09 それをお前のものにせよ
とは言ったものの、実際のところ、エイルがひとりで砂地を行くのは大仕事である。
彼はオルエンに呪いの言葉を吐きながら――長に対しては、文句ひとつ出ない。人徳である――ラスルが提供してくれた砂漠馬を北に進めた。
真昼間よりはましだが、夜は夜できつい。
砂漠には夏も冬もないが、昼と夜とで違う顔を見せる。日が落ちてからはぐっと気温が落ちるのだ。エイルは、砂漠の気候に適するとされる、ひきずるような長い衣の前をきゅっと合わせた。
今宵、月の女神は姿を見せていない。
頭上では星々が美しく瞬き、星座の物語を描いていた。
砂漠でこの辺りまで北上したことはなく、エイルは興味深く地平線上の星に目をやった。〈塔〉やアーレイドからは見ることのできない青白い星がごく低い位置に光っていた。
その星にまつわる伝説は知らない。だがきっと、何かあるのだろう。
場所によっては、天候次第で見えたり見えなかったりする、不思議な星。それにはどんな物語が似合うだろうか。
あいつならば何かでっち上げそうだな、とエイルは友人を思い出した。
〈砂漠の子〉と呼ばれる友がいれば、この旅はずいぶんと楽になりそうだったが、やはり彼を呼び出すことはできない。たまに訪れて雑談を交わす以上のつき合いに彼を引っ張り込むことはするまいと思っていた。
ラスルの集落を出て、しばらく経つ。
時刻は夜半に近くなっていた。
〈守りの長〉に教わった通りに砂漠を進んでいた青年は、もし迷っていなければそろそろ歌が聞こえそうな付近に差しかかった。
エイルはつい、魔除けをしまいこんだ小袋に手を伸ばし、いや、効きすぎてサラニタが姿を見せないというのも本末転倒だよな、と考え直した。
耳を澄まして辺りを見回す。
あるのは、砂ばかり。そして、風の音。
はっとエイルは顔を上げた。
(何か、聞こえた)
しゃらん――と聞こえたそれは鈴のようなものが鳴る音に似ていた。
だがそれは非常に繊細な音色で、無骨な鈴よりも薄い紅貝の貝殻で作られた上等の風鈴を思わせた。
しゃらん、しゃらん。
風が吹く。
まるで歌のように、それに合わせて風鈴が鳴った。
ラスルは、それがどこか邪だと言ったか。
青年はすっと息を吸い込むと目を閉じてそれに耳を傾けた。
(魔術じゃない。少なくとも、人間が操るもんとは、違う)
仮にも魔術師の端くれとして、魔力の気配はあれば判る。これは、エイルのような駆け出しでも確信が持てることだ。
魔術師には魔術師が判ると言う。彼らは、互いにその魔力を隠すことはできない。まして、魔術を行使しながら魔力を隠すことなどできるはずがない。
従って、この美しい音色――「魔物の歌」はどこかの魔術師が何かを企んでいるのではなく、オルエンが言ったようにサラニタが「魔力に近い力」を持つのでもなく、何かほかの要素が絡んでいる。
風の強い日に聞こえる歌。
(まさか風鈴が落ちてました、なんて言うんじゃないだろうな)
(まあ、それならそれで話が楽だけど)
細かいことを言えば「落ちて」いれば風鈴は鳴らないものだが、エイルはそれを承知でそんなことを考えた。「考えてみた」というところだろうか。魔物と遭遇するよりは落とし物を拾い上げる方がどれだけましか知れぬと思ったのだ。たとえ、オルエンに情けないと言われようと。
しゃらん、しゃらん。
音が鳴る。
邪悪だとは、思わない。
ただ、魔精霊ではないかとラスルが疑うだけあって、どことなく誘いかけるような響きがあった。
異なるのは、サラニーや女夢魔のように、〈愛欲の星神〉ロウィルの雰囲気が漂っていないことだ。
だがそれでも、誘っている。呼んでいる。
ここへきて、と。
私を――手に入れて、と。
エイルは魔除けを袋の上から握り締めた。
(これはこれで、厄介だな)
気温は低いというのに、汗がにじみ出る気がした。
(ロウィルじゃなくたって、誘惑はある)
その歌は、男の性欲こそ刺激しなかったが、人間の所有欲を刺激していた。
それを手に入れたい、という気持ちが彼の内に湧く。
(くそっ)
エイルは左手で翡翠の円盤を握ったまま、右手でありとあらゆる魔除けの印を切った。
ラスルがこれに抗えたのは、彼らに所有欲というものが薄いからだろう。砂漠に暮らす彼らには個人的財産がほとんどなく、あるのは部族全体の共有財産だ。
エイルもあまり物品には執着しない方だったが――師の形見も、それが向こうに必要だと思えば友人に渡したくらいの――それでも失いたくないと思うものはあり、何かを手に入れたいと思うことも、また。
音が鳴る。
声がする。
欲しいなら、それをお前のものにせよ。
「――くそっ」
エイルは続けざまに罵りの言葉を吐くと、声の方向に砂漠馬を走らせた。