10 風向きは変わるもの
ピラータは小さな町だから、夜の間に門を閉めることはあっても、ずっとそこに番兵がいるようなことはない。
これはエイルには助かった。
町のただなかに魔術で飛び込んでいくのはどうにも苦手で──〈塔〉の力を借りても細かい照準を合わせられる自信がないということもあれば、周辺に人目がないかどうかまで見てとるのは彼には難しいからだ──たいてい町のすぐ外を目標にして移動していたのだ。もし門番がいれば、数日の間に出たり入ったりしている怪しい奴、と見えるだろう。
エイルは朝日の射しはじめた町並みを宿屋に向けて歩いていき、シーヴの場所を探ろうとして違和感を覚えた。
(……宿にいない)
シーヴの、いや、正確なところを言えば短剣の気配は違う場所にあった。
(あの野郎)
(俺の目がないと思って、レ=ザラ様を裏切ったんじゃないだろうな)
祭りの享楽的な雰囲気のなかでもレ=ザラの夫は妻を忘れなかったが、そこには友人がいたためかもしれない。エイルは苦い顔をしながら気配を探って町を進み、目標が動いていることに気づいた。
まだ朝市が立つか立たないかの早朝である。
こんな時間帯にシーヴが町をうろついているというのは、やはり不貞の疑惑を思わせた。エイルと取った宿の部屋にはほかに誰もいない訳だが、それでもいわゆる朝帰りというやつだ。
(となると、俺の手紙は読んでないか)
エイルは顔をしかめて考えた。
シーヴがどこかの娘と夜を明かしでもしたのならば、〈塔〉の力で部屋に届けた手紙は受取人がいないままで枕元にでも落ちているということになる。
ならば掃除人が部屋に入る前に回収しておいた方がいいかもしれない。彼がこうしてきている以上は改めて読ませる意味はないし、ほかの者が読んでも問題はないが、意味不明であろう。何も謎を残してやらなくてもいい。
(何にしても、説教してやらなけりゃな)
そんなふうに考えて気配を追い、近づいたと思って勢いよく朝の通りを曲がった、ときである。
「あ」
「え」
向かい合った彼らは、固まった。
それがシーヴであったなら、エイルは驚かなかっただろう。当然である。シーヴがのんびり歩いているのだと思って、彼は角を曲がったのだから。
「ク、クラーナ!?」
そこにいたのは、数年前、とある出来事の真っ最中に分かれて以来、噂だけはオルエンやシーヴから聞いたものの実際には長いこと顔を見ていなかった相手。エイルの先輩にして、オルエンのせいで「多大なる迷惑を被った」過去を持つ、それは確かに吟遊詩人クラーナであった。
「驚いたな、こんなところで偶然……と、どうした?」
やわらかそうな長い髪をひとつに束ね、弦楽器が入っていると思しき独特な形の荷袋を背負った若者は深く息をついた。それを見たエイルは反応に迷って尋ねた。
「何でもない。気にしないで」
クラーナは手を振って言うと、あらためて青年を見た。
「久しぶり、エイル。どんな〈困らし悪魔〉の仕業でも、君に会えて嬉しいよ」
にっこりと詩人は手を差し出し、エイルはかすかに首を傾げながらもそれを取った。
「友人が多いな」
詩人の隣の男が声を出す。
見ればそれは絵に描いたような剣士である。と言っても、少年が好むような冒険物語に出てくるタイプの大きな両手剣を背負った大柄な男ではなく、少女がうっとりとなって喜びそうな物語絵の戦士、つまり長身ですらりとし、戦いには向かなさそうな長髪を隣の詩人同様、いやそれよりもきっちりと束ね、よい声を出すいい男、というところだ。剣を佩いていなければ戦い手とは見えまい。
と言ってもそれはあくまでも外見上の話で、仮にも剣を握ったことのある人間なら、この男が戦士――それも歴戦の――であることは〈真夏の太陽〉のように明らかだった。エイルですらそれを感じ取る。何気ないふうに立っていても、隙がない。
「おかげさまでね。彼はエイル、エイル、こっちはガル」
詩人は詩人らしくなく、何とも簡潔な紹介をした。
「エイル、君が何をやってるのか知らないけど、あの爺さんの口車には迂濶に乗るなよ」
次の言葉はいきなりそれで、エイルは思わず笑う。クラーナはオルエンを疫病神か何かのように言う訳である。非常に、適していたかもしれないが。
「そっちはめでたく、オルエンと縁を切ったらしいじゃないか。俺もあやかりたい」
エイルが言うと、クラーナは乾いた笑いを見せた。
「どうにも簡単にはいかないよ、彼の場合」
「何がだ?」
「君がいま取りかかっている件が終わってからでかまわないから、僕から話があるとオルエンに伝えてくれないか」
「そりゃまた」
青年はにやりとした。
「どういう風の、吹き回し」
「風向きは変わるものでね」
詩人は連れの戦士をちらりと見やり、戦士は肩をすくめた。
「ところで、僕を探してたって?」
「誰が?」
「エイル、君が」
名指された青年は目をしばたたき、それから思い出した。
「ああ、そうそう。ちょっと訊いてみたいことがあったんだけど、だいたい判ってきたから、いい」
「そう」
「ん?」
エイルは首を傾げた。
「何で、俺があんたを探してたって知ってるんだ」
オルエンとは連絡取ってないだろ、とエイルが問えば、吟遊詩人は困った顔をした。
「シーヴにね。会ったよ」
「ここでか?」
「いいや。昨日の夕方、この町から西へ誰かを追っていったよ」
「……は?」
ここを出た?――だが、シーヴは近くに。
エイルはそこで、はたと気づいた。
「それじゃ、短剣!」
「ああ。君が僕を捜しているからと……目印になるからって渡された。これだろ」
クラーナは腰帯に挟んでいた短剣をすっと抜いた。エイルは脱力する。
「あの、馬鹿! 何考えてるんだっ」
「そうした方が君の役に立つと思ったんじゃないの。何だか知らないけど、手伝えることがあるなら手伝うよ。話を聞いておこうか?」
クラーナの言葉にエイルは迷った。
「でも、シーヴを放っておく訳にもいかないし」
「レギスだってさ」
「何だって?」
「レギスに向かうと伝えてくれと、言われたよ。彼にとっては僕はいまでも〈道標〉って訳かな。まあ、これは仕方ないかもしれないけど」
吟遊詩人は肩をすくめた。




