05 風の強い日に
魔術でやる「移動」はエイルの好みではなかったが、彼に砂漠を旅する能力はないし、少しばかりあったところで、何の目印もない砂の海の上、その一点を目指して歩くというのは不可能に近い。
よって、彼は「自宅」からどこかへ行くのも帰るのも、魔術に頼らなくてはならなかった。自分の力だけではないのが、せめてもの救いだ。ひとりでそれをやらなくてはならないとしたら、いったいどれだけの集中力と時間を必要とするものか。
「砂漠のなかからとは珍しいな」
重い扉を開けて内部に入り、熱砂の世界から遮断されるとエイルはほうっと息をつく。毎度のことでもう慣れているのだが、やはり安堵の息は出る。
「お帰り、主よ」
「はいはい、ただいま」
エイルはひらひらと手を振ると、誰もいない石の広間を歩いた。
「オルエンは? きてないのか」
「いない。しばらく、ここにはきていない。お前の留守にもだ」
「へえ、てっきり待ちかまえてると思ったのに。まあいいや、あの顔を見ないで済むならその方が気楽だ」
言いながら青年は小さな台所へ出向き、片隅に置いてある水甕から簡素な陶杯で直接水を汲むと、一息に飲み干した。
「はあっ。砂漠の民の歓待は嬉しいけど、やっぱあの地這い虫の味にゃあ慣れないな」
彼が言うと声は笑った。
「笑うな、〈塔〉。お前は食ったことないくせに」
「それはもちろん、ない。私は石でできていて、人間のように食事など必要としないのだからな」
〈塔〉は平然と返した。
「ラスルか。何か面白い話でもあったのか? これまではミロンやウーレとしか交流がなかっただろう」
「まあね。あんたの『前の主』のご所望さ。興味があるなら自分で調べればいいのに、人を何だと思ってるんだ」
「それは、弟子だろう」
「……好きに言っててくれ」
「召使い、でないだけましだとは思わぬか?」
「似たようなもんだって気がするよ」
エイルはげんなりとして言うと気を取り直すように台所を見回した。
「しまったなあ、食材の買い置きが底をついてたっけ。どっかの町にでも寄ってくるんだったな」
「また出るか?」
「まだいいよ、そんなに腹は減ってないし」
そう言って地這いの味を舌に蘇らせてしまったエイルは、苦い顔をするとまた水甕から減ることのない清涼な水を飲んだ。
たまには気が利くんだな、というのが「弟子」の言葉だった。
それに「師匠」は苦い顔をして、要らぬのなら持って帰ると――どこに帰るというのか、彼はオルエンの「自宅」を知らなかった――言ったものだから、エイルは慌てて相手の機嫌を取らなくてはならなかった。
「ちょうどそれが食いたかったんだ、うん、さすが稀代の魔術師オルエン殿、はい、すごい、立派、素晴らしい。いや、伊達に長生きしてないね」
「どこにも誠意が感じられん」
オルエンは唇を歪めたが、空腹の若者の前からいい匂いのする蒸かしたての饅頭を取り上げることはやめたようだった。
「では食事をしながら成果を聞かせてもらおうか、弟子よ」
エイルはやはりその口調に「召使い」だの「下僕」だのという響きを感じ取ったが、反論はやめておいた。言うだけ無駄である。
オルエンが酒棚から彼が〈塔〉に住んでいた時代にため込んだらしい酒瓶を選んで持ってくれば、エイルは饅頭と青菜の炒めものを厨房で働いていた時代に培った小技できれいに皿に盛り、そうなれば立派な食卓のできあがりだ。
「ラスルの長に話を聞いた。例の魔物は〈魔精霊もどき〉って呼ばれてて、見たのはふたりだけだけど、歌を聴いたのは部族中だって」
エイルはそんなふうに話をはじめた。
サラニタがラスルの周辺に姿を現したのは、ちょうどひと月ほど前のことになると言う。〈守りの長〉と呼ばれる護衛隊長のような存在と幾人かの若者たちが集落の近くを巡回していたときに、歌のようなものを耳にしたと。
それはあまりに美しい調べであり、ふらふらとそちらに近づきたがる者もいたが、これはきっと魔精霊であると判断した〈守りの長〉は若者をとめ、巡回を切り上げて集落に戻ると民たちに警戒を促した。
その後、美しい魔物に惑わされたという男は出なかったが、ふたりの若者がその姿を目にした。
それは髪の長い若い女のように見えたが、決して人間ではなかったと言う。
何も身につけていない姿は、まるで蝋でできたようにのっぺりとしていて、月の光を白く反射させていた。かと言って不気味だというのではなく、美しいとさえ感じたらしいが、魅力的だとか性的に刺激を受けたということはなかった。
正確に言えば魔物が声を出して何かを歌っているというのではなく、何かが鳴っているようだったと言う。胸の辺りに光るものがあって、首飾りではないかと言われていた。
その歌は風の強い日には夜でなくても聞こえることがあり、ラスルたちを戸惑わせた。音色は美しく魅惑的だったがどこか邪に思えることもあり、彼らは砂の神に魔を払うよう祈りを捧げた。
しかし、歌はただ聞こえるだけで、それ以上何か悪いことがラスルに起こることもなかった。
彼らは警戒を怠らなかったが、業を煮やした魔精霊が集落の近くに現れて若い男なり女なりを誘うというようなこともなく、ただ美しく、少し暗い歌を奏で続けた。
実害はなかったが、何かの前兆であってもいけない。そう考えた彼らは、サラニタと呼ぶようになった魔物と〈風謡い〉と呼ぶようになった首飾りの正体を突き詰めるべく、精鋭を遣わした。
目撃したふたりは魔精霊ではないと言ったが、念には念を入れた。やはりそれが「もどき」などでなくて男を惑わす魔性の生き物だとしても、簡単には理性を失わないような立派な男たちと、万一にも男たちが惑えばそれを正気に返す役割を担う女たちが歌の聞こえる方角に出向き、風を待った。
「風、とな」
オルエンは繰り返した。
「風の強い日に聞こえる、と言ったが、風のない日には聞こえんのか」
「そうらしい。まあ、風のない日なんて滅多にないみたいだけど、少なくとも風が吹いていないときには聞こえないみたいだ」
「お前のいる間は、聞こえなかったのか?」
「幸か不幸か、俺は何も聞かなかったよ。このところ、集落までは聞こえてこないんだってさ。巡回をすると遠くで聞こえるみたいだけど」
「馬鹿者。何故それにつき合ってこなかった」
「やりたきゃ自分でやれって言ってんだろうがっ」
どうしてこんなことで「馬鹿」呼ばわりされなければならないのかとエイルは言い返したが、オルエンは何かぶつぶつと文句を言うだけだ。