01 それはお前のものなんだ
夜の街というのは、昼とまた異なる賑わいを見せる。
昼の店々が人々の「生活」に役立つものとするなら、夜はやはり「娯楽」へのとば口だ。
必ずしもいかがわしい香りがするものばかりではないが、なければないで生きていけるもの、だが全くなければ寂しいもの――ちょっとしたお楽しみ、という類のために人々は街路をうろつく。
そんな享楽的な雰囲気のなか、やわらかそうな茶色の髪をした青年は真剣な顔つきで街路を駆けていった。すれ違い、ぶつかった街びとに呪いの言葉を吐かれても、彼からは詫びの言葉も呪い返しの仕草も出なかった。そんな暇はない、という様子だ。かろうじて片手を上げでもするか、或いはろくに気づきもせぬままでその脇を抜け、ひたすら教わった道を進んでいく。
ハレサの説明は判りやすかった。
エイルはそれから五分かそこらのうちに、少しも迷うことなくレギスの魔術師協会へとたどり着くことができたのである。
夜半になれば協会も入り口を閉めるが、時刻はまだ十刻ばかりだった。それに、ここは魔術師のための組織である。門を閉めても夜直のような対応役は存在し、緊急だと言えば入り口を開けてくれる。実際にエイルがやったことがある訳ではなかったから、それは「そうらしい」という程度のことであったが。
「アーレイドに、連絡を、取りたい」
そうして開けてもらって入り込み、魔術師同士の挨拶の仕草をしながら息を弾ませて言えば、受付の術師は見知らぬ魔術師が慌てているのをどう思ったとしても、判りましたと手はずを整えた。
この辺りは話が早くていい。協会というものにはいろいろ複雑な感情や気に入らない点もあるが、こちらの目的さえ明確かつ不穏なところがなければ、余計な詮索はせず、動きは迅速。そこは褒められるとエイルは思っていた。
レギスからアーレイドへ、地上の距離が何ゴウズあるものやら青年は具体的な数字を知らなかったが、どれだけ離れていようとそれをすっ飛ばせるのが魔術だ。
便利である。だが、気に入らない。但し、いまはそんなことを言っている場合ではない。
エイルはこの際、自分の趣味はさておくことにして、用意された小部屋に行くとアーレイドのスライ導師に急いで言葉を投げた。
「――と、言う訳なんだけど」
魔術師協会同士は、強い繋がりを持つ。
それは、連絡を密にするとか、いざというときに連携を持つとか、そう言ったこともあったがそれだけではない。
現実に、魔力の繋がりがある。
エイルには、アーレイドのような遠方に向けて魔力の声を送るだけの能力はない。やろうとすれば準備に一刻、半日の頭痛のおまけつきで、失敗の可能性も高い。
だが協会内に限っては、そのような問題はなくなる。協会のなかでは、彼のような駆け出しでもいっぱしの魔術師のような術が使えるのである。
ことほどさように、魔術師協会というのは魔術師に都合がよく作られているのだ。
「ふむ」
よって、協会内の小さな部屋でエイルが術を行使すれば、あたかもスライが隣にいるように話ができる。実際に声を出さなくてもよい。出している訳でもない。だが、それでも現実に話をするのと同じ感覚だった。正直なところ、楽で、便利だと確かに思う。
だがこれを「楽で便利だ」と受け入れてしまうのは何と言うか、悔しい気がする。まるで「自分は魔術師である」と受け入れる第一歩である。
いや、否定しようとどうしようとエイルは魔術師だし、受け入れている。ただ、どうにも認めたくない一線があり、協会に関する感情は非常に微妙なところだ。
「準備は進んでいる。もう、あと一日か二日という段階だな」
エイルが友人兄弟の状況を説明し、急いでくれと言うとスライはそう答えた。
「一日にしてくれ」
エイルが言うとスライは苦笑した。
「努力はするが」
「できるんなら俺が乗り込みたいくらいだ。だけど俺みたいのが行ったところで役には立たない」
この台詞は何も、自らの能力を卑下したものではなかった。実際、エイルの魔力は導師と呼ばれる人々に比べたらささやかすぎる。「魔術師」としてやっていける最低限と言うところだ。
しかし彼がそう言ったのは、魔力云々だけではない。
たとえ〈心の声〉で連絡を取り合える魔術師たちであっても、集団で動くというのは簡単な話ではなかった。
軍隊のような訓練とまでは言わないが、計画の把握とちょっとした練習、最低でも顔合わせ──実際に顔を見るのではなく、魔術的にお互いを知り合う、魔力を知り合うこと──が必要だ。
それをしていないエイルが乱入すれば、役に立たないどころか足手まとい、邪魔を通り越して大失敗の原因にだってなりかねない。エイルはそれを理解していた。
「でもティルドとユファスは助けたいんだ。奴らの目的のものを手にしたからって奴らが彼らを素直に解放するはずなんかないし、俺はユファスに、またアーレイドの厨房に戻ってほしい」
友人の旅立ちに際し、エイルは「自分は戻ってきたのだからお前もそうしろ」と言った。あのときの言葉に込めた願いはいまも変わらない。
「お前の気持ちは判ってる、エイル」
スライがまるでエイルの肩に手を置いたように思った。
「この件は任せろ。お前の友人兄弟を死なせはしない」
ほうっとエイルは安堵の息を吐いた。気休めで口にするのではない、魔術を介して発せられたスライのその言葉は誓い同然であった。
「ところで、エイル。ちょうどよかった。訊きたいことがあったんだ」
「何だよ」
エイルは驚いて聞き返した。スライが彼に訊きたいことなど想像がつかない。
「お前、金はあるか」
「……はい?」
シーヴに突然そう訊かれたときより、スライに訊かれる方がきょとんとなった。一瞬は聞き違ったのかと思うものの、魔術を通したやりとりで「聞き間違う」など有り得ない。
「何なんだよ、唐突に」
「ダウ導師に確認をした。彼はそれを近衛隊長に渡したという話だったが、そこからはお前に渡ってたらしいな。何でまたピラータの協会なんぞに落ちてたのかは知らんが、お前に返すのがいいだろう。手を出せ」
どうしてここでダウやらファドックやらの話が出てくるのかなどはさっぱり掴めないままで、エイルはスライの言葉に従う。と──思いもかけないものが目の前に現れた。彼は慌てて遠くアーレイドから送られたそれを受け取る。
「これ」
エイルは目をしばたたいた。
「リック導師の形見だそうじゃないか。それが判ったからアーレイドの協会で買い受けた。ただで返してやりたいが、協会もそうそう金持ちじゃない。だが、業火の件を知らせた報酬代わりに格安にしておいてやる」
「……そりゃどうも」
長四角形をした赤い石の首飾りをその手に、エイルは曖昧な礼を言った。リックの形見だと思えば大事にしたいが、赤かろうが白かろうが相性がよかろうが、翡翠というものにはどうにも抵抗がある。
「俺……これ、ユファスに渡したんだけどなあ」
魔術師を追うことになった兄弟たちの助けになればと、エイルはそれを――オルエンに言わせれば、気前よく――ユファスに贈っていた。友人がそれを捨てたとは思わないし、何か事情があって手放したのだろうから「人がやったものを粗末にしやがって」などとは思わないが、何だか奇妙な感じがした。
「成程」
スライは言った。
「ユファス青年に訪れた危難は、魔除けを手放したせいかな」
エイルとしては翡翠に力があるなどと認めたくなかったが、それは彼が認めたくないだけである。しかもリックの遺作ともなれば石の持つ魔除けの力だけでは済まない、強い守りの力があることもよく知っている。反射的な抗議は、出なかった。
「持っていろ」
「でも」
エイルは少し迷った。それは何も金の心配をした訳ではなく、覚えた奇妙な感覚のため。
(何でだ?)
脳裏に浮かんだ疑問は、曖昧だった。何に対して「何故」と思ったのかよく判らないままで、エイルは「何故だろう」と考えた。
「それは、お前のものだ」
スライの声がして、エイルは赤い石に落としていた視線をあげた。
「俺の」
すとん、と何かが腑に落ちる気がした。
「そう。それはお前のものなんだ。だから、ちゃんとお前のところに帰っていく」
普段ならば、そのようなことを言われれば笑うか、顔をしかめる。伝書鳩でもあるまいし、と。殊、翡翠にまるで意志があるような表現は気に入らない、というのもある。
(リック師)
だが、彼は「翡翠」よりもひとりの魔術師のことを思い出していた。青年――当時は何も知らぬ少年だった彼を指導してくれた初老の導師。その穏やかな顔が思い出される。
「持っていろ」
スライはまた言った。エイルは少しの間のあとで、ゆっくりとうなずいた。




