03 とんでもない一日
街灯のある道から何も灯りのない室内の暗さに慣れるのに、ほんの少し時間がかかる。
「お帰り」
その声に苦笑した。当然、宿の主人を叩き起こして入り口を開けさせたのはシーヴだ。
「まずは部屋へ戻るか。聞きたいことは山のようだが」
「全部に答えられるとは思わないでくれよ」
協会での成果よりもサラニタについて問い詰められることは歴然としていて、エイルは曖昧な笑みを浮かべた。
「――エイル!」
しかし驚愕させられたのはこちらである。
「なっ」
シーヴの取った部屋に上がれば、そこにいた小さな女の子が、満面の笑みで彼の名を呼び、彼に抱きついてきたのだ。
「ごめんね、ちゃんと窓、つつけなかった。でもシーヴに報せて、ここに入れればそれでいいのよね?」
「サっ」
「ん?」
「サラニタ、おまっ……喋れるように、なったのかっ」
「それを習いなさいってアニーナのところにやったんでしょ? そしたらちゃんと覚えるに決まってるじゃない。アニーナ母さん、エイルのことが大好きよ。だからあたし、ちゃんと覚えられた」
にこっと笑うサラニタは、怖ろしいことにまた成長して見えた。どうやら四つくらいだろうか? エイルの与えた服はかろうじてまだ着れているが、だいぶ窮屈そうだ。また新しい服を買ってやらなければならない、などと思うと同時に――これはもうアニーナのところには戻せない、と思った。
「驚いたぞ」
シーヴは言った。
「そうだろうな」
エイルは曖昧に言ったが、シーヴはにやりとする。
「お前に、隠し子がいたとはな」
「阿呆っ」
「冗談だ」
エイルの怒声に砂漠の王子は肩などすくめた。
冗談にしても性質が悪い。鳥から人間に変わる我が子などは困りものだ。だいたい四年も前ならばエイルは食うや食わずの生活である。たまに仲のよい給仕娘と遊ぶことはあっても、父親になるなど洒落にもならないぎりぎりの暮らしをしていた。
いや、そう言う問題でもない。シーヴはサラニタの「変身」を見ているのだ。
つまりいまのシーヴの台詞は、〈塔〉が、赤子が鳥になることを知らない状態で、一、二歳のサラニタをエイルの隠し子か、などと言ったのよりも明らかに性質の悪すぎる冗談である。
「それで、この娘は何なんだ? 子供に化けられたときは……というよりも鳥に化けていたというのかもしれないが」
「俺もよく判らない」
「両方よ。あたしは、どっちでもあるの」
エイルにくっついたままでサラニタは言う。
「だそうだ」
「そうか」
エイルは投げやりに、シーヴは真面目に応じた。
「それを見たときはさすがに心臓がとまるかと思ったがな、エイルが下で待ってるから入れてあげて、ときたもんだ。それでようやく、お前が話していた『鳥になって飛んでった』子供のことを思い出した」
シーヴは首を振った。
「はいはい、お嬢様、ではここでお待ちください、とご命令に従った訳だが、どうしてこの鳥……この娘が戻ってきたことを言わないんだ。それとも嘘をついたのか」
「嘘なんかつかないよ。実際、飛んでった。戻ってきたのは、カーディルで。そのあとは特にサラニタの話題にならなかっただろ」
隠してたつもりもない、とエイル。
「〈魔精霊もどき〉ねえ」
シーヴは顎に手を当てた。
「あんまり、いい名前じゃないんじゃないのか」
「話したろ。それは違う魔物の呼び名だったんだよ。それに、こいつにそう名付けようと思った訳じゃ」
「いいの。エイルがくれた名前だもん」
サラニタはまたもひしっとエイルに抱きついた。と言っても、足にしがみついたという感じになる。
「……惚れられてるな」
「やめてくれ」
エイルはうなった。ゼレットや〈塔〉に加えてシーヴにまで言われるとは。
「でもまあ、言われてみりゃそうかもな。あんまよくないかもしれない。〈砂の魔精霊〉から取った名前なんて」
人間を惑わす魔性の生き物。「これ」がどういう性質を持つ魔物なのかはまだ判らないが、〈名は運命を作る〉などという言葉もある。
名付けというのは本来、祝福だ。それが魔物の名前と同一だというのは、祝福どころかまるで呪いである。
よろしくない。かもしれない。と今更ながらに彼は考えたのだった。
「それじゃ何かいい名前、ないか」
エイルが言うとシーヴは片眉を上げた。
「俺に訊いてるのか?」
「お前、そう言うのは得意だろう」
「ええー。エイルがくれた名前がいいー」
「だ、そうだが」
「いや、でも、やっぱ、よくないだろ」
エイルが言うとサラニタはふくれたが、仕方なさそうに黙った。
「サラニタ……サラ……うーん、そうだな」
シーヴは口のなかでぶつぶつと呟きながらしばらく考えるようにした。
「ラニタリス、なんてのはどうだ」
「何だ、それ」
「蒲公英だよ、愛称はラニでもラニタでも」
「また花か。好きだな、お前」
「そうか? そうだったな。――リティアエラ」
「やめろっ」
それは大輪の薔薇の名前で、かつてシーヴ青年はとある女性にそう名付けたことがあった。思い出したくない思い出である。
「言い出したのはそっちだろうが」
平然と言われては返す言葉がない。全く、〈蜂の巣の下で踊る〉真似であった。
「ラニタリス。なかなか可愛いんじゃないか?」
同意を求めるように子供を見る。子供は少し眉をひそめて、エイルとシーヴを見比べた。
「可愛い? そう思う?」
「俺の名付けじゃ不満か?」
シーヴが面白そうに言ったが、子供は無視してエイルの返答を待つ。
「いいんじゃないか。ラニ。サラニタより、呼びやすい」
「呼びやすい?」
子供――ラニタリスはぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、それ! ラニ! エイルにいっぱい、呼んでもらう!」
「……惚れられてるな」
「やめてくれってば」
「じゃあ話を変えよう。ハレサから連絡があったぞ」
「何だって?」
「ティルドの取った宿が判った。今日は休んで、朝いちばんで行くとしよう」
「夜明けに、発っちまうかもしれないぜ」
兄ユファスの身が危ういと言うのだ。いてもたってもいられないだろう。
「いまから押しかけて、また痛い視線を食らいたいか? 安心しろ、ハレサの手下が見張ってる。出かけるようならとめて、俺たちの話を聞くように言ってくれるよ」
「素直にとめられるかな。あの直情少年が」
「とまらなきゃ、追いかければいい。まずは休めよ。〈移動〉ばっかで疲れてんだろ」
「ああ、まあ、そうだな」
エイルは曖昧に言った。
全くとんでもない一日であった。オルエンに騙されて砂漠にエディスンの王子殿下を救いに行ったのは――時刻の上では日が変わっているとは言え――今日のことなのだ!
あれからウェンズ術師に連絡を取り、エディスン王子の無事を確約してもらって、〈塔〉へ戻ったらレギス行。黒鳩に盗賊、シーヴとの再会、偽物屋の話、ムール兄弟への危惧、スライ師への報告、最後を締めくくったのがサラニタ――いや、ラニタリスの新たなる命名ときた。あまりにも濃すぎる一日である。
何だか、自分が何をやっているのか――いったい何に関わっているのか、エイルはさっぱり判らなくなってきた。
「どうした、複雑な顔をして」
「いや」
青年は嘆息した。
「こんなときは、寝るに限る」
そう言うとエイルはばさばさと外衣を脱ぎ捨て、それ以上何も言わずに寝台に潜り込んだ。シーヴが面白そうな顔をしてそれを眺め、自分も倣おうと服を脱ぎはじめたときにはもう、エイルはすっかり寝入ってしまっていた。




