11 別の存在ではない
引き返せない道、自ら断った、または断たれた――と思っている――絆。
それらは痛く、エイルの胸を打つ。
変わらぬものへの安堵は同時に、いつかは変わり、消え得るのだという空虚な怖れを伴った。
だが、〈塔〉とラニタリス。
彼を主とするこの奇妙な存在たちは、ずっと彼の近くにいるだろう。少なくとも、彼が見限られるようなことをしなければ?
(建物と魔物だけがお仲間だってか)
(そんなの、翡翠を守ってどうとかより、数奇かもな)
そこで青年は、しかしやはり、笑った。
彼は忘れないだろう。
いかな脅迫者であったとは言え、報復などという暗い動機でクエティスの命を奪ったこと。そして、戦わねば命が危うかったとは言え、自分のものを渡したくないという衝動的な感情でイーファーを殺したこと。それらはエイルの内に残る。
人を死に至らしめるだけの力があること。あると知ること。それを行使すること。それらは全く異なる段階だ。
彼は自らの力を知り、その境界線をもっとはっきり意識しておくべきだったのかもしれない。
少なくとも、クエティスに関しては、そうだ。
あれは彼の魔力であった。彼は自分が力を振るえば、ああすることができると知っていた。魔力のない者が刃を振るえば他者を傷つけられるのと同じように。
そう、同じように、「やらないこと」「やろうとしたが、やめること」もできた。だが、彼はそうしなかった。
後悔はない。それとも、ある。彼はどちらとも決められなかったが、たぶん、決めなくてもいいのだろうと、そんなふうに思った。
イーファーに関しては、何をしたのか自分でも判らないほど。行ったあとで、いまの彼には簡単に「そう」できるのだと知った。
女王が彼に寄越した力は未知数だ。
それはラニタリスの力が未知数であることに似ていただろうか。
まるで相似形。命令する者と従う者の、何とも不思議な絡まり。
首飾りの司、ラニタリス。その主、エイル。そして更にその主、であろうか?――〈翡翠の女王〉。
何と奇妙な構図、おかしな均衡か!
選んだのは自分だと思い、だがもしかしたら女王なのかとも、思う。
自分の選択は、いつまで自分だけのものだったのだろう? そんな疑念を思い浮かべる。答えは、出ない。
まだ。
『――サラニタは、あなたが探すものに通じる』
その代わりと言おうか、彼の内に不意に蘇ったのは、砂漠の民ラスルを治める長の言葉だった。何も探していないと答えた彼に対し、長の言葉は「これから探すことになる」と続いた。
彼の探すもの。それは、彼の道をともに歩けるもの、であっただろうか。
欲しいなら、それをお前のものにせよ。あれはいったい、誰の言葉であったのか。
〈魔精霊もどき〉ではない。そのなかにいた魔物の子供でも。
これまでエイルは、呪いが形を取ったような言葉であろうと考えていた。邪な欲望をかき立てて人々を相争わせようとする、〈黒の左手〉の声。
だが呪いをかけたトルーヴにそのような意図はなかった。そのはずだ。
それでも、もしかするとあれはトルーヴの声だったのかもしれない。そんなふうに感じはじめていた。
あれは誘惑の歌ではなく、提言、或いは勧告だったのではないか。
欲するならば、かりそめに弄ぶのではなく、確実に所有せよ。
力を求めるならば、一分の隙もなく自らのものとすることでそれを振るい、そして守り抜け。
だとすればそれはトルーヴからオルエンを越え、エイルに届いた伝言。
エイルはラニタリスを見た。この存在を守ろうと思う彼の心は、いったい何より生まれ出でるものか。
庇護欲。所有欲。支配欲。それとも、〈魔物の誠実〉を持つ娘の力。或いは、その力に対抗する、エイル自身にある守りの力。
そうでなければ、魔術を学び、理を知り、加えて神秘なものに近しくなった彼自身が宿す力への責任。
いずれ彼は知る。
彼が持つもの。持つ力。いまのエイルが想像をし、考えているものとは異なる定めの数々。
オルエンが推測した「防波堤」の役割。ファドックがシュアラとアーレイドを守ろうとし、ゼレットが城の者たちとカーディルを守ろうとする、それに似ていながらどこか違う。
それは、より大いなる守り手の位置。
女王が彼にそれを求めているなどと言われれば、エイルは逆らえぬと思い、口をつぐむのだろうか。それとも、魔術師たることを否定したように、冗談ではない、お断りだと叫ぶだろうか。
だがいずれ、気づくであろう。
オルエンは「宿題」の答えを求めるのではなく、エイルが何を選び、答えをどのように導き出すのか、それを見ようとしていたのだと気づいたように。
〈翡翠の女王〉は下僕を求めるのではなく、エイルが何を選び、何をどのように守ろうとしていくのか、それをこそ見ようとしているのだと。
クラーナはかつて自らを「女王の下僕」と言い、エイルは彼を「女王の使者」と考えた。それと同じこと。
女王はクラーナを使ったが、クラーナは自身の意志でそれに応じ、果たすべき役割を果たした。エイルもまた、エイル自身の意思で、物事を選び取っていくことができる。
だが彼がそのことに気づくのは、まだ先のこと。
オルエンは、クラーナとのやりとりのなかでそれを指摘していた。エイルは急激に上昇をした、その高みに目を回している――怖れていると。
それでも、いずれ知る。その翼の力。風に逆らうことも、風に乗ることも、彼は学ぶ。力を与えた女王は、力によって彼が変わることを望んではいない。
不可思議な翡翠の宮殿、その使者。守りの石を加護とする、砂漠の術師。
それらは別の存在ではない。エイルとエイラが別の存在ではないと、彼の友が考えたように。
彼は負うべきものを負う。「望んだのではない」と忌避することなく。負うことを怖れないように。躊躇わないように。
これは、エイルの出した「強く在ること」への結論だったかもしれない。
「どしたの、エイル?」
じっと前を――それとも遠くを見ながら考え込むようにしていた主に、ラニタリスは遠慮がちに声をかけた。
「いや」
彼は子供の髪をくしゃりと撫でるようにした。
音色が聞こえる。それは大地と風の調べ。
いつか、あの美しい草原に安らう日はやってくるだろうか。くるかもしれない。こないかも。
どちらにしても、それが判るのは、まだ当分、先だろう。
「一緒だな」
その言葉にラニタリスは実に嬉しそうに笑う。まるで無邪気に。
「板についたな」
「何がだよ」
感心したような〈塔〉の声にエイルは片眉を上げた。
「父親ぶりだ」
「阿呆かっ」
エイルは怒鳴る。
「何度言わせるんだ。俺は魔物のガキなんざ要らんっ」
「はいはいはい、それじゃ」
ラニタリスは勢いよく挙手をした。
「ショウガイの、コイビトっ」
どこで覚えた言葉だか、ラニタリスは目を輝かせて言い、エイルはそれにぶっと吹き出した。〈塔〉も滅多に聞かれぬ大笑いを披露する。ラニタリスは少し不満そうな顔をした。
「ときに、エイルよ」
どうにか笑いを納めて――実に珍しい――〈塔〉が言った。
「書がきたぞ。アーレイドからだ」
「ん?」
エイルは目をしばたたいた。
「書だって? んなの、だってシーヴには会ってきたばっか」
「では別の人物からではないのか」
〈塔〉の推測ももっともだが、これまで誰もそんな形でここに手紙を送ってきた者はほかにいない。首をひねりながら、エイルはその中身と差し出し人を知るべく、台所を出ると石の階段を上がった。
空気のひんやりとした少し暗めの部屋で、一通の封書が彼を待つ。
それは、シーヴが送ってきたものと同じように、魔封書ではない普通の手紙のようだ。エイルはそれを手に取って、さっと裏を返した。そこに、署名はあった。
「意外だな」
目を見開いて、思わず彼は呟いた。少し癖のある斜めがかった文字は、間違いなくヒサラ・ウェンズと綴られていた。
「ウェンズが、手紙」
用事があれば声をかけてくればいいだけのことなのに――と思ってエイルは苦笑した。それをずっと無視していたのは、どこのどいつだと?
「悪かったかなあ」
言いながら、封を切る。
ウェンズは自分より頭もいいし応用力もあると思っているが、それでもアーレイド城に慣れているのはウェンズよりもエイルである。何か相談でもあったのかもしれない。魔術師が魔術師に手紙まで送るのであれば、余程知らせたいこと、または訊きたいことでもあるのだろうと考えた。




