06 本物を持ってくるというのは
エイルはリック導師を尊敬している。
自分の名前も読めなかった彼を懇切丁寧に指導してくれた初老の魔術師。恩人と言える人物だ。
もちろん「導師」という位にある人々は、たまたま魔力を持っただけの無知な子供を教育することには慣れていただろう。だがエイルにはそれ以外にも「ちょっとした事情」があった。
リックは面倒に思ってエイルを見放すこともできれば、エイルが何も知らぬのをいいことに利用することだってできた。しかし導師は決してそんな真似をせず、おそらくは心に思うこともなく、生意気なだけの少年に親切だった。
魔術師協会長の座についてもおかしくないだけの能力と人望を持っており、かと言ってダウのように真面目一辺倒でもなく、協会に閉じこめられたエイルの精神的苦痛を和らげる娯楽もいくつか提供してくれた。それは街の噂話であったり、最新の投げ売りであったり、シュアラ王女の絵姿などということもあった。
エイルは、そうしなければならなかったからひとりで大いに頑張ったが、もともと友人たちの間で、城に上がってからも料理人たちの間で賑やかに暮らしてきた少年であるから、人恋しくなることも多かった。リックは忙しかったろうに、そんな彼の気持ちを汲んで夜話にもつき合ってくれたこともあるし、一緒に酒を飲んだこともあった。
もし父が生きていたらこんな感じだろうか、と思ったこともある。頑張っているときにはただ見守ってくれて、ふと折れそうになったときに声をかけてくれるような。
そんなリックが病で逝ったと聞いたときは、とても衝撃を受けた。
彼がアーレイドを離れている間もアーレイドに変化はないと、そんなふうに信じていた。だがそれは夢想だった。彼の恩師は、彼の成長を見ることなく、逝った。
思い返せば、いまでも悲しい気持ちが湧き上がる。もっと話をすればよかった。もっと礼を言っておけばよかった。
そう、エイルはとてもリック師を尊敬し、感謝をしている。
だが、リックが遺したこの赤い石の首飾りについては、どうだろう。
オルエンはそれをしてエイルのためのものだと言い、エイルが持っていることで力が引き出されると言った。スライもまた彼のものだと言い、エイルはその言葉に不思議な同感を覚えたものだ。
だと言うのに、この石が手元に返ってきた途端、これである。
(リック師)
(本当に、魔除けなんでしょうね!?)
逆呪いでもかかっているのではないか──。エイルはつい、そんなことを思ってしまった。
もちろん、本気で考えたのではない。魔術師の端くれとして、「避けられた災いは判らない」という基本くらいは理解している。魔除けが効いているからこそこれだけで済んでいるのかもしれぬ、ということだ。
しかしそれはまるで言葉遊びか言い訳のようだ。魔術師としての知識がそう教えても、感性の方はあまり納得いっていなかった。オルエンが聞けば、「即座に刺されなかっただけでも大した厄除けになっているではないか」などと言うかもしれないが。
「ずいぶん待たせるな」
シーヴが呟くように言った。
〈紫檀〉の隠れ家のひとつ、だろうか。教会の体裁をしたその建物は、エイルの知るどんな神の印章とも違うしるしを飾っていた。
ふたりはその「聖なる」一室にご案内を受けた。もし自由を奪われるようなことになればシーヴがとめても杖を振るうつもりでいたエイルだが、幸か不幸か戸に鍵がかけられた程度である。
「ご招待したんなら宴会の支度くらい済ませておくのが礼儀ってもんだろうに」
「呑気だな」
「すぐさま殺そうという様子じゃないし、武器すら取り上げられない。お前もいるし、心配はあまり必要なさそうだ」
「あまり、ね」
エイルは繰り返して幸を呼ぶ呪いをする。
「でもこれはどういうことなんだ? てっきりハレサが巧いことやって、奴らは壊滅的な打撃を受けてるかと思ったのに」
王子殿下は不満そうに言った。
「さあなあ。何にしたって、損害はあったんだろうよ。それでお前に恨みを持ってるって訳だ」
そうでなければ、昨夜の「リャカラーダ王子」を手荒なやり方で「ご招待」するはずもない。
「ここは逃れおおせたってことかな。ハレサの奴、大口叩いた割に詰めが甘い」
「そうだ」
エイルはぱんと膝を打った。
「宿の前にはハレサの手のもんがいたんだよな。ジェレンにご報告がいってるかもしれない」
「どうかな」
シーヴは疑わしいと言うように首を振る。
「何だよ。そう思わない理由は」
「ひとつには、あの人種がそこまでご丁寧かという疑惑。与えられた役割は『ティルドを見張る』だろ。俺の顔を知っていたり、〈紫檀〉のことを知っていたとしても、忠義心なんかから報告に上がるとは思えない。それにもうひとつ。そいつもまとめてしっかり〈紫檀〉に見つかった可能性だってある。いやそもそも報告が行ったところで、ジェレン殿が俺たちを助ける動機もないだろう」
「ハレサの助力は期待できないと?」
「別に縛りつけられてる訳じゃない。どうとでも逃れようはあるさ」
「『縛りつけられてる訳じゃない』状態が続けばな」
「悲観的だ」
「お前が楽観的なんだよ」
青年魔術師は嘆息した。
「さて」
シーヴは伸びなどしながら言った。
「『シーヴ』か『リャカラーダ』。どっちが得策かね」
「王子殿下を通せ。いくら闇組織で東から遠くたって、さすがに王子様を切り刻んで海に投げ捨てられやしないだろう」
エイルが言うとシーヴは肩をすくめる。
「そりゃここは内陸もいいとこだぜ、海なんか、ない」
「もののたとえだ、混ぜっ返すな」
エイルは顔をしかめた。
「それにしても、何でわざわざその名を使った? 偽名にしときゃいいのに」
「連中の規模が判らなかったからな。もし即座に調べることができるような魔術師でもいたら、それこそ何をされてたか判らん」
だが、とシーヴは考えるようにした。
「本物と知れるのも……どんなもんか。こいつらがどこまで大胆か知らないが、本物だからって殺害を躊躇うほど良識があるかね」
「殺害」
エイルは天を仰いだ。
「他人事のように言うな!」
「お前がついてるじゃないか」
シーヴは杖を振る仕草をした。
「信頼してるぞ、我が友」
「都合のいいときだけそんな言い方しやがって」
「何をひがんでるんだ」
可笑しそうにシーヴは笑う。
「友人扱いが嫌なら、こう言うか。我が翡翠の」
「やめろ」
エイルは、シーヴが翡翠の最初の音節を言った瞬間にかぶせて制止した。何度も何度も、しつこい。
「〈紫檀〉はお前が小芝居かましたことにお怒りだぜ。たとえリャカラーダ王子が本物でも買ったはずの首飾りが手元にないんじゃ、機嫌を損ねるだけなんじゃないか」
「それじゃ」
シーヴはにやりとした。
「お前が本物を持ってくるというのはどうかな?」
「『どうかな』じゃない。あれは塔から出せないって言ってんだろうが」
「呪いのため、だったな」
「そうさ」
判っているなら言うな、とばかりにエイルは睨みつけるが、シーヴは平然としたものだ。
「いい手だと思うが」
「何が」
「奴らの間で呪いを発動させて、相争ってくれれば全滅、と」
「お前なあ」
エイルは呆れたような声を出した。
「よくまあ、そんな小ずるい、かつ非道な方法を考えつくもんだな」
「いかんか?」
「当たり前だ」
エイルは鼻を鳴らした。だいたい、そんなふうに都合よくいくはずがない。「悲観的」と言われるかもしれないが、エイルとしては「現実的」のつもりだ。
「『悪い奴』にばかり呪いが効く訳じゃないんだ。老若男女おかまいなしなんだぞ? 普段なら人のものを欲しがるようなことは絶対にしない、そうだな、高潔な神官様だとしたって、あの呪いは毒牙にかける」
本当に「高潔」ならば抗う、少なくとも抗おうとするだろうが、どこまで効果があるか試してみる訳にもいかない。
「だがお前は逆らったろ」
「そいつあ、ちょっとばかりの魔術を使えるのと、呪いの存在に気づいたから。あとは、抗いきれなくなるまえに鳴らしていた魔物が死んだからだ」
青年魔術師は肩をすくめる。
「そんな思いつきで何の関係もない通りすがりの人間でも巻き込まれてみろ。寝覚め悪いぞ。絶対」
「うむ、まあ、そうだな」
シーヴは腕を組んだ。
「単なる思いつきだ。忘れてくれ」
「考えが足りなかった」などという謝罪はない。エイルは息を吐いた。




