02 ソーン・クラス青年
「それで、俺に用があると言うのは?」
ソーンはエイルの向かいに腰掛けると、彼のために用意された茶の器を手にした。
「そう。例の、ここへくるきっかけになった事件の話」
「あれか。あれなら、話しただろう」
「そうなんだけど、ちょっと最近、似た話に行き合ってさ。確認したいことがあるんだ。悪いけどまた聞かせてくれないか」
「判った」
ソーンはうなずくと、どうはじめようかというように少し間を置いた。
それは、ソーン・クラス青年がウェレスの宮廷で近衛兵をしていたときのことであった。
ウェレス王子トラザが、妻子ある身にも関わらず、どこだかの女に夢中であるという噂が立った。
これは、もちろん、言うまでもなく、たいへんよろしくない。平民の家庭であっても問題になるが、ましてや、王家である。
王はすぐにその醜聞の真偽を調べさせたが、王子には街や宮殿の外に通う女がいるでもなく、かといって宮殿内の、たとえば侍女などが相手だというのでもなかった。
それではいったいどこの女だ、そもそもどこからそのような噂が立ったのだ、とそう言う方向から調査を進めてみれば、困ったことになった。密偵の行方が知れなくなったのである。
ようやく見つけられた密偵は、生きてはいたがほとんど正気を失っており、調査は魔術師協会の手を借りて進んだ。そこに魔物の影が見つけられた日と、ソーン・クラスが王子の警護に当たっていた日は同じ日だった。
「そう、魔物だ」
エイルは身を乗り出した。
「確か、その魔物は歌を歌うって、言ってたよな?」
歌を歌う魔物。最初にオルエンから砂漠の魔物ルファードの話を聞いたとき、どこかで聞いたような話だと思ったのだ。関連性は薄いかもしれないが、確認しておく必要がある。
「ああ、そうだ」
ソーンはうなずいた。
噂の出どころは、どうやらそれだった。毎晩のように、王子の寝室から女の歌声が聞こえると言うのである。
かと言って侍女や小姓が女の姿を目撃することもなく、それらは当初、怪談のような形ではじまっていたらしい。
だが、王子の寝室に歌を歌う女が出没するというのは、ある意味では紛れもない事実だった。女夢魔の一種と見なされるシャタルという化け物が、女の姿を取って王子を惑わしていたのだ。
それが魔物である、と聞かされたソーンは、王子に叱責を受けるのを覚悟で寝室に飛び込み、魔物を斬った。生身のように斬れるという確証があった訳でもなかったが、それ以外に彼にできることはなかった。
「斬れたんだから、よかったけどさ」
エイルは唇を曲げた。
「そう言うときは、魔術師でもつけろよ」
「肝に銘じる」
ソーンは真剣に言った。
「それで、その魔物は、本当に女だったのか?」
「何?」
ソーンはエイルの質問の意図を計りかねた。
「だから、女ではなく、魔物だが」
「ああ、そうだよな、俺が聞こうとしたのはそうじゃなくて、見たとこ、人間の女だったのか?」
「まあ、そうだな」
ソーンは軽く咳払いをした。全裸の美しい女だった、とでも言うところだろう。
「歌は、お前にも聞こえたのか。どんな歌だった」
「美しかったが、禍々しくもあった」
元近衛兵は顔をしかめると首を振った。
「そして、あからさまなほどに、何というか、その」
「性的で卑猥だった?」
「まあ、そうだ」
下町育ちの青年としてはだいぶやわらかく言ったのだが、よい生まれの青年は少し顔を赤くして答えた。
「ふん」
エイルは考えた。
「斬った魔物はどうなったんだ。遺体みたいなもんは残ったのか、消えたのか」
「残った。少し前まで美しいと言える姿をしていたなんて、とても信じられないくらい醜いものになった。まるで、蛙と、伝説に言われる象を混ぜ込んだような」
ソーンは唇を歪めて首を振った。エイルには、それがどういうものなのかちょっと想像がつかなかったが、とにかく直視したいとは思わないようなものなのだろうと考えるにとどめた。あまり具体的に想像はしたくない。
「ふうん、シャタル、か。念のために聞くけど、魔物は何も持ってなかったよな」
「何も。薄もの一枚、なかったさ」
ソーンは首を振って言った。
「だよなあ。うーん、やっぱり俺が見たやつとは違うか」
「何を見た?」
ソーンは当然の疑問を返した。
「ちょっと、砂漠でね。歌を歌う魔物が出るって話を聞いて、見に行ったんだ」
「危ないだろう。何かの虜になったらどうする」
「まあ、正直なとこを言えばちょっとばかりやばかったが、無事だった」
エイルは肩をすくめ、ソーンは無茶をするなと言った。
自分の無茶など可愛いものだとエイルは思ったが、実際のところはどうであるのものか。〈隣人の目で自身を見る〉のは難しいもので、少なくともシーヴが聞けばきっぱり無茶だと言うだろう。
「結局のところ、砂漠の魔物が歌ってた訳じゃなくて、持ってた首飾りが鳴ってたんだ。俺は魔物よりもその首飾りについてちょっと調べたいと思ってんだけど、もしかしてソーンの斬った魔物と何か関係あるかなと思ったのさ。でも何も持ってなかったってことだし、俺が見たのは死体になったあと」
エイルは少し迷ってから、続けた。
「消えちまったしな」
子供の話は省略した。嘘をつくつもりではない。それに、大まかなところでは嘘ではないはずだ。
「あれは、何も持ってなどはいなかったな」
ソーンは思い出すようにしてから繰り返した。
「だろうなあ。まあ、そうだとは思ってたけど、念のために聞いておきたかったんだ、有難う」
エイルが礼を言うと、ソーンは少し眉をひそめた。
「魔物に、死体だって? 何か危険なことをしてるんじゃないだろうな」
「どうかな。ううん、そうでもないと思うけど」
エイルの曖昧な返答に、ソーンはまた、無茶はするなよ、と言った。
「もちろん俺だって心配だが、お前に何かあったら閣下が大騒ぎだ」
「それはやめろってば」
タルカスなどは半ば以上冗談でそういうことを言うが、ソーンが言うと本気に聞こえる。いや、本気なのだろう。
「ゆっくりしていけるのか?」
ソーンはそれ以上その話題を突き詰めず、そう問うた。
「あんまり」
エイルは言った。
「この茶だけ、もらってくよ」
「おいおい」
ソーンは呆れたように言う。
「そりゃないだろう。一日くらいはいろよ」
「そうもいかないんだ。いろいろ抱えてて」
エイルは肩をすくめた。
「忙しいって訳か。それなら仕方ないけど、せめて飯くらい」
飯と言われるとここの料理長であるディーグの手腕を思い出して空腹が刺激された。そう言えば、ろくでもない携帯食を朝飯に食ったあとは、串焼きを数本つまんだだけである。
「んじゃ、お言葉に甘えて」
エイルは心のなかでシーヴに謝罪すると――ひとりだけ充実した美味い飯を食うことと、もう少し友人を放っておくことに対して――茶杯を置いた。




