足で体を支えながら、両手をオレの方に伸ばした。両手も当然震えている。そしてふらふらと震える足を動かし、縋りつくようにオレの体に抱き着いてきた。抱き着いて来たというか、立っているのが大変だから支えにして来たという感じだけど。

 オレは律ちゃんの背中に手を回して安心させるためにぽんぽんしながら、なるべく早く近くの部屋に連れ込む。一緒に物陰に身を潜めた律ちゃんは、かたかたと震える手でオレの腕に手を回し、ぎゅっと体を寄せて来る。目を瞑り、竦み上がって。


 めちゃくちゃビビってる。りっちゃんビビってる。本当に、この子一人だったらマジで即死してそう。


 そう考えると、ちょっとこの状況って理不尽過ぎると改めて思う。化け物に見つかったら終わりってわけじゃないのはまだ有情かもしれないけど、誤差だ。

 気づかれていることに気づいていないふりをして、ゆっくりと近づいて来る化け物から知らぬふりを貫いて逃げないといけない。そうなると走ったらダメだろう。

 そしてゴールも分からないまま、じりじりと迫る恐怖に耐えて彷徨い続けなければならない。そしてその最中に前から他の化け物が来たら終わりというクソゲー具合。悲鳴なんてあげたら一発アウトだろうし、腰を抜かしても近づかれてどうなるか分からない。恐怖に屈するまで化け物が近くで待機してくるかもしれないし、近づかれた時点で有無を言わさず襲われるかもしれない。


 オレは助かったけど、本当に難易度がルナティック過ぎる。


 化け物らしき音が離れていく音を確認してから、再びオレ達は部屋を出た。

 ようやく動き出せる。

 そのとき律ちゃんが何かに気づいたのかか細い悲鳴をあげて言った。


「ひぅ……!? こ、これ、なんですかぁ……?」


 見ると、廊下にはじけ飛んだ肉塊だった。

 ああ、それさっき勝手に吹っ飛んだ白いバケモンの肉塊だよ。

 余計混乱させそうで言えなかった。


「もしかしたら……化け物がたくさんいるし、化け物同士でやり合うってことがあったのかもね……」


「……。あの、東堂さん。てててて手を……繋いでも良いですか?」


「……良いよ」


 肉片から目を逸らした律ちゃんの手を引いて、オレは前に歩き出す。

 しばらく歩いていたが、ふと目についたものがあって、オレは立ち止まった。


「ど、どうしましたか……? またなにか……?」


「いや、あれ……。手術室って書いてあるから。何かあるかなって思って」


「しゅ、手術室、ですか……」


「どうかした?」


「いえ、なんか嫌な予感がして……。どこかで見たような……」


「どこかで見た……?」


 気になる言葉だった。

 可能性を考える。

 ここにはなにか、律ちゃんの人生に関与するものがあるのだろうか?

 例えば幼いころに入院していた病院だとか。


「思い出せるかな?」


「……ごめんなさい」


「ううん。大丈夫だよ。でも、気になるね」


「はい。どこかで見たような気がするんですけど……でも……分かんないです……」


 しょんぼりとした律ちゃんを慰める気持ちを込めてその肩を軽く数度叩く。


 そうだな……。

 これまでの経験からすると、どうやらオレの立ち位置は、物語的に言えば脇役気味だ。彩乃さんしかり信乃ちゃん然り。大きな事件の中心には誰か別の人がいて、オレはあくまでそこに迷い込んでいる。でもそう考えると、明らかにオレを中心にして展開された世紀末大事故が例外として浮き彫りになる……。気にはなるけど、それは今は置いておこう。


 つまり今回の件、互いに迷い込んだという状況ではあるけれど、因果は律ちゃんの方にあると考えるのが自然だろう。

 とはいえ、ここが無差別に人を取り込む領域で、これまで何人もここで人が化け物に襲われて死んでいるなんて可能性はある。そして今の状況は、この領域の謎を解き明かしたり打ち破る様な『メイン人物』が現れる前、とか……。例えば……彩乃さんと初めて会った時にオレが思った、茶々ちゃんの物語の途中、みたいな感じの。でもそれだと、律ちゃん……。なんか動機にされそうだよね。メイン人物が動くための。行方不明の友人を探してとか、その亡くなった理由を探って……みたいな。


 とはいえ、それはオレの好きだった物語を当てはめた場合の考えであって、現実にその法則が適用すると考えるのはナンセンスだろう。事実は小説より奇なり。現実は正確にジャンル分けやひとくくりに出来る程に単純ではない。だが、ある程度のパターンには分けて考えられるはずだ。少し違うかもしれないけど、統計学ってそういうものだろうし。詳しくないから分からないけど。


 とりあえず考えていても仕方がないので、手術室に入ることにする。錆びついた扉を開き、中に入る。放棄された手術台に、メスなどの医療器具、よく分からない機材。

 探索する。埃の被ったメスを手に取って眺める。


「どうしたんですか?」


 オレに抱き着いている、というか張り付いている律ちゃんが言った。


「いや……武器とかって持ってた方が良いのかなって思って」


「ああ……そうですね。持ってないよりは……」


 そう言って離れて行った律ちゃんがメスを手に取る。


「……いや、止めておこう。慣れないものは持つべきじゃないと思う。自分の体を傷つける結果になるかもしれない」


 振り回して手を滑らせて隣のオレに刺さったり、律ちゃん自身に刺さったり。何らかの理由で倒れ込んだときに体に刺さったり。そもそもあの化け物たちにこんな小さな刃物が効くとも思えないけど。


「……確かに」


 律ちゃんは名残惜しそうにメスを戻した。

 名残惜しそうに……?

 いや、不安ってことだろう。確かに刃物を持っていれば精神的にマシになるだろうけど、いかんせん剥き出しだからな……。


「え、これ……」


 律ちゃんが何かを手に取った。


「どうしたの?」


「これ、昔わたしが失くした……なんでこんなところに……」


 律ちゃんが呟く。

 律ちゃんの手には片腕の無い熊の縫いぐるみが握られている。


「その縫いぐるみ……りっちゃんのものなの? どうしてこんなところにあるのか、心当たりはある?」


「いえ……。でも……これ、昔誰かに貰ったものなんです……。それが誰だったかは、思い出せないんですけど……。とても懐かしい感じがします……。あれ……?」


 しんみりと呟いていた律ちゃんが、何か困惑したように小首を傾げた。


「どうしたの?」


「わたし、何か……。忘れてる?」


 ……。

 流れ変わって来たな。


「それはその縫いぐるみについてではなくて?」


「それもそうなんですけど……。もっと何か……大事なことを忘れているような……」


「大事なこと……」


 このタイミングでってことは、この領域に関係することなのは間違いないだろうけど。

 ちょっときな臭くなって来た気がする。

 なんだろう。よくあるのは……実は律ちゃんはもう死んでてここはあの世とこの世の狭間でしたとか、誰かに恨みを買っていて引きずり込まれたとか、先祖の因縁がどうのとか前世の魂がどうのとかでその清算のために何か使命を帯びていて、とか。あるいはこの領域を作ってる『何か』と偶然にも波長が合っていて、その記憶みたいなのが流れ込んでいる、とか。


 答えは出ない。ただこれは言えると思う。


 オレは関係ある……?


 どの場合にしても、オレ、全然関係ないじゃない。仮に前世関係で共有事項があるにしても、ちょっと違くないですかね。今更と言えば今更だけど。それともオレを襲って来たあの化け物が実は東堂家の……。いや、さすがにそれは考えるだけでも失礼だった。忘れよう。


 そのとき、後ろから物音がした。びくり、と律ちゃんの体が跳ねる。

 なるほど……。縫いぐるみはどうやら重要なイベントアイテム的なものだったらしい。

 がたがたと震え始めた律ちゃんが、音の方を向こうとする。オレは咄嗟に律ちゃんの体を引き寄せ、抱きしめた。許して欲しい。

 そして耳元で囁いた。


「落ち着いて。アレは多分オレたちを認識してる。今アレを見るのはダメだ。さっき言ったよね? 特定の条件を満たすと化け物は襲ってくるって。化け物達は、オレ達に自分が認識されたと判断すると襲ってくる。オレ達は気づかないふりを徹底しないといけない。逆を言えば、そうでなければゆっくりと近づいて来るだけだ。逃げられる可能性はある。今からオレは君に寄り添って、ゆっくりと進んでいく。怖ければ目を閉じていていいよ。落ち着いて、ゆっくりとでいいから確実に、あの化け物から離れよう。ちょっと語弊が生まれそうな言い方だけど、オレの体温とか感触にだけ意識を向けて。化け物のことは考えないように。慌てず、落ち着いて行こう。大丈夫。オレが一緒にいるからね」


 律ちゃんはオレの体に身を寄せ、ぎゅっと掴む。そして声も出せないほどに恐怖に震える体で、小刻みに首肯してくれた。


 化け物が近づいて来る音がする。じゃらじゃらと、鎖を引きずる様な音がする。

 手術室に入って来た。

 オレは化け物の方を見ないように足元を見て、音から離れるように大きく周り、出口へと向かう。

 化け物はオレ達の歩いた軌跡をなぞる様に、ゆっくりと進んでいる。


 腕の中の律ちゃんの体の震えが強まっていく。呼吸も荒くなっているようだ。


「りっちゃんりっちゃん。大丈夫だよ。一緒にいるからね」


 可哀そうなくらいに震えている律ちゃんの腕がオレの服を握りしめる。


「そうだ。今度、一緒にカラオケに行こうよ。君の歌を聞いてみたいな」


 そんな他愛の無いことを囁きながら、オレは律ちゃんの体を抱き寄せている腕の指先を上下に動かして、あやすように律ちゃんの体を叩く。

 そうして手術室を出る。化け物はまだついてきている。ときおり、足元の障害物の存在を律ちゃんに伝えながら、ゆっくり進んで行く。


「律……」


 律ちゃんの名前を呼んだのはオレではない。

 律ちゃんを呼んだ声は、後ろから聞こえてきた。まさか、あの化け物、喋れるのか。しかも律ちゃんの名前を……。

 まさかオレの失敗か? 

 りっちゃんと呼んだから……?

 でも、本当に人語を理解するような知能があるのなら、なんですぐにでも襲って来ない?

 律ちゃんの名を呼んだのは反応を引き出すためだろけど、なんでそんな迂遠なことをする?

 オレ達がアレの存在に気づいているのは明らかだろうに、なんで対面するまで動かない?

 てっきり知能がないからこその習性だと思っていたけど、他に何かがあるのか……?


「え……?」


「ん? どうもしないよ、りっちゃん」


 ぽつりと小さくだけど、確かに反応してしまった律ちゃんは、オレの言葉で自分のミスに気づいたようで、がたがたと体を震わせる。


「りっちゃん、落ちつい……」 


 言葉に詰まってしまった。理由は簡単だ。


 いるなぁ……。目の前に。


 律ちゃんの頭を見下ろして囁いたとき、視界に入り込んだ何かに気づいてしまった。

 それが怪物の足だということはすぐに分かった。でも、人に近い。青白い肌に、血色の悪い血管が浮かび上がっている。足には枷がつけられている。その枷からは鎖が伸びていて、その先には鉄球が繋がっていた。


 凄く近い。本当に、目の前にいる。

 さすがに思考が止まった。

 後ろにいたはずなのに前にいる、というのは経験済みだけど、今は律ちゃんがいる。

 何を言うべきか、どうすべきか、思考を切り替えるのに時間がかかった。今目の前にいるアレには聴力がある。接近に気づいているようなことを口にするわけにはいかない。それが暗黙の茶番だったとしても。

 本当なら目の前にいるから引き返そうと言いたいけど、言葉をぼかす必要がある。


「りっちゃんりっちゃん。さっきの方向に気になるものがあったんだ。引き返そうか」


 察してくれと願うが、察してしまうとパニックになってしまいそうな危うさもある。

 この子、一人だったら本当に生き残れなそうだ。となると、やっぱり立ち位置的には前日譚の名もなき犠牲者の一人なのかな……?

 まあ、オレはそれを許さないけど。


 律ちゃんを伴ってゆっくりと振り返る。

 

 ……。

 あれ?

 詰んだ……?


 足元を見ているオレの視界に、さっき見た足と全く同じ足が入り込んでいた。


「律……」


 ……。

 化け物が律ちゃんの名前を呼んだ。

 さすがに困ったな……、これは。

 どうすればいいんだろう。

 律ちゃんを絶対逃がさないという意志を感じる。

 律ちゃんはぎゅっとオレの体にしがみ付いて震えている。


「……」


 多分目の前の化け物はまたオレ達が方向を変えれば、その方向に現れてオレ達の行く手を阻むのだろう。

 オレ達が動かなければ特に何もしてこなさそうだけど、律ちゃんが耐えられない気がする。オレだってずっと立っていることは出来ないし、いずれ疲れてなんらかの行動は余儀なくされるだろう。


 ……。

 仕方ない。

 そうなるまで考えるよう。


 とんとんと律ちゃんをあやすように手を動かしながら、この状況を打破するための考えに耽る。

 時折化け物が律ちゃんの名前を呼び、そのたびに律ちゃんはオレの体に顔を強く埋めて震えあがっている。

 そろそろ慣れないかな?

 慣れないよなぁ……。 


「……?」


 どれくらいそうしていたのか、化け物が踵を返した。オレの視界から消え、音も遠ざかっていく。


 諦めた……?

 オレは小さく視線を動かして入れそうな部屋を見つけると、律ちゃんを連れて身を隠す。


「もう大丈夫。目を開けていいよ。よく頑張ったねぇ……」


 目を空けてオレの顔を見上げた律ちゃんを安心させるために柔らかく微笑んだ。

 律ちゃんは緊張の糸が切れたのか、目に涙を溢れさせ、顔を両手で覆うと小さく嗚咽を零し始めた。

 オレは律ちゃんの肩に手を置いて、静かに落ち着くのを待った。


「すみません……」


「大丈夫だよ。もう落ち着いた?」


「はい……。ありがとうございます。東堂さんがいなかったらわたし……」


 しばらくして泣き止んだ律ちゃんが恥ずかしさと申し訳なさが混ざった様子で謝って来た。

 

 ……。

 吊り橋効果かなぁ……。

 律ちゃんのオレを見るその潤んだ瞳の中になんとなく変化が見えている。


 良いとも悪いとも言えないし、あえて律ちゃんにそのことを言及するつもりもない。そう言う傾向があるという話だ。

 恐怖で張り詰めた精神を守るための防衛機能なんだろうし、今は良いだろう。それでパニックが抑えられるなら、それは今に限ってではあるけど良い傾向と言えるだろう。ならオレは信乃ちゃんのときのように距離を取るのではなく、ある程度は受け入れてあげた方が良いかな。


 小さく微笑んで、立ち上がる。

 律ちゃんもオレに倣って立ち上がった。


 さっきと同じように廊下を覗き、周囲を見る。


 ……。

 やられた。

 化け物がいた。直視してしまった。見た目は……曜日のロードショーで夏にやっていたのをちらと見た、テレビから這い出て来る怨霊にも似ている。その足の近くには鎖に繋がれた鉄球が見える。

 長い黒髪を前に垂らして項垂れていたその化け物は仰け反るように頭をあげた。遠目にだが、歪に笑う口元が覗き見える。

 オレはすぐに振り返り、律ちゃんに言った。


「ごめん。待ち伏せをされていて、気づかれた。すぐにでもこっちに来ると思う。オレが囮になるから、ここで隠れていて」


「で、でも……っ!」


「いいね?」


 そう強く言って律ちゃんから距離を取ろうとしたが、遅かった。


「ひぃ……!」


 律ちゃんが悲鳴を上げる。

 やはり速い。化け物はもうオレの目の前にいて、オレ達を見て笑っていた。

 律ちゃんも認識されてしまった。オレのミスだ。


 化け物の体がうねうねと動き始めた。まるで捏ね上げられたうどん粉の様に縦に伸び始める。


「ひぃ……! ひぃ……!」


 律ちゃんが悲鳴を上げる。 

 化け物は天井にぶつかりそうなほどに伸び、そしてオレに向かって折り返して落ちて来た。

 狙われているのは顔だ。体内に入ってこようとしているのか……?


「あ……っ。ぁ……っ」


 後ろから律ちゃんの吐息が聞こえる。

 化け物がオレの体に触れる。


 寸前に、何かがオレの前に飛来し、光を放つ。

 化け物の絶叫が響き、そしてその絶叫と光が収まったとき、もう目の前からは化け物の姿が消えていた。

 ぽとりと、オレの足元に何かが落ちる。

 それは……腕の無い熊の縫いぐるみだった。


 ……?

 これもしかして、身代わりアイテムだった感じ?


「えっ……? え?」


 背後から戸惑いの吐息が聞こえる。

 それはそう。分かるよ。


「だ、大丈夫なん、ですか……?」


「みたいだね……」


 足元の縫いぐるみを拾いあげてから、オレは律ちゃんの方に振り返り笑いかけた。

 しかしなにを言えば良いか悩む。


 どうなんだろう。

 状況的には悪い……のかもしれない。

 もし本当にこの縫いぐるみが身代わりアイテムだとして、だいたいその効果は一度だけ使いきりだろう。そんな貴重なモノが……。本来なら律ちゃんの命を守るために使われるはずだったそれを、もしかしたらそんなものが一切必要ないオレが使ってしまった形になるわけで。

 凄い罪悪感がオレの中に溢れる。そうなると、やはりオレは全力でこの子を守る必要があるだろう。


「……ありがとう。この縫いぐるみ、オレを助けてくれたみたいだ」


「そう、なんですね……。この子が、東堂さんを……。あっ……」


 律ちゃんの手の中で、熊のぬいぐるみの片腕が、まるで砂が風に吹かれるようにして崩れていく。


「……え? あれ……? うそ……?」


 縫いぐるみに起きた異変。

 これはもしてかして……。

 オレがそう思ったとき、律ちゃんが慌て始める。


 律ちゃんを見る。

 オレの目の前で、律ちゃんの体が徐々に透け始めていた。


「ええ……?」


「えっ、えっ、えっ」


 律ちゃんがパニックになったようにそう繰り返す。

 

「落ち着いて、りっちゃん」


「助けて、東堂さん! たすけ……っ」


 オレは律ちゃんに近づきその体に触れようとしたが、その前に完全に透け、消えてしまった。


 ぽとり、と両手を失った熊の縫いぐるみがその場に落ちた。

 オレは熊の縫いぐるみを拾い上げてじっと見つめた。


「りっちゃん……」


 何が起きたんだろう……。

 実は律ちゃんが化け物の同類とかで、オレの何かで消されたとか、嫌な考えが過る。

 

 周囲を見渡す。

 人の気配、喧騒。窓から差し込む光。

 オレは元の病院に戻っていた。


 再び手元に目線を落とす。

 オレの手には熊の縫いぐるみが握られている。


 律ちゃんの身代わりアイテムらしきもの……。


 オレは思った。


 ―――やべぇよ持って来ちゃったよ。どうすんのこれ……。


 オレは思わず天を仰いだ。

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