12 彼の翼(完)
「いったい……何を」
呟いて、文面をたどっていく。
どうやらそれは近況報告のようなものに近かった。慕わしく懐かしい名前の数々に切ない色を浮かべたエイルの瞳は――その後半にたどり着くと、不意にぎゅうっと険しくなった。
「あの野郎っ。ただじゃおかねえっ」
叫ぶと青年は手紙をぐしゃりと握り締めて、散らかった卓を激しく叩いた。ひょっこりと顔をのぞかせていた子供は主の剣幕に驚いて目を見開く。
「どしたの、エイ」
「どこが『いい奴』だ、俺の目は腐ってんのか、こんな奴にレイジュを任せられると思うなんて」
「誰の話」
使い魔の疑問を無視すると、青年はぎゅっと遥か西方を睨んだ。
(――ウェンズ、てめえっ)
彼が怒声を乗せると、アーレイドの地でそれを向けられた魔術師はすぐに気づいた。
『……エイルですか。驚きました』
声は本当に驚いたように聞こえた。
『こんなに簡単だとは。やってみるもんですね』
(てめ、レイジュを泣かしたらただじゃ……何だって?)
エイルは勢いを削がれた気持ちで瞬きをする。
「冗談に決まってるじゃありませんか」
ウェンズは何とも穏やかに声を返した。
「本当に私が、恋人の身を案じる可愛らしい彼女を弄ぶと?」
「んな性質の悪い……冗談?」
エイルは呆然とする。
「冗談だってのか?」
「こういった声では嘘はつけませんから。代わりに手紙を」
さらりとエディスン出身の若者は言った。エイルは口をぱかっと開ける。
「あなたを引っ張りだすにはあなた自身を案じるよりも、大事な相手が危ういぞと言うのが早い訳ですね。クエティスとイーファーに倣わせていただきました」
声を聞きながらエイルは開いた口がふさがらなかった。
「冗談……」
「本気にされたんですか? 巧くいったという満足感と、いささか心外な気持ちも混ざりますね」
「お前……」
「思考が乱れてますよ。言葉が聞こえづらい。はい、呼吸を整えて。――そうですね、それでいいです」
思わず言われた通りにしてしまったエイルは、しかし疑問も苦情も、まだ言葉に形作ることができないままだった。
「けれど先日まで完全に捨て置かれていたことを思うと、今日の反応の早さは感動的なまでですね。何かあったと見てよろしいですか」
「それは悪かっ……いや、よろしいもよろしくないも……」
ようやく口を閉ざしてエイルはうなる。
何かがあった。
それが「何」であると明確に指し示すことはできない。
しかしこの日、シーヴとの語らいがなければ、エイルはウェンズの手紙に怒りと危惧を覚えたとしても、いまのように反射的にウェンズを怒鳴りつけるような真似はしなかったかもしれない。
その代わりに落ち着いて考え、そうすればウェンズはそんな男ではないと気がついただろう。そしてこれは彼を呼び戻そうという作戦なのだと理解して――その気遣いに感謝をしながらも胸の痛くなる思いを味わった、それで終わったかもしれなかった。
「覚えてろよ、ウェンズ」
だがここで感謝の言葉を口にはせず、エイルはそう言った。
「お言葉のままに」
ウェンズはあくまでも余裕があるようだった。
「ご安心を。レイジュ嬢はファドック殿とあなたのこと以外、考えやしませんよ。万一私にそんな気があっても、あれだけ強い意思を持つ女性に〈魅了〉術なんてかかるものですか」
まるで講義をするようにウェンズは言い、エイルはがっくりと肩を落として嘆息した。
「何つうか、俺はいま、自分がすごく情けないんだが」
「そんなふうに思うことはないでしょう。あなたは変わらずレイジュ嬢を愛しく思い、彼女に幸せになってもらいたいと思っている。――ああ、そうですね、ご自分でやろうとしないところは少し、情けないですか」
「言ってくれるじゃねえか」
エイルは片頬を歪めた。それは、オルエンの癖に少し似ていた。
「本当のことでしょう」
ウェンズはあっさり言い、エイルはまたもうならされる。
「……皆さん、お待ちですよ」
それからウェンズはしかし、面白がるような調子を不意に消してそう言った。エイルはその話題に少し怯む。
「ただ私はですね、エイル」
それに気づいてなどいないように、北から西の魔術師となった青年は続けた。
「王女殿下や隊長のように、同じ形であなたに戻ってきてもらいたいとは考えていません」
その宣言にエイルは瞬きをする。てっきり「もとの鞘に納まれ」とくると思い、やはりそれは無理だと、素早く答えようと思っていたところなのに。
「あなたは新しい形でアーレイドに、そして親しむ彼らに関わればいい」
「新しい形、だって?」
エイルが聞き返すように言えばウェンズはうなずいたようだった。
「そう。捻れ、歪んだと思うなら正す努力を。失われたと思うなら、築き直す計画を」
ウェンズは知らない。エイルに起きたこと。誰も知らない。彼は知らせていないから。
「――無理だよ」
彼は弱く答えた。失われたものは、戻らない。命も。記憶も。親愛も。
「試みる前からそう言うんですか?」
ウェンズは意外そうに言った。
「イーファーの呪封書を私から奪ってダゴール=アンディアの印を切った無謀な魔術師は、いったいどこに?」
「無謀って言うなよ」
自身がシーヴにしているような評価をされているかと思うと、何と言おうか、むずむずした。
「それに、あれとこれとは違う」
「違う?」
ウェンズは繰り返した。
「お気をつけを、エイル術師。言霊は〈心の声〉だって聞いているかもしれません」
そう言われたエイルは片眉を上げた。
「言霊は関係ないよ。言ったから違う、言わなかったら違わないってもんでも」
「奇妙ですね」
ウェンズはエイルの台詞にかぶせるように声を出す。
「あなたはもっと、言葉には慎重でした。投げやりになれば言霊が喜んで足にしがみつくことをご存知のはず」
「足に」
エイルはまたも目をしばたたかされる。
「しがみつく」
「そうですよ」
先輩術師は淡々と言った。
「もしや無意識なのでしたら、ご自身の言動を思い返してみてください。言うなればあなたは」
少し皮肉めいて、ウェンズは笑ったようだった。
「自分に呪いをかけている」
これにはエイルは、完全に絶句した。
「もう一度考えて。それから答えが出たら私にでもスライ導師にでも、連絡を」
「ウェンズ」
相手が接触を絶とうとしていることに気づいたエイルは、引きとめるように友人の名を呼んだ。
「有難う、な」
今度は素直にその言葉を口にすることにした。
「御礼でしたら、ソレス隊長に」
しかしウェンズはそれを受け取らずにそう答える。
「ファドック様? 何で」
エイルはわずかに首を傾げた。
「私は彼の妙案を私なりに編集しただけですから」
その言葉を最後にウェンズは術を切った。訊きたいことはたくさんあるだろうに、エイルが言おうとしない内は何も問い詰めることをしないまま。
エイルは西に向けて感謝の仕草をした。
どうやらウェンズを「いい奴」だと思ったことは、間違っていない。いささか変わり者、いや、困りものではあるかもしれないが。
不可思議な翡翠の宮殿、その使者。守りの石を加護とする、砂漠の術師。そして、西の地に生まれ育った、ひとりの青年。
それらは、別の存在ではない。
翡翠の響きは彼に力を与え、風の謡声は彼を癒し、そして、彼が守りたいと望んだ者たちは彼を支える。
エイルに孤独は似合わないと、ウェンズは言った。
エイルは自分で乗り越えると、オルエンは言った。
それらの言葉は青年には届いていなかった。それでも、いつか、思いは届く。
彼は、力を得た。それとも、以前から手にしていた。
守りたいものを守りたいと思う、それが彼の翼を動かすことには、ずっと前から変わりない。
「エイル」
じいっと黙って主を見ていたラニタリスが、エイルの用事が済んだと見て取って声を発する。エイルはそちらに目をやった。
「誰」
「ん? ああ、ウェンズだよ。俺はあいつの声をずっと無視してたのに、わざわざ」
「そうじゃなくて」
子供はじっと彼を見たままで続けた。
「レイジュって、誰」
何とも気に入らなさそうな声音に、エイルは「生涯の恋人」発言を思い出してむせた。
「いや別にその何だ、ええと、あれだ。ほら、友だちだよ」
「何で、慌てるの」
ラニタリスはエイルのもとにぱたぱたと走り寄ってくると、ひしっと上衣を掴む。
「いや、慌ててなんか」
もごもごと青年は言った。
「エイル」
「何だよ」
「今度、会わせてね。オトモダチ」
まるで恋人の浮気でも追及する口調である。エイルは言葉を失ってうなり、〈塔〉はこらえていたらしい大笑いをした。
「笑うな、〈塔〉っ。それに、ラニっ。俺はなあ、お前にそんなふうに言われて焦る筋合いは」
「ないって言うのね?」
子供は不満顔をしたあとで文句を言うかと思いきや、首を振ってこう言った。
「ふうん、いいわ。そう思ってれば?」
そうして、どこか不敵ににやりとする。
「いまに、見てなさい」
青年はその発言と覚えさせたくなかった笑い方に口を開けて絶句し、〈塔〉はやはり笑った。
「風謡いの首飾り」
―了―




