03 覚えていてくださったのかしら
背後から回された腕が青年の首を締めるようにした。
エイルは身をよじって腕との間に隙間を作り、思い切りよくかがむと低い姿勢のままで背後を振り返って襲撃者の足を払おうとする。が、それは読まれていたと見えて、襲撃者は素早く、再びエイルの背後を取っていた。
「まだまだだな」
「あのな」
エイルは嘆息した。
「どこの宮殿に、通りすがりにいきなり攻撃を仕掛ける近衛隊副隊長がいる!」
「任務だ」
イージェン・キットは平然と言った。
「俺は近衛の一員だぞ。王女殿下をお守りするのが仕事だ。シュアラ様の機嫌を悪くする賊は見つけ次第とっ捕まえて、ご献上しなけりゃならん」
「あのな」
エイルはまた言った。
「心にもないこと、言うなよな」
言われたイージェンはにやりとした。
「任務に忠実な心は、本当だ。ま、どこかの騎士殿とは違うんで、王女殿下というよりアーレイド王家を守るのが任務な訳だが」
「訓練は? いま頃なんか、中庭で剣振り回してるはずだろ」
「馬鹿言うな」
若い副隊長は笑った。
「フィロンドなんだ。誰も彼も祭りが気になって、訓練なんかになるもんか。そわそわして怪我でもされるよりは、一日休みにした方がいいってもんだ」
軍兵などは警備に駆り出されるが、近衛はもう少し優雅な身分であるようだ。もちろん彼らは彼らで重責を担っているのだが。
「休み。イージェンは」
「外れ籤ってやつさ。誰かは残ってなきゃならんからな」
「成程」
イージェンは嫌そうな顔をしたが、エイルはただうなずいた。同時に、イージェンが自ら率先して残っていることに賭けてもよいと思った。
「当然、隊長も仕事中って訳だ」
「いや」
意外な返答にエイルは片眉を上げた。
アーレイド近衛隊長にしてシュアラ王女の護衛騎士であるファドック・ソレスが、副隊長に仕事を押し付けて休みを取るようなことがあったら――それは偽者であるか、世界の破滅が近いか、である。
「もちろん、遊びに行ってやしない。もうひとつの任務さ。キド閣下のご病気は相変わらず一進一退でな、ファドック様は閣下の代理まで務めてる。近衛隊長やりながら殿下のところに顔見せてるだけでも尋常じゃない仕事ぶりだってのに、ご夫妻ともども伯爵代理までこなしてるなんざ」
イージェンは肩をすくめた。
「俺はときどき、あの人は化け物だと思う」
「ある意味、な」
エイルは同意した。
ファドックはもともと、平民である。とある事件がもとでキド伯爵ルーフェスに拾われ、その世話を受けた。彼がシュアラ王女の護衛騎士となった詳しいいきさつなどはエイルが知ることはなかったが、ともあれ、ファドックは騎士という称号に相応しい能力と忠誠心で十以上年下の少女に仕えた。
時折、その忠誠心は――エイルから見れば――行き過ぎの感もあったが、闇雲に従うのともまた異なった。ファドック・ソレスのなかにはどうやら独自の規則が存在し、彼は決してそれを破らないのだ、ということが近頃エイルに判ってきたことだった。
「ご夫妻ともどもって言ったか? じゃあ、奥方様のお身体はもういいのか」
「そりゃ、ご一緒されてるんだから、もういいんだろうよ」
イージェンは肩をすくめた。
「ま、俺に赤んぼを産んだ経験はないから、よく判らんが」
「俺だってないよ」
エイルは言った。当たり前である。
「んじゃ、今日はファドック様にご挨拶できないか」
「いや」
イージェンはまた首を振り、またエイルは首を傾げる。
「近衛隊長は俺に代行させても、護衛騎士の方は代役がいないだろ。いま頃ならちょうど、シュアラ様のところだと思うぜ」
「あら」
アーレイドの第一王女にして、その第一王位継承権を夫であるロジェス・クライン=アーレイドに譲った形となったシュアラ・アーレイドは、形式上はいまでも第二王位継承者となる。
二十歳を超えた彼女は、いまだ十代の可憐さを残しながら、同時に「子供じみた」雰囲気を失い、「可愛らしい」から「美しい」へ咲き誇ろうとしているところであった。
「まさか、約束を覚えていてくださったのかしら、エイル術師?」
金の髪を揺らし、青い目を軽く瞠り、驚いたような顔をするのはいかにも芝居がかっている。だが姫君という「人種」はときに本気でこういう態度を取るから、演技かどうか判定に困ることがある。
しかしエイルは、シュアラに関しては、読める。
いまのは明らかに皮肉だ。と言うか、むしろ嫌味だ。
「『術師』はおやめいただけますか、殿下」
すっかり覚えた宮廷式の礼をしてエイルが言えば、シュアラは笑った。
「くるとは思っていなかったわ、エイル! お前が忙しいというときは、本当に忙しいんだものね」
「シュアラの機嫌を損ねたら、ファドック様から受ける剣の訓練がきつくなると思ったのさ」
「職業兵士並みの訓練を望むなら、次はそうしてやろう」
「ファドック様が言うと本気に聞こえるから、怖いです」
「何を言う」
王女の護衛騎士は真顔で青年を見た。
「無論、私は本気だぞ、エイル」
ファドック・ソレスは真面目に言ったが、その黒い瞳は面白そうに笑っていた。
「厳しかろうが甘かろうが、ファドック様に訓練をつけてもらえるのは望むところですけど、近衛隊長様にこれ以上時間を割いてもらう訳にもいかないです」
「あら」
くすり、と笑う声がした。
「いいのよ。この人は、あなたに訓練をつけるのは趣味みたいなものだもの。兵士に教える正規の技術だけじゃない、たとえば酒場での喧嘩に勝てるような狡っ辛いやり方なんて、兵には教えられないものね」
「カティーラ様」
エイルは困ったように笑った。
ファドックの妻であるカティーラ・ディフェス=ソレスは、キド伯爵の縁の姫だ。ファドックを「養い子」ではなく、正式に「養子」にしたがった伯爵は、息子同然に思っている男に遠縁の娘をあてがった。
この結びつきは一部に嵐のような混乱をもたらしたが――独身で、平民で、王女の護衛騎士であったファドックは、城に仕える女たちに絶大なる人気があり、エイルと恋人関係にあったレイジュも、エイルとファドックだったらファドックを選ぶに決まっていた――彼が貴族の末端に名を連ねるということは、都市としては歓迎されることだった。
と言うのも、王女の護衛騎士がそれ以外に何の位も持たないこと、加えて、王城都市たるアーレイドの近衛隊長が全くの平民だというのは、大臣たちにはいささか頭の痛いことだったからだ。地位など持たなくても立派な人間である、ということは、人によっては何の意味もなさないことである。
逆に、貴族だと言うのに立派な人間だということは、地位を持たない者から見ると褒め称えるべきことで、彼の結婚に泣いた一部の娘を除いてこの縁組みは喜ばれていた。
地位が上がったところで彼の態度は誰に対しても変わらず、人気は相変わらずあった上、アーレイドにもたらす効果も大きいと考えられていた。ファドックがルーフェス・キドの持つ伯爵位を継ぐ可能性が高くなったからだ。
エイルは政治だの、街の誇り――或いは、見栄――などどうでもよかったから、彼が思うのは、ファドックの妻となった女性が嫌な女でなくてよかった、というくらいである。
「カティーラ」という名が南方の伯爵が飼う白猫と同じなのはいささか困惑の種だったが、この名前は歌物語に言われる「星の姫君」の名前であったから、そんなたいそうな名前を猫につける伯爵の方が変わり者なのであって、貴族の姫としてはそう珍しい名前でもない。
カティーラの評判は、すこぶるいい。但し、いまだにファドックへの未練を残すご婦人からの風評は、散々だ。なかには、ファドックがキド伯爵のあとを継ぐという話までカティーラの仕組んだことであるという噂まであった。息子への爵位欲しさに野心など持たない夫を唆したのだと言うような。
少しでもソレス夫妻を知っていれば、腹を立てるを通り越して笑ってしまう話である。
カティーラは言いたいことを言う性格で、とても裏で誰かを唆すような気質ではないし、何にでもよく気がつくファドックが唆されるなどというのも、どうにも想像の範囲外だ。
ともあれ、彼女は一部の悪評を知っていたが、全く気にしないどころか歓迎しているようだった。ソレス夫人曰く、「妬まれるような夫を持っていると生活に張り合いがある」とのことである。
エイルがカティーラと直接に話をすることはあまりなかったものの、彼はてきぱきした物言いのソレス夫人に好感を抱いていた。かつては護衛騎士を何かとそばに置いていたシュアラ王女でさえ彼女にわだかまりはないようだ。
政略結婚に近いものであったとしても、ソレス夫妻の仲はよいように見える。一部を除いて待望の第一子も無事に生まれ、健康に育っているらしい。
となればエイルに言うことはない。仮に何か思うところがあったとしても、言えるはずもないのだが。




