10 またいずれ会うさ
ギーセス・タジャスはエイルを知らない。「首飾りはとある魔術師が持っている」とだけ知っているはずだ。謎の魔術師からの伝言、というのは不気味だろうか。
いや、と彼は思った。
ゼレットの友は、それを喜ぶだろう。
その名を心に浮かべれば酷い痛みがついてきた。これでよいのだと思ったのに、それでも痛い。
だが首を振った。ゼレットは――エイルを知っていたゼレットは、彼の言葉でエイルが哀しむことを望まないだろう。そんなふうに思った。思うことができた。
彼は知らぬ。
ゼレットがエイルのためにこそ、彼を傷つける選択をしたこと。
かつてエイルは、〈変異〉の年が終わればゼレットは自分に興味をなくすと考えた。だが、年を越しても変わらずにゼレットは彼に関わることを望んだ。そんなふうにエイルの予測を外した男が、やはりいまでも、彼の予測の外にいること。
〈翡翠の女王〉は彼女の翡翠が繋げた彼らの絆を断ち切らず、それをエイルの目から隠しているだけだということ。
「タジャスってのはさ」
もちろん、エイルは知らぬことを考えることはない。ただ、言葉を続けた。
「呪いを得た地って意味では、首飾りには縁起悪いかもしんないけど、あんなことさえなければ首飾りはあの小さな町にあったはずだよな。どうやってそこに行ったのかは判らないし、いつまでもあったってことも、ないかもしれない。でも少なくとも一足跳びに大砂漠、それも魔物の首を飾るなんてことにはならなかっただろうなあ」
一足跳びの成長と、思いがけぬ運命。自身になぞらえてエイルは苦笑をした。
「まあ、それこそが首飾りの運命ってやつだったのかね」
そう言ってから彼はラニタリスを見た。
「タジャスの男爵に話を知らせるのはよくないと、思うか?」
「いいんじゃなーい?」
風司と思われる子供は簡単に言った。
「それ、エイルのだもん。好きにしていいんだよ」
「俺の、か」
思い出す。自分のものだ、渡さないと、激烈に思ったあの瞬間。理不尽に奪われることへの腹立たしさに、力を行使した。
いま、あの強い所有欲はない。
思い出す。消えたはずの呪いを。
血の斑点は拭い去られ、それはもはや風に欲望を振りまかない。
だが、あのときの思いははじめて呪いの歌を聞いたときによく似ていた。
それをお前のものにせよ。
「ラニ、あんときさ」
「何なになーに?」
「いや、やっぱいいや」
エイルは手を振って言いやめた。答えは判りきっているようだからだ。
あのとき。イーファーの命令にせよ自分の意思にせよ、何か力を使ったか?
そのような問いには、意味がないだろう。
イーファーの命令――首飾りの力でエイルを眠らせろ――はできぬと言った、それが嘘でないならば。あれは首飾りの力ではなく、ラニタリス自身のそれ。エイルが生存本能と表現し、ラニタリスが「生きる」ために振るう力。
自らが生きるため、この場合、イーファーよりも優しい、言い換えれば都合のよい主を保つため、覚えたあの呪いに近い力でエイルの所有欲をかき立てなかったか?
子供は否と言うか、そうでなければ判らないと言うだろう。
それは子供の素直さでも無邪気さでも、ある程度になると覚えはじめる打算やごまかしですらない。
〈魔物の誠実〉という言葉がある。それは、決して有り得ぬこと、信じられないことのたとえ。
彼は「これ」を「所有」し、命じて好きに使うことができる。だがその彼でも、いや彼こそは、陥穽にもっとも気をつけなければならない。
非情である必要はない。だが、情は覚えるな。
それは誰の教えだったか。オルエンだったろうか。それとも、彼が自身で気づいた真理であろうか。
「ねえねえ、それで伝言、するの?」
「ん? ああ」
そのことを話していたのだったな、と思い返す。
「そうしよう」
無事に呪いは解けたのだと。首飾りは暗い歌を振りまくことなくなり、安らぎの音色を奏でるようになったのだと。
その事実は必ずしも安心、安全だけを意味しなかったが、エイルはまだそのことをはっきり把握できていなかった。
「腕輪は、どうしてるのかな」
代わりにラニタリスはそう呟いた。
「腕輪?」
一瞬、ぎくりとした。彼はそれを翡翠製の腕輪として、思い出したからだ。だがラニタリスが言うのは「風具」としてのそれだと気づく。
「俺には要らないもんだけど、クラーナも同じように考えたらしい。いまは誰の手元にあるのか」
吟遊詩人から協会を通して受けた伝言があった。それは首飾りの去就に関してではなく、腕輪のそれについてだ。
クラーナは「手放すときだと思った」という短い伝言だけを送ってきた。あの日の少しあとである。
そのときのエイルはそれに何らかの感情を覚えることができなくて、クラーナに連絡を取ろうと考えることも、誰に渡したのだろうかと想像することすらしなかった。
だが、麻痺したような感覚が拭われたいま、改めてクラーナの言葉に疑問が生じていた。
クラーナに魔力と言われるものはないのに、怖いくらいに正しい目とおそらくは彼自身でも把握していない予言に近い力を持つ。あの詩人が、エイルと共通の友人であるユファスに繋がる不思議な道具をいったい誰にならば託すだろうか?
「『目印』を手放してちまうなんてな。まあ、そのときを見誤るなって言ったのは俺だけども」
その「とき」だと詩人が思ったのならば、それでいい。それが誰でも。
〈風食み〉と言われる腕輪は彼の、それとも彼らの手に触れて去っていった。いずれは友のもとへ戻るのだろうか。それとも、違う〈風司〉を見つける?
(違う風司)
エイルはラニタリスを見た。
(ラニがその司とかでなくなりゃ、あの歌を操ることはなくなるのか。それとも、もう記憶して使い続けるんかな? 覚えた魔術みたいに)
(俺が操れれば問題はないけど)
(――俺が、操られなければ、な)
少し前までならば、どんよりとざらついた、どこか泥臭いような思いだけを呼び覚ましたであろう思考は、いまは皮肉めいた笑みを伴った。
それは、自身を斜に見て自嘲することに似ていたかもしれないが、いつだったかスライが指摘した「すっと一歩を引いて大局を見る」姿勢にも似ていた。
「まあ、クラーナと連絡は取れないけど、いまは強いて探し出す理由もないし」
いまの自分を見られたくないという思いもあるにはある。だが、言い訳ではなく本当に「大して理由がない」とも思った。彼は彼の、詩人は詩人の道を行くのだ。
クラーナが託されたオルエンの伝言は、エイルに届いていない。いつか彼が首飾りを手放そうと考えた日、クラーナに話を聞くことがあれば届くかもしれない、伝言。
もしそれを聞いたなら、彼はオルエンの「感傷」を尊重して「よい思い出のない家」にそれを返そうと思うか、否か。
未来は、まだ遠い。
「またいずれ会うさ」
彼はただ、そう言った。
いずれ、会う日もあるだろう。
定めが許せば。
「そうだよな。いくら女王陛下だって神様とは違う」
たぶん、と内心でつけ加える。
「俺はさ、嫌だと思っても、命令には従うことになるんだろう。でも、俺の意見を持ってたっていいよな」
誰にともなく呟いたエイルはその台詞に既視感を覚え、どこで誰が発した台詞だったか思い出すと、ぶっと吹き出した。
(メイレイにはシタガウけど、どうしたいかって言うくらい、いいでしょ)
それは、主エイルに対するラニタリスの口答えである!
(女王の使者、のがまだ聞こえはいいよな)
(使い魔、よりさ!)
彼は何だか、そのことをとても可笑しく思った。
皮肉、もあろう。だが、自嘲ではなかった。
単純に、「何だか可笑しい」。そんなふうに思っていた。
「だいじょぶ、エイル?……咳き込むくらい何かおもしろい?」
「何でもない」
知らず馬鹿笑いに近いものをしていたエイルは、どうにかそれを納めて真面目な顔を作ってみた。
「主でも下僕でも、やっぱ駆け出しで弱輩だよな俺は」
「ふむ、〈人生とは常に登り坂〉という訳だな」
重々しく〈塔〉は言い、エイルは天を仰ぐ。
「お前に諭されたか、ない」
「建物」を馬鹿にするような台詞に〈塔〉は不満そうな声を出し、エイルは謝罪の仕草をした。




