03 違います
館の主の帰還が告げられたのは、それから数刻も経たないうちだった。
ソーンは自身の業務に戻っており、エイルは手の空いた使用人たちと雑談をしていたが、その報せに玄関へと向かった。すると、ちょうど扉が開かれたところである。
南方のきつい冷気が一瞬だけ入ってきて、すぐに扉で閉ざされた。連れもなくひとりで帰ってきた伯爵は、自らその戸を開けて館に帰還したのだった。
このカーディルの領主である伯爵は四十を越えたくらいの年齢であったが、雪の積もる南方の道を馬車でなく、馬を飛ばして行き来できるくらいには体力がある。見た目はすらっとしているから、なかなかに意外だ。
そうは言っても、その顔色はあまりよいとは言えず、冬の旅路がもたらす疲労を伺わせた。うしろでひとつに束ねられた茶色い髪は、雪路の湿気に普段よりも巻いている。
「お帰りなさい、ゼレット様。早かったんですね」
エイルが声をかけると、ゼレット・カーディルはまじまじと彼を見て、すたすたと近寄ってきた。少し警戒をしながらエイルが右手を差し出すと、ゼレットは素直にそれを取る。
それに安心したのはエイルの油断であった。
と言うのも、ゼレットはそのままエイルの手を引っぱって彼を引き寄せると、抱き締めたからである。
「いきなり何すんですか、暑苦しい!」
気を抜いた自分を心で叱責しながらエイルが抗議すると、ゼレットが笑うのが判った。
「冬場に言う台詞ではないな。第一、俺はまだ寒い。可哀相にと優しくしてくれてもよかろう」
「城んなかは充分に暖まってるでしょうがっ」
エイルは抵抗しながら叫んだが、なかなかその腕から逃げられない。
「うむ、実はな、お前のことを考えておったのだ、エイル。会いたさ故に俺が作り出した幻でないかどうか確かめねばならんからな」
「ゼレット様にそんな夢見がちなところがあったら驚きます」
言ってやると、ようやくゼレットが腕を緩めた。エイルはばっと一歩退くとうなった。エイルはゼレットに対して親しみを覚えているが、抱きしめられたり口づけられたりするのはお断りだ。
「お前がこの城で俺を迎え、こともあろうに『お帰りなさい』と言う。うむ、よいな。夢のようだ」
にこにこと嬉しそうに言う伯爵にエイルは呆れた。
「戻ってくるなり阿呆なことを言わんでください。俺は、こんな真冬にこんなとこにまできたくなかったですよ。ただ」
「俺に会いたかったのだな」
「違います」
これ以上ないほど素早く彼が返答すれば、ゼレットはがっかりしたようだった。だが知ったことではない。
「全く冷たくなったものだ。出会ったばかりの頃は喜んで俺の口づけを受けたというのに」
「勝手に記憶を書き換えないでもらえますかっ」
エイルは、両の拳を握りしめて叫んだ。卓があれば、両手で思い切りそれを叩きつけているところである。
「何と。夜に俺の寝室へ忍んできて、本当は俺に抱かれたかったのだと告白したのを忘れたか」
「してませんっ、んなことはっ」
冗談にしても性質が悪い。エイルは顔が青くなっているのではないかと思いながら反論した。
「そうだな、あれは偽者であった。何とも、惜しかったな」
ゼレットは芝居がかって嘆息し、エイルは天を仰いだ。
「俺はそんな話をしにきたんじゃありませんよ、ゼレット様」
「では何なのだ。素直に、俺に会いたかったのだと言え」
「言いませんってば。俺は、ソーンに会いにきたんですよ」
「何と」
ゼレットは不満そうにした。
「ミレインもソーンばかりかばうが、お前も若い方がいいのだな」
「馬鹿なこと言わんでくださいって言ってるでしょう。俺は女の子が好きですと何度言えば!」
これまで何度、そう表明したことか判らない。ゼレットがどんな趣味を持とうと自由だが、他人を巻き込まないでほしいというものだ。もっとも伯爵閣下からすれば愛情を隠すなどもってのほか、常に意思表示を怠らないのは重要なことであるらしい。言い換えれば、「押し続ければ陥ちるかもしれんではないか」ということだ。
「例の話を詳しく聞きたかったんですよ。ほら、魔物の誘惑から王子殿下をお救いしたってやつ。その結果、ソーンへの報償がゼレット様の妙案で片づいたと言うあれです。どっちかって言うと奇妙な案って言うと思いますけど」
ささやかな抗議にエイルはそんなふうに言ってやった。ゼレットは苦笑する。
「奇妙だと言われていることくらいは、よく知っとる」
当人なのだから、当然であろう。
王子が魔物に誘惑されかけたなど、外聞のいい話ではない。詳細は伏せられたが、ソーンには報償が与えられなくてはならない。王族の命を救ったとなれば領地を与えられてもおかしくないほどだったが、公にできないためにウェレス王は困っていた。そこにゼレットが「妙案」を打ち出したのだとエイルは聞いていた。
「俺がソーンを養子にした経緯を改めて聞きたい訳ではないな。魔物の話を聞きにきたのか」
「そうです」
エイルはうなずいた。
「ちょっと、歌を歌うってとこに引っかかることがあったんで。でも関係なかったみたいだ。ソーンがやっつけたのはやっぱ、女夢魔の一種なんでしょう。俺が探してる話とは違いました」
「歌を歌う、だと?」
「知らないんですか?」
ゼレットは不思議そうに問い、聞き返されて、エイルは驚いた。
どうしてウェレスの宮廷を騒がせた事件をウェレスの貴族が知らないのか。もちろん、エイル自身が先に言ったように「詳細が伏せられている」ことはあるだろうが、ゼレットは、この件の関係者とも言えるのだ。
彼はソーンへの報償としてカーディル領を提供したのである。つまり、ソーン・クラス=カーディルはゼレット・カーディルの後継者なのだ。
ソーンはその話をとんでもないと断ろうとしたが、業務などは執務官に任せておけばいいのだなどと適当なことを言って、ゼレットはソーンをこの地へ連れたと言う。
活躍への報償としては異例だが、子のいない貴族が養子を取るのは珍しい話ではない。ウェレス王レンディアルはゼレットの提案を面白がったのと、実際、あまりおおっぴらにできない事件であったから、ゼレットの希望であるということを隠れ蓑にソーンへの報償が片づくということでそれを認めたらしい。ソーンの父親も彼が二男であったためかそれに応じ、となればソーンの抵抗は脇に置かれたのだった。
思いがけない出来事に、ソーンとしてはカーディル伯爵は何を考えているのか判らないという印象を抱き――ある意味では非常に正しい印象だとエイルは思った――次期伯爵としての「修行」をはじめて一年が経っても、まだゼレットに苦手意識があるようだ。
加えて、ゼレットは魔術のにおいがする事柄を嫌うから、あまり詳細に事件を語ることはなかった、ということのようだ。




