09 七つの姿持ちし
「いっこ、気になってることがあんだよな」
エイルはゆっくり口を開くと、右手に木の杯を持ったままで指を一本立てた。
「何だ」
沈黙を保ち続けなかった主に建物は安堵したとしても――声の調子にそれは表れなかった。
「俺さ。年、取んないのかな。クラーナがそうだったみたく」
オルエンの話から〈塔〉がだいたいの推測をつけることは可能であった。そしてエイルの口にした疑問は、〈塔〉に主の選んだものをほぼ確信させたかもしれなかった。
「それは」
〈塔〉はゆっくりと言った。
「十年ほどもすれば、判るのではないか」
「他人事だと思って気軽に言ってくれる」
「何と」
顔をしかめた主に、できることならば〈塔〉も顔をしかめ返しただろう。
「エイルよ、私の思うところを告げよう。もしそうであれば、お前はオルエン並みに長い時間、我が主でいる訳だ」
建物は淡々と言った。
「そうであれば、私は嬉しいのだが」
「……そりゃ、俺はどう反応したらいいんだ?」
礼を言うのもおかしい気がして、エイルは呟いた。
「あたしも!」
ラニタリスが元気よくぱたぱたと羽ばたいた。
「あたしもずっとエイルといるもん! 〈塔〉になんか負けないんだから」
勝負を競ってどうするのかと思いつつ、エイルは苦笑を浮かべる。
「ずっと一緒」
言うと鳥は椅子の背から飛び、エイルの隣で子供の姿を取った。
「あたしが長いことおとなでいる間、エイルも一緒。ね?」
にこっと満足そうに言うラニタリスに、エイルは瞬きをしながら思い出していた。
いつだったかの、〈塔〉の言葉。
『魔物の寿命は、二百年から三百年』
『言っておくが、最低でもだぞ』
「……あんま、ぞっとしない……」
「あっ、ひどーい」
「いや、お前がどうとかじゃなくて」
言い訳をしながら青年は、しかし笑った。
「まあ、こんなの馬鹿みたいな杞憂かもしんないしな。十年もすりゃ、笑い話」
どちらが笑い話となるものか。年を取らぬかと案じたこと、それとも、そのような影響などないと期待したこと?
「まあ、いいや」
青年はそれでも、笑った。
「クラーナの後輩にしてオルエンの弟子じゃ、仕方ないかもなあ」
不意に、子供が青年にしがみつく。
「何だよ?」
「こうすると安心するんだもん」
幼子がやるようにそうして彼を見上げ、笑んだその顔は、しかし彼がこれまで見たなかでいちばんおとなびて、見えた。エイルは一瞬、そこに十七、八の娘の姿を見たような気がして、瞬きをする。
もちろん、それは気のせいだ。
ラニタリスは、まだ十歳にならぬ程度の、子供の姿である。
「何か、悪かったなあ、しばらくかまってやらなくて」
見えたものをただの気のせいと片づけて――予見、などと考えることはやめておいた――青年は言う。ラニタリスは鼻を鳴らした。
「コドモじゃないのよ、エイルがひとりでいたいときは、あたしだって〈塔〉だって静かにしてらるるんだから」
「していられる」
どうにも間違って覚えているようだ、とエイルは正した。
「それにしてもしばらくの間、どうしてたんだ? 砂漠の散歩ばっかじゃ飽きるだろ」
「アキナイよ。風が吹くと見た目がすごく変わっちゃうの、面白いし」
ラニタリスはエイルから手を放した。
「砂漠だけ飛んでた訳でもないよ」
「またランティムにでも?」
「行ったよ」
あっけらかんと子供は言った。
「それから、エディスンとかも」
「エディスン? 何でまた」
思いがけない地名にエイルは首を傾げた。
「見てきたの。面白かった」
「そうか? 大きい街だけど、空から見ても別に面白いことないだろ」
「面白かったよ。また行く。楽しみ」
そう言って笑った子供は、あくまでも無邪気に見えた。
だがこれは魔物だ。エイルはそれを知っている。
もし――。
オルエンは、もしエイルがあの日、死する魔物と出会わなければどうなったか、起きなかった未来の可能性を語った。
西に出回ったら。砂漠の民たちの間に争いが起きたら。
だが老魔術師は言わなかった。
生まれた子供が邪に育ち、首飾りの不思議な力を自由にしていたら――。
エディスン。
かの街には〈風読み〉の司がいる。ティルド少年は〈風神祭〉の日にそうとは知らぬまま、ラニタリスに、いや〈風謡いの首飾り〉に向けて「その力を眠らせろ」と指示してきたことがあった。
ならば、ティルドにはできるのか。魔鳥に属する不思議な首飾りの力を眠らせること。そうすれば、首飾りは鳴らなくなるのか。
呪いが消え、「風具」とやらの力がなくなれば、それはただの美しい装飾品。
あのとき、ラニタリスは力を眠らせることを拒絶した。「あたしの」だと言って。だが子供は認めている、ラニタリスのものはエイルのものであると。
そうあれば、彼には命じることができるはずだ。ティルドに逆らわず、その力を失わせるようにと。
エイルはじっとラニタリスを見た。子供はやはり無邪気に、エイルに微笑み返す。
「サラニタ。イフル」
子供は、ぴくりとした。
「……いいや、やっぱ、ラニタリス、だよな」
エイルが呟くように言えば、ラニタリスは安心したように見えた。
「あれ、どうすっかな」
「あれ?」
「首飾りだよ」
エイルは、それを収めてある箱が置かれる部屋の方に視線を向けた。
「鳴らないようにさせることもできるんじゃないかとは思うんだが」
「どうやって?」
「さあ。俺がやる訳じゃないから」
「そんなの、駄目」
不満そうにラニタリスは言った。
「やるんなら、エイルがやって。そうじゃなきゃ、イヤ」
子供は何の理屈にもならない台詞を吐いた。エイルは瞬きをし、それから苦笑をする。
「主の責任ってか?」
「そそ」
得たりとばかりに子供はにこっとした。
「まあ、それも一理ってとこか」
彼自身でなければ駄目だ。
風司の王に頼るのではなく、主たるエイルの意志でラニタリスにその力を使わせないこと、または使わせることができなくては。
「まあ、呪いのなくなったいま、あの音色は安眠にゃ便利だしなあ」
魔鳥の主はそんなふうに言った。魔物は大いにうなずく。
「でしょ、でしょ?」
「ただし!」
エイルは指を一本立てた。
「俺以外には、使うなよ。鳴らしていいのは、許可したときだけ。もちろん、俺に対しても」
「はあーい!」
子供は伸び上がらんばかりに手を上げて返事をした。
エイルは、知らない。いまや三つの名を持った砂漠の娘がエディスンで誰と会い、どんな言葉を交わしてきたのか。
ラニタリスはそれをエイルに告げぬだろう。エイルを騙そうというのではない。ティルドを誘惑するに似た、あれを行ったのはラニタリスではなくサラニタであるからだ。
子供を神秘の花イフルと呼び、隠されていた魔物の力を顕現させた呪術師は死した。だがイーファーは、魔鳥に術をかけた訳ではない。よって、目覚めたものが消えることはない。
エイルは知らない。
これは魔物だと自らに幾度も戒め、決して忘れないにしても。
知らないのだ。彼を慕うラニタリス以外の姿を。
七つの花弁持ちし砂漠の花。七つの姿持ちし砂神の娘。
いつかは、知るだろう。「イフル」の名がどれほど強きものであったかを。
しかしいまは、エイルがそこに見るのは、蒲公英。魔物も、演じてなどはいない。ただ、在るように在ろうとするだけ。
「あとは……保管しとくかどうかだよな」
ラニタリスだけを見る青年は、呟くようにそう言った。
「どっか、やっちゃうの?」
「どうやら、ここに置いとこうと置いとくまいと、お前はあれを好きに取り出せるんだろ」
それは、少なくともアーレイドの友人ユファスにはない特質のようだったから、「風司」に共通するものとも思えない。だが少なくともラニタリスは自由にしているようだった。
「たぶん」
子供は曖昧に答える。
「呪いはなくなったみたいだけど、どっかにやる訳にもいかないか」
「もしかして、売って生活費の足しにするつもりだったとか?」
「あのなあ」
子供らしくない物言いにエイルは眉をひそめた。
「そりゃ、確かに俺はいま、給金のない暮らしだけどな。魔術薬の販売許可証は持ってるし、生活に困るってことはないだろうよ」
シーヴには協会で仕事をするようなことを口にしたものの、以前よりも協会は出向きたくない場所になっている。それとも、以前のように、かもしれないが。
「俺は手放せないけど、伝言は、送るかな」
「どこに?」
「首飾りがあったとこ」
彼は呟くようにした。
「何とかっておうちに?」
「ラギータ家のことか?……いいや」
青年は首を振る。
「あの家には、俺は寄れないよ。関係する人間をふたりも殺した」
言って弔いの仕草をし、苦笑した。
「自分でやっといて、これもないけどなあ」
やる人間によってはそれはたいそうな皮肉、冷徹な仕草となったが、シーヴが見れば思っただろう。――それでも戻ってきている、と。
躊躇い、迷い、矛盾、後悔。
それらはエイルという青年が持つ特質でもあった。長所とは言えず、当人には悩みの種であっても、必ずしも欠点とはならぬもの。
「俺としちゃ正直、俺はあの家にいい思い出もない」
エイルは先の話に戻した。
「ラギータ家とは違う『あったとこ』だ」
エイルはそちらの方にだいたいの予測をつけて顔を向けた。
「俺はタジャスの男爵と会ってないけどさ、首飾りの伝承を気にしているらしい。呪いが解けたってな話は、伝えたいなと思ったんだ」




