09 行ってくる
もし何かおかしなことがあったらこれを使って自分を呼ぶように、と護符を手渡すと、アニーナはとても嫌そうな顔をした。彼女は、息子が「魔術師なんか」であることがいまだに気に入らないのである。
それを言うのならばエイル自身、気に入ったことなど一度もないのだが。
太陽はもう西方に沈もうとしている。
もうこんな時間か、と驚いた。今日は朝いちばんから動いているが、どうにも忙しかった――塔でじっとしていた時間が長くはあるものの、聞かされた話は膨大で、目の前がくらくらしそうだった――こんな日は、時間の過ぎるのが早い。昼間が短い時季ではあるけれど、エイルは何だか一日を損したような気がした。
公正なところを言えば、オルエンにいろいろと重要で大切な話を聞かせてもらったのだから充実しているとも言えるのだが、アーレイドは〈冬至祭〉真っ盛りである。そんなときに街を訪れていて、やったことが赤子の服を買ったことと母に子供を預けたことだけというのは、いささか寂しい。
昨夜は、ピラータの町の祭りを堪能したし、あれはあれで充分楽しいものだけれど、大きな街の祭りは全く雰囲気が違う。御輿の祭列ひとつ取っても、大きな街であるアーレイドのものはずっと賑やかで、派手だ。
エイルが目立つものを好むという訳でもなく、彼は田舎町の地味な――と言っても、町びとたちには文字通り「お祭り騒ぎ」であるはずだが――祭りも楽しんだ。だが、何と言ってもアーレイドは彼の生まれ育った故郷である。慣れ親しんでいるし、祭りならばこうだ、と思うところもある。
しかし残念ながら今年はそれを満喫している時間はない。いや、少しくらいならばあるが、心の余裕がない。仕事は、山積みだ。
それからエイルは知人の飯屋で夕飯を取り、遊びの誘いを断って、アーレイド城に赴くと近衛副隊長を一発ぶん殴って――比喩だ――から、塔へと戻った。
そうなれば、砂漠の空気もすっかり冷え込んでいる。
そこまできて、はたと気がついた。
(やばい)
(シーヴに連絡するのをすっかり忘れてた)
昼前には絶対に何かしらの連絡をするときっぱり言ったのに、オルエンとの話だけでとうに昼など回っており、あとは「命を賭ける覚悟があるか」との言葉とサラニタのことで頭がいっぱいで、気づけばもう約束を何刻も過ぎている。
(まずいな、何を言われるか)
塔のなかに入り、石の建物と何か適当に言葉を交わしながら、エイルはどうしようかと考えた。とりあえず、少なくともシーヴはまだピラータでじっとしている。これは何とも僥倖であった。
何か情報があればもちろん、何も新たな事実が掴めなくても、シーヴは探しものがあるときにのんびりと一箇所に留まっていられる性格ではない。エイルが隣でとめているならばまだしも、小さな町で三日間をじっと過ごしているというのは奇跡的だ。余程ピラータの祭りが気に入りでもしたのだろうか、とエイルは呑気に考えた。
友人に謝罪をするならば、直接顔を見て言うべきである。
エイルは悪いことをしたと思っているし、この場合は文句を言われても嫌味を言われてもはたまた殴られたところで、彼に非があるのだから仕方がないと思っている。
だがそれでも、この連続の「移動」はつらかった。
一日でどこかと一往復することは珍しくないが、二往復はつらい。まして、それが連日ともなれば、若い身体にも耐えきれない。
オルエンなどは修行が足りないと一蹴するかもしれないが、そのオルエンに聞かされたことも含めて、エイルは頭も身体もふらふらだった。
シーヴに簡単な手紙を書いて――謝罪と、明日の朝いちばんで必ず戻ると言うような――〈塔〉の力でそれを先日と同じ場所へ送り込むと、エイルはばったりと寝台へ倒れ込んだ。
翌朝、夜明けとともに叩き起こされたのは、彼自身がそうしろと〈塔〉に命じていたからだ。だが、それでもとっさに出たのは呪いの言葉であった。
「酷いことを言う」
〈塔〉は哀しそうな声で言った。
「……お前に言ったんじゃないよ、独り言みたいなもんさ」
どうして建物の機嫌を取らなければならないのだろう、と思いながらもエイルは言った。頑丈な石の身体を持っているくせに心は傷つきやすいなど、冗談のようだ。いや、〈塔〉の言葉や態度がどこまで「本気」かなど判りはしない。彼はからかわれているだけかもしれないのだ。
洗面と着替えを済ませると、エイルは欠伸を噛み殺しながら塔の最上階へと向かった。
一階の出入り口のほかに唯一、外の空気が入ってくる場所。それがいちばん上の、見晴らしの小部屋だ。
ここからは東西南北、砂漠が見渡せる。
手紙を〈塔〉に跳ばしてもらったときは夜で、その時間帯には星明かりこそ瞬いているが「砂漠」という感じはしないものだ。
だが太陽の昇り出す早朝なれば、砂に覆われた大地が地平線まで続いているのがよく見える。
エイルにはいまだに無味乾燥な土地にしか見えないが、シーヴにとってはここは絶景を拝めるよい場所だと言うことになるらしい。
余程に強い砂嵐でもない限りは砂が吹き込むようなことのない高さだが、実際にはオルエンの術だろうか、史上最悪の砂風が吹いても、この部屋が砂で満たされたり掃除が必要になることはないようだった。
ただ、魔術師の術の及ばぬところか、それとも敢えて術をかけなかったのか、壁や床は引き戸の下と違って太陽神と風神の爪痕がはっきりとしており、塔の年齢を窺わせた。
エイルはいつもの通り、その小さな空間のまんなかに立つと西方を見た。
「ピラータだな?」
「そうだ」
〈塔〉の確認にエイルはうなずいた。
「んじゃ、行ってくる」
その挨拶は同時に合図であって、彼が西の小さな町に心を集中すると〈塔〉がそれに魔力を乗せる。
西端のアーレイドまでとなると集中を必要とする時間は長くなるが、ピラータは中心部の東よりだ。かなり、楽である。
明るくなっていく砂地が不意に目の前から消えていき、色のない世界が訪れた。そのなかを歩く――と言うのとは少し違ったが、それに近い印象で「移動をする」。
以前は大河のすぐ西に行くのにも何分も必要としたものだが、近頃は一分とかからないようになった。
こういう判りやすい成長は、嬉しいものである。
何かを学び、得たと思うことは嬉しかった。
と言ってもこのところ、その手の喜びはずっと魔術の関することばかり。彼としては、魔術師として大成する気はないのだが。
ふとエイルは、一本に絞れ、というシーヴの助言を思い出した。
エイルとしては調理人をやっているときも、剣の訓練をしているときも楽しい。しかしシーヴの言うように、そのようなことは続かないのだろうか。
決めなければならないのだろうか。
何を?
魔力を持っているためという意味でも、魔術師協会に登録していると言う意味でもなく、真の意味で「魔術師」になることを――?
エイルははっとなった。
慌てて、周囲を見回す。
気づけば世界には再び色が戻っていたが、そこは彼が出ようと思っていた場所と少しばかり異なった。
(いけねえ)
(慣れたからって、ぼんやりすれば失敗することだってある)
(下手を打つと、二度とこっちに戻ってこられないこともあるって話だっけ)
オルエンと〈塔〉が――前者は気軽に、後者は真摯に――してきた忠告を思い出した。
うっかりして何か物体のあるところに姿を現しでもすれば、当人は確実に死ぬし、場合によっては周辺に魔術の被害をもたらす。
色のない世界のなかで迷ってしまえば、どうなるのかは誰も知らない。そうなって戻ってきた者は、いないのだ。
その話を思い出したエイルはぶるっと身を震わせた。ピラータまで少し歩かねばならないくらいで済んだことを神に感謝しなければならない。




