02 付き合っている場合ではない
目を覚ますと、身体はまだぼんやりとしていた。
半日かそこらの間に〈塔〉のもたらす移動を三回、というのは二十歳そこそこの若い身体にもなかなかきついようだった。
しかしそんなことを口にすればオルエンはもとより〈塔〉にも「情けない」とか「不甲斐ない」とか言われることは目に見えている。エイルは欠伸をし、伸びをしたあと、だるい感覚を吹き飛ばそうとばかりに寝台から跳ね降りた。
「起きたか、エイル」
「ご覧の通りだよ」
〈塔〉の言葉にそんなふうに答えて欠伸をかみ殺しながら階下に向かう。洗面を済ませて台所をのぞき、乏しい材料で何か作れないかと考え、味の薄い汁物を朝食にした。
調味料で味をつけることはできるが、出汁になるものがなければ、たとえば塩気をきつくしたところで不味くなるだけである。燻製鶏の足でも一本あればぐんと美味くなるのだが、ないものを嘆いてもはじまらないので、エイルは仕方なくしなびた根菜を煮ただけの汁を食した。
そうなると却って食欲が刺激され、やっぱり近場――と言っても東国のどこか――に軽く食いに行くか、いや、長い時間を塔を空けるよりも何か買って戻ってこようか、などと考え出す。
アーレイド城に勤めている身なれば、たとえ月に数度の仕事であっても、使える金は数年前と雲泥の差だった。
エイルに贅沢をする習慣はなかったから、使える金が増えても食事や買い物内容に極端な差は出なかった。日がな一日働いてようやく食えていた日々を思うと、何でも好きなこと――いまは魔術の勉強をしていることが多い――に時間を使っていいということの方が、とんでもない贅沢だと思えた。
そんなふうに過去と現在に思いを馳せた瞬間、青年ははたとなる。
(拙い)
(今日辺り、シュアラんとこ行く日じゃなかったか?)
数月前、ユファスとティルドに協力しようと〈風読みの冠〉について調べるためにシュアラの授業をすっぽかしたことがあったが、あれはたいそう王女殿下の気に障った。
エイルは解雇を怖れるのではない――給金は魅力的だが、いつまでも続く仕事だとは思っていないし、ほかの手段もある――から、雇い主の機嫌を損ねることにびくついたりはしない。それに、「王女様の話し相手」などとして下町から拾われてきたときから、彼女を怒らせるのは彼の得意技だ。
初めの内は居丈高だった王女にむかっ腹を立てていた少年だったが、話をしていくと、彼女は城以外の世界を知らないのだと気づくようになった。
身分差の溝はいかんともしがたいが、王女様と下町の少年、という関係にしては、彼らは充分に意思の疎通ができたし、喧嘩をするくらいに仲がよい、ということになっていった。
彼女に「王女」ではなく「同い年の娘」を見るようになった頃は、恋心のようなものも少し抱いた。
けれどシュアラが王女殿下であるということを当時少年だった彼は一度も忘れたことがなかったし、その思いは「憧れ」或いは「庇護欲」といったところで、それ以上に発展することはなかった。
第一、いまでは彼女は人妻でもある。王女殿下に恋をするだけでも身分不相応なのに、次期王妃殿下に下心があるとでも思われたら、牢獄行きだ。
いくらエイルがアーレイドの近衛隊長と親しくても、隊長は王女の護衛騎士でもあったから、エイルに不敬罪の容疑が上がったとして、そのときに彼と王女のどちらを守るかは考えるまでもない。
とは言うものの、いまではエイルとシュアラは、雇われ人と雇用主だとか、教師と生徒だとか言うより、身分を越えた友人同士のようになっている。出会ったばかりの頃と同じようにたまに言い合いをするが、彼女にそんな口を利く相手はエイルのほかにいないから、シュアラ王女はエイルに本気で怒ることは――かつてのようには――なく、彼との喧嘩ですら楽しんでいる風情があった。
「おい〈塔〉、今日って何日だっけ」
「それはまた記憶力の悪い」
笑うような声が聞こえてきた。
「何だよ」
思わずエイルはむっとする。
「八の月、十五番目の〈月の女神が眠る一日〉と言ったら、西方では何がある?」
「あ」
エイルは頬を歪めた。
「〈冬至祭〉もいいとこだな」
エイルは頭を抱えた。
太陽の強い北方や、砂漠に近い東方の一部を除き、ビナレスのほぼ全土が雪の三姉妹に祈りを捧げる日。アーレイドなどは、月の真ん中を中心に、一旬近く祭りが続く。
前回の「休講」はシュアラの許可を得た形となったが、その際にさせられた約束がある。
即ち、〈冬至祭〉の間に必ず顔を見せること、であった。
自分は忙しいんだ、と無視をすることもできる。シュアラは彼を罰したりはしないし、せいぜい、へそを曲げるくらいだ。最悪で、解雇される。でもそれは覚悟のうちだ。
そうだ、エイルは忙しいのである。
砂漠の魔物に、首飾り。シーヴと、商人。エディスンとの関わり。それに、あの小鳥。
王女様の気紛れに付き合っている場合ではない。
「〈塔〉」
「どうした」
「……アーレイドに行く」
「行くのか」
〈塔〉は面白そうに言った。エイルの内心を読み取って――と言うより、隠そうとしていないために表れていた百面相から見て取って、「つき合っていられない」という結論が口から出てくると思っていたようだ。
「ちょっとだけ顔出してくるさ、仕方ない。昼前には戻ってきて、それからピラータ……ああ」
エイルは肩を落とした。
「二日連続で、こんな〈移動〉なんかやってたら、身体が壊れちまう」
思わず呟くと、〈塔〉は叱るような口調で言った。
「そのようなことでは情けないな、主よ」
不甲斐ない、と言葉は続いた。




