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風謡いの首飾り  作者: 一枝 唯
終章 vol.3/3

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08 聞こえるんだ

 大砂漠(ロン・ディバルン)に吹く風は、熱く喉と肌を灼いた。

「クソ」

 石造りの建物を目の前に、エイルは知らず、罵るような言葉を呟いた。

『戻ってこないのかと言ってる』

 まっすぐに投げられた言葉。事情を何も知らぬのに、シーヴは的を外さない。時折は羨ましくて、時折は腹立たしいその態度。

 いまは?

 少なくとも腹は立っていないようだ、と彼は思った。言うなれば、少しだけ、悔しいだろうか。

 こうしてエイルが立てば、砂地は足もとが覚束ない。それをしっかりと踏みしめている友への、これは「負けられない」という思い。

 友。

 もう、友人ではないと思った。いや、シーヴの方ではもう彼を友人と考えてはいないだろうと、そんなふうに思っていたのに。

 では、変わらないものもあったのだ。

 たとえ、シーヴの内に「エイラ」が深く存在したとしても、彼はやはり「エイル」を友としてくれている。

 エイルはエイルだと。変わらずそう言ってくれる。

 それは、「ではいずれは変わるやもしれぬ」という漠然とした不安を伴う考えでもあった。だがエイルは首を振る。いずれ変わったとしても、そのときは――そのときだ。

 エイルは、さっと顔を上げた。

 熱を持った砂地を少しだけ歩くと、青年は石でできた建物の重い扉を開ける。ラニタリスがぱたぱたと飛び込み、エイルもまた、灼熱の陽射しから逃れて塔のなかに入った。

「お帰り、主よ」

「ただいま」

 彼は何の気もなく言ったが、それは久しぶりに交わされた「ごく普通のやりとり」だった。可能であるならば〈塔〉は片眉を上げて驚き、或いは安堵を示したろう。

「本当にオルエン、もうこない気なのかな」

 ふと彼はそんなことを言った。

「いつくるかと気を揉むより、こないと判ってるならそれでいいけどさ。……ちょっと卑怯だよな、人が寝てる間にさ」

「済まぬ」

 〈塔〉は謝罪をした。

「彼の望みを尊重してしまった」

「いいんだよ、それは」

 エイルは手を振って〈塔〉の謝罪を打ち消す。

「スライ師に、会おうかな」

 呟くように言いながら、彼は石の床を歩いた。

「高位の術師に見られたくないって思ったんだけど、基礎がなってないことは本当だし、それに、それがオルエンの」

 台所までやってきたそこで彼は言葉を切り、木製の器に伸ばしかけた手をとめた。

「……最後の指導だってんなら、従ってやっても」

 改めて器を取り、水瓶にそれを浸しながら、思い浮かんだのとは違う言葉を続ける。

 遺言(・・)などという不吉な言葉が浮かんだのは、何故だろう。

 ではあれは、彼に見せるためだったのか、などと思ってしまったのは何故だ?

 あのとき、オルエンが偽の首飾りに――そこそこ――本気の術をかけたのは、エイルにその技の印象を深く刻みつけるためだったのではないか、などと。

 あのときには、オルエンはもう去ることを考えていたのか。助力助力と、らしくなくも言い続けたのは、そのためと?

 弟子の肩に師匠が残していった上質の黒ローブ。それはまるで、形見であるかの、ように。

 村いちばんのひねくれ者が突然正直になって善行を為し、突然の死を遂げる〈善きカント〉の物語を思い出したエイルは、ふるふると首を振った。

「騙されねえぞ、俺は」

 彼はそう言うと水を縁まで満杯にした器を取り上げた。

「そうだろ? だって、オルエンは『ここにはもうこない』って言っただけだ。二度と俺の前に現れないとは、言ってない」

「……そうだな」

 やはり寂しいのだろう、と〈塔〉が思ったとしても、そうは言わなかった。

「確かに、そうは言っていない」

 代わりに建物はそう確約した。

「やっぱり」

 エイルは指を鳴らした。左手の杯から水がこぼれた。

「騙されねえぞ。……俺は」

 青年は一息に器の中身を飲み干し、また水を汲んだ。

 水瓶にかけられたオルエンの魔法が途絶える日など、くるはずがないと言うように。

「私は」

 不意に〈塔〉は哀しげに言った。

「前の主からも、いまの主からも、事情というものをろくに聞かせてもらえぬのだな」

「あー」

 エイルは頭をかいた。

「オルエンのことには責任持てないけどさ、俺の方は、その、悪かったよ」

 〈塔〉に全く愛想のない態度をとり続けていた自身に気づくと、エイルは謝った。

「事情についてはさ。もう少し、俺自身が把握できたら説明する」

「無理にせずともよい」

「拗ねるなよ、するって」

「拗ねてなどはおらぬ。お前は主なのだから、私の愚痴などに翻弄されず、お前の意志で話したいことを話せばよい。そう言う意味だ」

「愚痴ねえ」

 エイルは苦笑した。

「俺にはどうにも、要求に聞こえるんだけども」

「気のせいだ」

 〈塔〉は平然と言ってから、ふと思い出したようにつけ加えた。

「――お帰り、主よ」

「ん? ああ」

 その挨拶の時間差にエイルは少し首をひねってから、隠された意味に気づいた。

 ぼんやりと、たゆたい続けていた空間から帰ってきたと。〈塔〉はそう言った。

 エイルの運命がどのようなものになったのだとしても、あの日から浮いたままだった足をようやくこの塔の床につけたと、〈塔〉はそう言ったのだ。

「俺はさ」

 木の杯を右手に持ち替え、濡れた左手をぶんぶんと振って水気を飛ばしたあと、彼は椅子を引いて座り込んだ。

「何つうか、これはもう、しょうがねえと思うことにした」

 その説明は〈塔〉には全く意味の通じないことであったが、建物は黙っていた。

「きっついこともある。すげえ、胸の痛いことも。でも、俺が決めたんだ。後悔は……しても、いいらしいけど」

 エイルは口の端を上げた。

「聞こえるんだ」

 そう呟くと、エイルは沈黙をした。〈塔〉も黙ったまま。じっと主と建物のやり取りを聞いていた鳥はぱたぱたと、向かいの椅子の背にとまった。

 声が聞こえる。

 あのとき、彼自身を「売り渡した」あの瞬間から、低い耳鳴りのように声が聞こえ続けている。

 言葉にはならない、それはまるで夢のなかのように遠い歌。

 それは心地よい子守り歌のようでもあった。

 まるで首飾りの音色。似ていながらも異なるそれらは、重なるように謡った。

 安らうことへの不安や抵抗はない。いや、この調べを彼は以前から知っていた。その宮殿のなかで、穏やかに身をたゆたわせていたことがある。

 翡翠(ヴィエル)

 二年、それともそろそろ三年になろうか。

 下町の少年を城に連れ、その〈守護者〉と出会わせ、〈鍵〉と邂逅させて旅路に向かわせた、もの(・・)

 狂った歯車に惑うた彼をもうひとりの〈守護者〉のもとへ運び、〈鍵〉には使者をつけて宮殿へと導いた。

 終わったはずの、リ・ガンの輪。いや、確かにそれは終わっている。次の〈変異〉の年はまだ遠い。

 不思議な首飾りを巡る一連の出来事が〈女王〉の気を引いていないことは賭けてもよかった。翡翠製の腕輪は少しくらい目にとまったやもしれないが、〈女王〉が守り、その行く末を気にかける(ぎょく)はビナレスに三つだけだ。

 だから、あの腕輪がエイルの手を通ってクラーナのもとへ行ったことは、特別に女王の意志と関わらない――。

 ふとエイルははっとなった。

 いつであったか考えた、彼の手に触れては去ってゆく翡翠たちのこと。

 それなのか(・・・・・)、と思った。〈女王〉が彼に手を貸す理由。

 翡翠はもはや彼を呼ばぬが、彼は翡翠を呼べるのだ。

 名をつける訳ではなくとも、それはラニタリスを縛った経緯に似た。

 彼は翡翠の声を聞く。彼の呼びかけに答えるそれを。

 まるでラニタリスを馴らすかのように、石を馴らす。

 おかしな考え方だ。石は石。〈塔〉だけは別として、言葉を話すようなことはない。

 けれど、翡翠はエイルに寄ってくる。いつか彼自身が言ったように「仲良くしてほしい」とばかりに。

 女王が彼に求めるもの。それは、かつて狂った歯車を戻すクラーナの役割に似た。狂うことを防ぐ、言うなれば見張り。

 オルエンが「防波堤」との表現をしたことをエイルは知らないが、それに近いものを心に思い浮かべた。

 「翡翠と相性がいい」のは、かつての名残りなのか、それともだからこそ彼であったのか。〈木々が種を落とすのか、種が木々に育つのか〉どちらであるものか。

 魔除けの石を頼みとする、稀な術師。

 それは彼の「種」か「木々」か。

 翡翠の女王が、いつエイルのその性質を知ったものはか判らない。定めの輪の最初から、かの存在には知れていたことであるのかもしれない。

 それを自らのためになるようにと、女王が手ぐすね引いていたかどうか、それもまた判らない。そうではないような気がする。ああいった存在は、自らの利益のために細工をするようなことはないものだ。

 ただ、女王はエイルの輪がどう廻っているかを知り、必要なときに手を出した。彼が望んだときに、手を貸した。

 理は違っても。

 在るべきように、在るように。

 ではこれが、在るべき道だ。

 〈ドーレンの輪っか〉のように捻れても。

 〈コルファセットの大渦〉に巻き込まれたように翻弄されても。

 いや、そうではない。これが彼の、行くべき道。

 翡翠の力が彼を首飾りの呪いから守り、砂漠の民たち、或いは東国を混沌から救った。

 エイル自身は、そうとは思わない。気づかない。自身に宿る守りの力。愛する者たちを守りたいと奮闘した彼が、しかしそれよりも大きなものを守る力を持っている、こと。

 ずっと、歌が聞こえる。

 安らぎと、力を与える歌が。


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