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風謡いの首飾り  作者: 一枝 唯
第2話 王子殿下の一計 第4章

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06 いい滞在を

 一千ラルくらいの蓄えなら、やろうと思えばいまのエイル青年には不可能ではない。給金がよくて、質素な暮らしを続けていれば、金は貯まる一方だからである。

 ただし、生憎と言うのか、ちょっとした魔術の品が必要になったりすればそんな蓄えは羽根を生やして飛んでいくものだ。

 それに――彼には、借金もある。

 と言っても金に困って性悪の高利貸しから借りたのではなく、誰かの肩代わりをしたのでもない。そこまでお人好しでもない。

 魔術の品というのは、高い。

 魔術をかけやすくする杖というのも、かなり高い。

 ただの木杖でも照準を合わせる役には立つのだが、それは彼の師匠の美学に反したらしい。

 エイルの――気に入らない――魔杖は特注品である。つまり、ものすごく高い。

 値段を知ったときは、冗談ではない、そんなものが買えるかとオルエンに唾を飛ばして拒否しようとしたが、師匠は平然と、自分が立て替えておいてやる、毎月の給金から一定金額を自分に支払え、と命じたのだった。

 要するに、何とも気に入らないことに、自ら望んだ訳でもない忌々しい杖のために、エイルはオルエンに借金がある。

 オルエンは金に関しては鷹揚で、この件を使ってエイルを苛めた(・・・)ことはないが、それはおそらく、青年が忘れずに支払いを続けているためだ。一度でもうっかり怠れば、何を言われるか判ったものではない。

 早い話が、いまのエイルには一千ラルの蓄えなどはない。

 〈落陽〉なる名前の、看板などない高級料亭だか会員制の酒場だかの場所だけは情報屋から聞き出したものの、屈強な戦士(キエス)が入り口を守る扉に突進などできず、ちょっと探ってみれば魔術の防護もあるその店の近くで、エイルはどうしたものかとうろつく羽目となった。

 待っていても天から金が降ってくるはずもない。ひとしきりうろついたあと、エイルは嘆息して、情報屋に会う前に考えていたことを思い出した。

 即ち、宿を取って風呂へ行く。これである。

 黒鳩になど出会わなければ、いまごろはのんびり湯船に浸かって、久しぶりの風呂を満喫していただろう。運がよければ、情報屋に金を支払ったのと同じような話だって聞けたかもしれない。

 だが起きたことは起きたことで、起きなかったことは起きなかったことだ。エイルは情報屋に金を取られ、その代わりに情報を得て、そして風呂へ行くタイミングが遅れた。

 だがたまには「運命」が彼に味方し、その時間の差が幸いすることもある。

「〈落陽〉だって?」

 浴場で隣り合った見知らぬ男に何気なく店の名前を口にすると、意外にも反応があった。

「何でまたそんな物騒なところに行きたいんだ?」

「物騒?」

 エイルは眉をひそめて聞き返す。

「高級なとこだって聞いたけど」

「裏を返せば後ろ暗いってことさ」

 男は肩をすくめた。

「金持ちが大枚はたくのが、お喋り鳥(キャルー)みたいに意味のない噂や世間話を繰り広げるためだと思うか? その手の店の会員だってのは社会的地位を示すかもしれんが、表にはできない話をするためだと思う方が、納得がいくね」

「成程」

 エイルはうなずいた。裏ごとにはあまり詳しくないが、無知でもない。アーレイドにはそういった場所は――少なくとも彼の知る限りでは――ないが、秘密の話は秘密の場所でやるものだ。よく使う小路の入り口を胡散臭い男がうろうろしていたら、遠回りでも違う道を探す。単純に、因縁でもつけられてはたまらないということもあるが、何かを見たり聞いたりしてしまっては面倒なことになる。下町育ちの青年はそれくらいのことはよく判っていた。内緒話というものは、聞かれない場所を作ってやるものなのだ。

「詳しそうだね、この街の人かい?」

もちろん(アレイス)。あんたは旅人か」

「まあね。ちょっと小耳に挟んだもんで、どんなとこなのかなあと」

「勧めないぜ。万一あんたがあの場所に行けるほど金持ちでもな」

 そう言うと男は立ち上がった。ざっと湯が流れてあらわになる裸身に、エイルは少し驚いた。と言うのも、その身体は歴戦の戦士もかくやという傷跡だらけだったからだ。

「そんじゃ、ごゆっくり。いい滞在を」

「どうも」

 背を向けた男にエイルは挨拶し、案の定と言うところか、その後ろ姿にも様々な傷があるのが見て取れた。

 戦士(キエス)であるならば、あれだけの傷も納得がいく。だが背に残っていた縦横無尽の傷跡は――。

(鞭打ちの痕だな、あれは)

(となると……どんな形であれ、罪人の経歴あり)

 エイルは厄除けの印を切る。

(ご忠告に信憑性が出るね)

 そう考えるとエイルは湯船に浸かり直し、次にやるべきことを考えることにした。


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