ヤンキー?8 / GBF2
くぅ、と可愛らしい音がした。発生源はオレのすぐそば。オレの腹の近くだが、オレの腹からではない。信乃ちゃんだ。
信乃ちゃんは数歩下がり、小さく笑った。
「腹減った」
へへへと笑いながら、信乃ちゃんはあっけらかんと言った。特に恥ずかしそうにはしていない。生理現象への羞恥心は無いらしい。空腹で思考が切り替わったのか、先ほどまでの感傷的な様子も見られない。落ち着いたようだ。どうにもアンバランスな子である。もっとも、今日たびたび見せている泣き虫な信乃ちゃんの方がイレギュラーなのであって、素はこっちだろうとは思う。東堂家に軽い気持ちで羽休めに来て、実際にリラックスできたことで情緒が爆発して涙腺が緩んでいるが、それも今だけだろうなと思う。慣れてくれば精神的に不安定になることなく受け入れられるようになるだろう。そう在って欲しい。
オレは普通のことしか言ってないし、信乃ちゃんくらいの年齢の子ならば、それは当たり前に享受すべき大人からの気遣いだ。
信乃ちゃんは純粋と言うかなんというか……。世の中には下心を伴ってそう言うことができる人もいるし、本当に心配になる境遇である。
「御飯にしようか」
泣くのにも体力を使う。信乃ちゃんは今日だけで何度も泣いているから、疲労も大きいだろう。一般的にはもう夕飯の時間でもあるし、オレだって空腹は感じている。
「……」
「……?」
台所に向かったオレの後ろを、信乃ちゃんはとことこと付いて来る。付かず離れずくらいの距離だ。
冷蔵庫の前で立ち止まったオレの傍で、信乃ちゃんは立ち止まりオレを見ている。じっと。
「どうしたの?」
「えっ? あー……」
オレの問いかけに信乃ちゃんは目を丸くした。オレの後ろを雛鳥みたいについてきたのは無意識でのことか?
「テレビでも見てていいよ? これから作るから時間かかるし。……ああ。今日はご馳走するよ」
「え、まじ!? ライルさんあざっす! やっぱすげえなぁ! 飯も作れんだ!?」
現金なもので、信乃ちゃんは夕飯をご馳走すると言えばわかりやすく喜んだ。さっき信乃ちゃんは保険証も持っていないと言っていたから、財布も持ってない可能性が高いからなぁ。とりあえず今日は深く掘り下げずに世話をしようと思っている。長い付き合いになりそうだし、これは出世払いかな。
ふと思い出す。炊飯器を見た。電源は入っていない。そうだ。米が無い。あるにはあるが、炊いていなかった。今日は町内会の集まりだから御飯はご馳走に預かれると思って準備してなかったんだった。こうなっては仕方ない。
「ごめん、信乃ちゃん。お米炊いてなかったんだった。お弁当で良い? 買って来るよ」
「えっ……」
そんな見るからに落胆されるとこっちも気落ちするから止めてほしいと思う。
「お弁当はいやだったかな?」
「いやそんなことねーよ! 奢ってもらうのに文句言うつもりねーって! んな奴いんならあたしがぶっ飛ばしてやる!」
信乃ちゃんは握りこぶしを作って意気込んでいるが、さっきの落胆した表情をオレは見ている。
「残念そうだったけど……?」
「いやそりゃ、その……。ライルさんの手作り、食えると思って……」
「はは、なに言ってるの。上手だね」
弁当よりオレの手作りを所望しているらしい。だがオレの出来る料理はチャーハンとカレーと麺類と焼肉と野菜炒めくらいだ。大した違いはないというか、弁当の方が絶対に良い。
しょんぼりとしてみせる信乃ちゃんに思わず突っ込んでしまったが、信乃ちゃんは慌てた様子で続けた。
「世辞じゃねーよ! 弁当なんかよりライルさんの手作りの方が一億倍良いに決まってんだろ! ……まだ食った事ねーけど」
「そっか。ありがとう」
ママの御飯の方が良い!
なんて子供が言ってくれた親の心境はこんな感じなんだろうか。まだ一回もご馳走したことないけど、そう言って貰えるのは嬉しいものだ。
でも改めて考えるとオレも疲れているし、今から何か作るよりは弁当で済ませたい気持ちもある。機会はこれからもあるだろうし、今日は弁当にして、手料理は後日振舞うことにしよう。
「思えばこの後は弁護士先生との約束もあるし、弁当でさっと済ませちゃおう。でも嬉しいよ信乃ちゃん。今度……明日にでも料理作ってあげるからね」
「明日……?」
信乃ちゃんが不思議そうにしている。
そういえば伝えてなかったな。
「家、帰れないんでしょ? 今日までどう過ごして来たのか知らないけど、もしよければ今日は泊まっていきなよ。空き部屋があるから、そこで」
「まじ!? いいの!?」
すげー勢いで喰いついてきた信乃ちゃんに若干引きながら、頷いた。
「もちろん。嫌じゃなけ―」
「嫌なわけぬぇー! マジ助かる!! マジ感謝だって!!」
「そっか。じゃあ、すぐにお弁当を買って来るよ。ちょっと待ってて」
「あたしも行くよ!」
「いや、さっきは仕方なかったけど、信乃ちゃんはしばらく出歩かない方が良いと思う。すぐ戻って来るから、ちょっと待ってて貰えないかな?」
「……えー」
まーた不満そうな顔をする。
とはいってもそれは可愛らしい不貞腐れ顔だ。駄々をこねる子供のそれで、本気のそれではない。要は甘えているということだろう。
「頼むよ。ね? そうだ。好きなものはある? 買ってくるよ」
「好きなもん……かぁ……」
うーん、と唸りながら考え始めた信乃ちゃん。
「あのさ……」
「うん?」
「その、メシって言うか……アイスってダメか? バニラの……」
「ああ、バニラアイス? カップので良い?」
オレの返答を了承と受け取った信乃ちゃんの表情がぱあ、と明るくなる。
「あ、いや! やっぱいい! さすがに図々しいわな!」
信乃ちゃんはすぐに哀しそうな表情を浮かべて断って来た。
未練たらたらな様子を見てしまうと、かえってご馳走したくなるのが人情と言うものだろう。それに、個人的にもその一言が言えるのは好感が持てる。
「大丈夫。今日は遠慮しなくて良いよ。冤罪を掛けてしまったこともそうだし、木刀の件もあるし。オレからのお詫びだと思って」
「でもさ……泊めて貰って飯まで貰ってそのうえデザートまでってのは……。前だって助けてもらったし、このあとも……」
なるほど。信乃ちゃん的にはご飯をご馳走することの方が重いらしい。
ここでオレの方から引き下がってもいいんだけど、心の底から喜んでいたさっきのあの表情を見てしまっているから、今度はオレの方が心苦しくなりそうだ。サプライズで買って来ても良いけど、それはそれでまた同じ問答をすることになるだろう。それもまた面倒くさい。
だからオレはこう言った。
「信乃ちゃん、さっきバニラアイスってオレが言ったとき、凄く嬉しそうだったからさ。信乃ちゃんに喜んで貰えるとオレも嬉しい。オレ、信乃ちゃんがアイスを食べて喜んでくれるところを見たくなっちゃったや」
「ぅ……」
信乃ちゃんが口元を窄めて固まった。
そして頬が赤く染まる。
信乃ちゃんは恨みがましそうにオレを見つめて、気恥ずかしそうに目を逸らした。
「ずりぃよ、ライルさん。そんなん……」
ぽそぽそとか細い声で呟いた信乃ちゃんの姿を見て、オレは勝利を確信した。別に勝ち負けの問題でも無いけど。
「じゃあ、買ってきたら受け取ってくれる?」
「たっ! たくっ!! しゃあねえな! そこまで言うなら!! ……。い、いただきます……」
「じゃ、決まりだね。ちょっと待ってて。すぐ行ってくるから」
オレは財布を持って玄関へと向かう。
信乃ちゃんは移動するオレの後ろをとことこと付いて来る。
靴を履いて玄関を開いたとき、信乃ちゃんに声を掛けられてオレは一度立ち止まった。
「あ、あのさ!」
「ん? どうしたの?」
振り返ったオレが見たのは、何か思いつめたような様子の信乃ちゃんの姿だった。目線が上下左右に忙しなく動いていて、口をもごもごと動かしている。
「その……あたしが言うのも変な話かもしれねーけどよ……」
「うん? 大丈夫だよ。言ってみて?」
何を言いたいのか分からないが、言うほど変なことでも無いだろう。
オレは話の続きを促す。
「……その」
しかし信乃ちゃんは中々答えない。そんなに言い辛いことなのだろうか。
何やら物凄く悩んでいる様子なので急かすのも可哀そうだが、時間はそこまで無いので早めにして貰いたいところではある。
「あれだったら帰って来てから話を聞くけど……」
「……」
オレの提案に、信乃ちゃんはいやに傷ついたような表情を浮かべた。下唇を噛んでいる。
なんだ……?
帰ってからでは都合が悪いらしい。
「大丈夫。言ってみて」
仕方がないのでしっかり振り向いて信乃ちゃんに発言を促した。
信乃ちゃんは眉を強く寄せた。ぎゅ、と目を瞑っている。腹のあたりに持ち上げた両手の握り拳が震えている。
なんだ?
トイレなら別に使ってもいいけど……多分違うと思うんだよな……。
「その……い……」
黙って続きを促すオレに、信乃ちゃんは絞り出すように弱弱しく言った。
「いってらっしゃい……」
そう言った瞬間、オレは思わず頬を緩め、信乃ちゃんの顔は今まで見たことが無いほどに真っ赤に染まった。
なるほど。言いたかったんだね。
久しぶりに聞く言葉だったから、オレとしても嬉しかったらしい。自然に生じるオレ自身の頬の緩みが愛おしかった。
「行ってきます」
小さく手を振って、オレは東堂家を出て行った。
少し、歩く。
心が温かい。子供に出社を見送られる親の心境とはこういうものなのか。
憧れ、みたいなものがあったんだろうか。オレではなく、信乃ちゃんのことだ。
過酷な境遇で育った彼女は、ずっとそれを言いたかったのか。その言葉に言葉を返してくれる人を求めていたのか。これをオレから彼女に直接聞くことは決してないけど、きっとそうなんだろうなと思った。
ただ、葵と言う女性への態度や、初対面の時のオレへの態度、今も節々に出ている強気な態度。それとは正反対の、素朴な愛、というか触れ合いを求める純粋な子供のような信乃ちゃん。どっちも信乃ちゃんだよということは都度伝えておいた方が良いだろうけど。なにしろ……あの子が根底で求めてるのは多分他者との交流による精神的な安寧なんだけど、それがぶっ飛んで一時は性的接触にまでド直球に飛躍したからなぁ。
ペルソナと言う考え方がある。
簡単に言えば人は相対する相手によって見せる側面を変えると言うものだ。大人にとっては当たり前にこなしていることというか、老若男女共通して行われている普通のことだ。だけど年頃の子供にとっては凄く大きな悩みと混乱の基になるものでもある。本当の自分って一体、みたいな。歳を取って行けば自ずと受け入れられるものだろうけど、信乃ちゃんはそれらの乖離がちょっと大き過ぎるから、たぶん本人も戸惑っていることだろう。泣きだしてしまうのは多分その戸惑いの振れ幅が彼女の中でキャパオーバーを起こすからだろうし。これまでは泣けもせず、必死に攻撃的な仮面で取り繕って来たんだろうから、進歩であることは間違いない、と思うけど。
それはそれとして、葵と言うあの女性は一体何者なんだろう。
家を出た時、茶都山家はまだ暗いままだった。まだ誰も家に帰っていないようだ。それはそれで心配なことではある。茶々ちゃんと葵さんにどんな繋がりがあるのかなるべく早く聞いておきたいところだが、小学生の茶々ちゃんがまだ帰っていないというのは心配だ。今朝一緒にいた……瑠璃ちゃんだったか。あの子の家にいるとかならいいんだけど。
しかし改めて思うけど、朝、たぶんオレ、あの子たちに記憶消されそうになってたんじゃないか?
分からないけど、なんかそんな話が聞こえたようなそうでもないような……。
しかも、だ。葵さんや茶々ちゃんたち、あの一瞬で人前から姿を消せるってことは記憶操作の他に、瞬間移動みたいな力も持っているってことじゃないか?
可能性でしかないけど、もしそうなら凄いよなぁ。大学に通うのが凄く楽になる。車、要らないよね。
そういえば、信乃ちゃんはどうやって今まで生活して来たんだろう。実家を追われているにしては身綺麗だったし、この間の怪我も悪化している様子はなかった。血色も良くて、やつれている様子も見られない。お風呂とかには入れていそうだし、御飯にもそれほど困っている様子も無さそうだ。
ふう、と一つため息を吐いた。
雅さんのこともそうだし、世紀末大事故のこともある。本当に、考えることが多すぎて頭が痛い。明日の大学は休もう。単位はまだ大丈夫のはず。後で過去に欠席した講義をチェックして置こう。それと、田辺に欠席の連絡も……。
「……?」
コンビニに向かい、足元を見つつ、考えながら歩いていたとき、何か違和感を感じた。この違和感には覚えがある。
人の気配が無い。静かすぎた。車が走る音も、人の歩く音さえも、何もかもが消えていた。
いやな予感がする。あのときは正直、茶々ちゃんとの出会いの数日後ということもあって期待半分、現実逃避半分と言った具合だったが、今はちょっと勘弁してほしい。本気で。もうオレの頭は限界なんだ。やることも考えることも多いんだ。頼む。
しかしオレの願いは届かなかった。
「お……わ……っと……」
轟音。たたらを踏む。
少し先の道路が突如として爆発した。何かが飛来し、アスファルトに激突したのだ。砕けたアスファルトと共に土煙が舞い上がり、オレは目を閉じて両腕で顔を覆った。
なるほど……。どうやらこれまでオレを放置プレイし、自重によって心を蝕ませて来た運命という奴は、ここに来てアップを始めたらしい。畳み掛けて来るのをやめるつもりはないし、オレを逃がすつもりもない、と。
本当に、何が起きているのやら。だが有難いことに、今のオレは信乃ちゃんのおかげでグレードアップした後だ。
土煙が晴れていく。
オレは近づいた。
アスファルトが吹き飛んだ剥き出しの地面に、人影が倒れている。
女だった。前に会った、あの時の女だろうか?
あまり覚えてないけど、確か変な女と言う印象を持った記憶がある。多分そうだろうと思う。状況があまりに酷似しているし。分かりたくなかったけど、やっぱりあれは夢じゃなかったのかぁ。
女は動かない。心配になって観察する。
黒く長い髪は土埃に塗れぼさぼさだ。着ている服には血が滲んでいるし、至る所ところが破れ、肌が見えている。タイツが破れ片足はむき出しで、スカートは破損し黒い下着が覗いている。片方の肩は完全に丸出しで、鎖骨や肩甲骨まで見えている。上の下着は……真っ赤に染まっているけどサラシだな。妙な成長を感じる。以前と同じような状況だ。いや、片腕片足が惨いことになっている。この間よりも酷い惨状だ。
だが、大きく違うこともある。
女が纏っている服の残骸だ。以前は何色だったかは忘れたが、ワンピースのような衣服だったと思う。だが今、目の前にいる女は……まさかのセーラー服。
「高校生……?」
この辺では見慣れないデザインだけど、アレは多分学生服だ。彼女はその容姿からすると中学生であるとは思えないので、高校生か。
いや、今はそんなことはどうでもいい。普通にヤバイ状況だし、心配だ。生きているんだろうか?
「君、大丈夫?」
反応が無い。
気絶しているのだろうか?
それとももう亡くなっているのだろうか?
「うっ……いったぁ……」
かと思えば、女は小さな呻きを漏らしながらすぐに動き出した。なんとなく思い出して来た。あのときと同じように、やはり割と元気そうな「いったぁ……」である。折れ曲がり中身が見えていたはずの手足が、オレの目の前に瞬く間に修復されていく。無惨になっていた片腕に至っては、なんと繋がった。
女の子は傍に転がっていた刀の柄を握りしめ、一度うつ伏せになると、両肘を支えに体を持ち上げた。そして、土埃に塗れ乱れた黒く長い髪を垂らしながら、忌々し気にこちらを睨んでいる。
「ふぅ……ふぅ……。あなたねぇ、そんなところで遊んでないで……」
なんか聞いたようなセリフだな。
オレはそう思ったのだが、女はオレを見た途端、驚いたように目を丸くした。そして唇を戦慄かせながらこう言った。
「な、あ、あ、あ、あなた……っ!」
突如、轟音。
咄嗟に音の方を向いたオレが見たのは、遠く離れたビルが突如として爆発し、崩れ落ちる瞬間だった。
「ええ……? テロ?」
以前と違い、周りには何もいない。確か前は馬鹿でかい西洋風の黒い竜がいて、暴れ回っていたはずだ。
「……っ! 白夜……っ!」
女が言った。
女の方を見ると、女は倒壊したビルの方を見ている。
オレは女に近づくと傍にしゃがみ込む。
「大丈夫?」
「あなた……」
女が驚いたようにオレを見る。
女は困惑した様子でこう言った。
「なんでまたあなたがここに……。結界は……。いえ、今はそんなことより……」
女は少しふらついたと思えば、すぐにすんなりと立ち上がってしまった。
女に差し出した手が空を彷徨い、オレは静かに手を戻した。
「あなた、逃げなさい。ここはとても危険なの」
少し緊張した様子の女は倒壊したビルの方を見ながら静かに言った。かと思えば、女は弾かれたように上を見る。
オレも彼女に倣い視線を上に向けようとしたが、腹に受けた衝撃でオレの体はくの字に折れ曲がる。
「うおっ」
女にタックルされた。前もこんな感じだった気がするが、オレはそのまま彼女の肩に担がれる形となる。オレは上半身を捩らせて自分の肩越しに彼女の肩を見上げる姿勢となり、言った。
「いきなりなにを……」
「喋らないの!」
浮遊感と、風を感じた。
オレの目の前にあった地面が遠くに離れていく。
女が地面を蹴り上げて跳躍したようだった。
そしてオレ達がさっきまでいた、アスファルトがめくれた地面に、何かが激突した。そしてすぐ、巻き上がった土煙の中から何かが飛び出してきた。
「えぇ……?」
それを見て、オレは思った。
―――馬やんけぇ。
そのシルエットは紛れもなく馬だった。その硬い蹄で地面を抉り飛び上がった馬は、宙で蹄を鳴らし、自在に空を駆けている。
いや、馬か……? 確かに見た目は馬っぽいが、良く視れば角がある。小さな蝙蝠のような羽がたてがみに沿って羽ばたいているし、何より禍々しい鱗に覆われていた。
ユニコーン? ペガサス? なんかキメラみたいだな……。
「前も言ったかもしれないけど、舌を噛みたくないならそのお口、閉じておいた方が良いわよ。それと、目も閉じてなさいな。あまり、アレを直視しない方がいいわよ」
以前も聞いたようなことを言った女だったが、その口調は早く、声にはあまり余裕が無い。少し焦っているように感じる。
小さく舌打ちが聞こえた。僅かな歯ぎしりのような音も。
女からだ。
夜空に光が走り、遅れて轟いた音があった。たまに聞く音。雷鳴だ。そんな悪い天気では無かったはずだが、突然に。
破裂音と共に、視界が一転する。空が急速に遠のいていく。かと思えば、再び地面が目の前に現れた。
女が空中で回転して宙を蹴りつけたのが、破裂音。空が急に遠のいたのは、オレを抱えた女が回転したことでオレの視線が空を向き、そのうえで女が急降下したから。そして最後に再び地面を見ることになったのは、地上目前で再び女が回転したからだ。
地面に降りた女はしゃがみ込む。地面とオレの顔がすれすれに近づく。
「急にごめんなさい。大丈夫だったかしら? 舌は噛んでない?」
「やっぱり君、良い子だね」
「あなたねぇ……っ!」
なんか大変そうな状況でオレを心配してくれた女もとい女の子に本心を伝えたオレだったが、彼女は怒った様子で言う。
だからオレはすぐにこう言った。
「オレはだいじょう―――ぶっ」
言い終わらぬうちに浮遊感がオレを襲う。
女の子が再び地面を蹴って路地へと駆けこんだからだ。
オレは今も地面を見ているが、上空で光が迸っていることが分かった。さらに少し首をもたげると、女の子が走って来た道をなぞる様に、次々に雷鳴が地面を焼き焦がしているのが見えた。
……。
もしかしてこれ、攻撃されてる感じだったりするのかな?
雷を操る馬みたいなUMA。
え?
麒麟、ってこと?
なんかそんなようなことを昔どこかで知った気がする。
そんなことを考えていると、突然女の子が叫んだ。
「白夜!」
何かの名前だろうか。
女の子が叫んだ次の瞬間、人影が上空を通り過ぎる様子が地面越しに見えた。
ふわり、と浮遊感。
女の子が進行方向から真逆に反転し、オレを抱えている方とは逆の手を伸ばしたのが分かった。そして、何故かオレを抱えている女の子の体がぶるりと震えた。
だが、彼女の背中側に頭があるオレには何が起きているのかを見ることは出来ない。
オレは言った。
「たぶん、また助けてくれたんだよね? ありがとう。もしよければ降ろして貰えないかな?」
「あなたねぇ……。……。なんでそんなに呑気でいられるのか分からないけれど、こんな状況なのだし、もう少し緊張感を持った方が良いわよぉ? 肝が据わっていると言うよりも、愚かに見えてしまうもの」
女の子の息は少し荒い。
「そうかな……。ちょっと不愉快だけど。でも、言われてみればそうかもしれない……」
「そうかもしれない、じゃないの。《《そう》》なのよ。あなたねぇ、状況お分かりかしら?」
女の子の息は少し荒いが、口調は落ち着いたものに戻っている。少し妖艶さを感じる、うろ覚えだが以前と同じような雰囲気だ。
オレは言った。
「分からないから聞かせて貰いたいんだ。となると、話をするのにこの格好はちょっと失礼だと思って」
「あのねぇ……。やっぱりあなた変な人ねぇ……。さすがにちょっと引いちゃうわぁ……?」
彼女は呆れた口ぶりで言いながらも、オレを降ろしてくれた。
オレよりも小柄で、破損した服を纏った血塗れの女の子を見る。痛々しいが、あんなに俊敏に動けていたところから、見た目ほどひどい状態ではないのかもしれない。あるいは、見た目ほどひどい状態だったのが、さっき見た様に瞬時に回復してしまったのか。一つ言えるのは、ただの女子高生ではないだろうということだけど。
「ありがとう。オレは東堂雷留って言います。君の名前は?」
「あのねぇ、そんなことはどうでもいいのよ! いえ、どうでも良いわけではないけれど、優先順位は高くないの。黙ってて貰えるかしら」
確かに一理ある。
ここでオレの意思を強行させるのは迷惑だろうし、さすがに違うだろう。オレは少しの哀しみを表情に滲ませながら頷いた。
「……。彩乃よ。実道地彩乃」
「ありがとう彩乃さん。それと、無理強いしたようで申し訳ないです」
女の子改め彩乃さんは大きくため息を吐いたうえでだが、名前を教えてくれた。改めて近くで見た彩乃さんは日本人離れしたスタイルというのか、骨格が日本人ぽくない感じがするものの、名前はバリバリの日本人だった。
「良いわよ……。でもなんでこんな形で……もっと別の……。いえ、良いわ。時間が無いから手短に伝えるけれど、逃げて。遠くに。出来ればあなたが来た方向にずっと。あれは……」
彩乃さんは空を見上げた。
ならってオレも空を見上げれば、遥か上空でさっきの馬のUMAの人影が戦っているようだ。遠めでよく分からないが、成人男性のようだ。
「あの子と一緒に反対側に遠ざけるから、なるべくはやく。お願いね」
以前のような全身で妖艶さを醸し出すような所作は無かったが、彩乃さんは小首を傾げ、上目遣いにオレを見つめた。しかし目に遊びが無い。細めた瞳は妖艶さを感じさせる流し目のようでいて、その実、鋭い。有無を言わさないという凄みのようなものを感じる。
「君は……大丈夫なの?」
オレの問い返しに女は少し驚いたように目を丸くして、すぐに何故か嬉しそうに目を細めた。
「非力な男が余計なお世話。ほら、さっさと行きなさいな。……良い子だから」
小馬鹿にするような言葉だが、なんとなくオレはそこに温もりのような何かを感じた。年下の女の子が年上の男に向けるには少し不思議な、オレが信乃ちゃんに向けているものに似たような、慈しみにも似た温もりを伴うなにかを。
さて、どうするべきか。
彼女はもともと、あの馬のUMAと戦っていたようだった。オレは偶然紛れ込んだ一般人で、当然、あんな化け物と戦うような力はない。主人公のような力もないし、肉体的にも精神的にも、何かが覚醒するような予兆もない。
非常に心苦しいが、彼女の言葉に従うことが最善だと思った。ここでごねるのはただのエゴだろう。それも、人に迷惑を掛けまくった上に被害を拡大させる最悪のタイプの。
オレはすぐに頷いて、彩乃さんへ言った。
「ありがとう。君もどうか無事で」
「……変な人ねぇ」
そう告げて、オレは駆け出した。背中から彩乃さんの呆れたような、しかしどこか嬉し気な声が聞こえてきた。
走る。走る。だがそう距離を進まぬうちに、息が上がって来た。葵さんを見つけて走り出した信乃ちゃんのあとを追い掛けたときにも思い、でも直視しなかった現実がここで襲い掛かる。
すなわち、運動不足。
ペースが落ちるが、しかしちゃんと走る。
轟音が聞こえた。さっき、ビルが倒壊したときのような音。
思わず振り返る。倒壊するビルが見えた。遠くだ。それ自体に危険はない。
次の瞬間には、また新たな轟音が鳴り響く。
目の前の道路のアスファルトに彩乃さんが叩きつけられて、アスファルトがひび割れた。
「ぐ、が……っ!」
痛みに悶える彩乃さんの苦悶の声が痛ましい。
「げ、なさ……!!」
足を止めていたオレに、絞り出すような声が届く。
ごぽり、と溺れるような音がした。彩乃さんの喉に血液が溢れているのだろうか。
「逃げなさい!! はやく!!」
しかし次に発された彩乃さんの言葉は、絹を裂くような悲痛な叫び声ではあるものの、しっかりと発音されていた。超再生能力、ということだろうか。アスファルトに叩きつけられて見るも無残な肉塊寸前だった彩乃さんの体はすでに元の姿を取り戻し始めている。
そんな彩乃さんの向こう側に、視えた。
UMAだ。上空から彩乃さん目掛けて駆け下りて来ている。その鋭い一角に雷を纏わせて。
思わず駆け出していた。咄嗟だった。言い訳はしない。本当に、考える前に体が動いてしまっていた。
オレはUMAよりも一瞬早く彩乃さんのもとに辿り着いた。
彩乃さんが驚いたように目を大きく開いたのが見える。
オレは彩乃さんの体を覆うように抱きしめ、胸の中に隠した。
「バ……ッ!? 逃げなさい!!」
彩乃さんの体を内側に隠したまま、オレは馬のUMAに背を向けた。
咄嗟だった。何故そうしたのかは分からない。ただ、思わず体が動いた。多分、彩乃さんを守りたかったんだと思う。こんな状況でも他者を思いやれるような、優しい人だから。これで嫌な奴なら放って逃げるところだが、オレの心が自分の命よりも目の前の優しい子を選んでしまったんだから仕方ない。
本当に、申し訳ないと思う。
信乃ちゃん。
帰ってこないオレを、信乃ちゃんはどう思うだろう。本当に申し訳ないと思う。
願わくば、約束の時間になっても現れず、連絡も寄越さないオレを案じた先生がオレの家を尋ね、オレの帰りを待っているだろう信乃ちゃんとの縁を結び、あの子を助け出してくれることを……祈る。
そして。
オレと彩乃さんの少し手前、まるで磁石で反発するように軌道を変えたUMAは単独で地面に激突した。
「……」
ぱらぱらと、舞い上がった土埃と小石が落ちる音がする。UMAは動かない。
彩乃さんは無言だった。状況を理解できていないようだ。硬直している。
オレも無言だった。だが、彩乃さんとは少し違う。
オレは昼に見たトラックやらのことを思い出していたからだ。
オレは思った。
―――お前あれと同類かよ……。




