05 みんな忙しいんだ
「名前は? 決めたのか?」
続けられた問いにシーヴは肩をすくめる。
「まだだ。男女も判らん。ひとつ考えるだけでも手間なのに、四つも用意できるか」
「四つ?」
判らないと眉をひそめるエイルにシーヴは指を折った。
「男ふたりの可能性と、女ふたりの可能性とあるだろうが」
「そんなの」
友人は笑った。
「男女どっちでもいいような名前を考えておいたらいいじゃないか」
「そりゃ、いい考えだな。助かる」
シーヴはかなり真剣に礼を言った。
「と言っても、どうせ最終的に決めるのはレ=ザラと、許可を出すのはヴォイドだろう。俺が考えたところで、おそらく不採用だ」
何の権威もない、とランティムの領主は肩をすくめた。
「おい」
エイルは不意に、胡乱そうな目つきで彼を見た。
「まさかとは思うが」
「何だ」
「娘だったら……何とかの娘と同じ名前なんか、つける気でいないだろうな」
その指摘にシーヴは思わずむせた。エイルの目がしばたたかれる。
「お前、やっぱり」
「やらんっ」
宣誓するように、シーヴは片手を上げた。
「確かに、一瞬たりとも思ったことがないとは、言わん。だが、やらん、絶対だ!」
続けて素早く、降参するようにもう片方の手をも上げる。エイルは疑わしそうな様子のままだ。
「じゃあ、ちゃんとほかのを用意しろよ」
「四つ、この場で考えろと?」
「いますぐこの場でとは言わないけどな。そんな名前使うような、馬鹿はやるなよ」
「決定権があるのはレ=ザラとヴォイドだと言ったろう。仮に俺が『エイラ』を候補にしたところで、それではまるで西の娘だと、すぐに却下されるさ」
「それはつまり」
エイルはやはり、じとんとシーヴを見る。
「そう、判断するくらいには、真剣に考えたことがあるってことだな」
「それは」
シーヴは詰まった。
「深いことは、気にするな」
その適当な返答にエイルは唸って、頭をかきむしって、それから、呟くように言った。
「……まあ、本当にそうしたいなら、別にいいけどさ」
「……いいのか?」
意外な言葉にシーヴは目を見開いた。
「〈翡翠の娘〉はもういないけど、お前のなかにはいるんだろ。娘の名前が『エイラ』だったら、お前は、思い出すかな。――たとえ、『エイル』のことを忘れてもさ」
「何を馬鹿なことを」
シーヴは眉をひそめた。
「俺はそんなに記憶力が悪くはないぞ」
「記憶力の問題でもないんだ。生憎と」
「何だって?」
「何でもない」
エイルはひらひらと手を振ったが、シーヴは聞き咎めた。
「そりゃ確かに、俺はお前の名前を思い出せないことがあった。だがかけられた魔術なんざ、お前に会った途端、きっちり跳ね返したろうが」
「――『エイラ』だろ、それはよ」
「どっちでも、同じだろうが」
シーヴは鼻を鳴らす。
「同じだ。そうだな、最初はな、正直に言えば『同じだ』とは納得できなかった。落胆したとは言わんが、正直、少しした」
「どっちだっ」
ほとんど反射的と言った様子でエイルは問い返し、そんな自身にまた戸惑ったようだった。ふとシーヴは、好機だと感じた。何故だかいつもと違うように見える友人をいつものように引き戻す、好機。
「ええい、聞け。最初だけだ。〈翡翠の娘〉はいまでも俺のなかにいるかもしれんが、エイル」
シーヴはぴっと友人を指した。
「お前のなかにも、いる」
「……いないよ」
困ったようにエイルは言った。シーヴは首を振る。
「いいや、いる。だから、俺は、万一また何かの術に惑わされるようなことがあっても、お前に会えば絶対に思い出す。絶対だ。覚えとけ」
「……それはつまり」
エイルは額に手を当てた。
「お前はやっぱり、俺に『エイラ』を見てたってことに」
「違う。判らん奴だな」
シーヴは苛々と言った。
「お前は、お前だろうが。その事実の前には姿形の差なんざ、卑小なもんだ。たとえ尻尾が二本あろうが、実は〈霧の妖怪〉ボンタットンだろうが、お前はお前だ。俺はそれを知ってる。少なくとも知ってるつもりでいる」
一息でそう言うとシーヴは間をおき、続けた。
「二年前は知らなかった。だが、いまでは知ってるつもりだ。もしかしたら、お前自身よりもな」
かつては、彼は「エイラ」だけを知っていた。だがそれから「エイル」を知った。それはふたつの名だが、ふたりの名ではないことも。
混濁した意識のなかでエイラを呼びとめたのは、翡翠の力に揺さぶられて〈変異〉の年の日々を強く思い出したシーヴだった。いまの彼は、性質の悪い冗談以外でエイルを違う名で呼ぶことはない。
エイラしか知らなかった彼と、いまの彼は違った。
〈変異〉の年の間、彼は確かにエイラという不思議な女に惹かれた。それが彼らをつなぐ神秘的な絆のためであれ、それ以外の何かのためであれ、その事実を否定はしない。
だが、いま彼の前にいるのは、エイルという友である。よく笑い、すぐ腹を立て、彼を手助け、彼に呆れ、彼のために厳しいことを言う、友だ。
その名はふたつでも、彼らはふたりではない。いや、「彼ら」ではない。「彼」だ。
エイル当人ですら混同しかけるその境界をシーヴははっきりと見極めていた。
「……知らない」
エイルは、呟くように言った。
「何?」
「お前は知らないよ、シーヴ」
エイルの言葉はシーヴの言葉を否定するものだったが、そこに拒絶の感じはない。シーヴが反応に迷う隙にエイルは続ける。
「お前は、俺に起きたことを知らない。なのに、俺を知ってると言う。それは、何だかものすごく」
言葉はそこで切れた。「腹が立つ」と続くものか「嬉しい」とでも続くものか、どちらとも取れた。
「俺、帰るよ」
不意に言ったエイルの表情は、先ほどまであった、霞がかったような雰囲気をなくしていた。
「砂漠に。〈塔〉のとこにさ。ちょっくら、アーレイドには『帰る』って言えなくなっちまってさ、きっついなと思ってたんだけど、お前と話したら何か、すっきりした」
シーヴは友人が本気でそう思っているのか、それとも儀礼的に口にしているだけなのか、見極めようとじっと黒い瞳を凝らす。
「アーレイドに……帰らないだと?」
彼はそこを問うた。
「言ったろ、筋を通す」
友人はそう答えた。
「それは、立派とも言えるが」
シーヴは納得できなかった。
「仕事を辞めたからと言って、アーレイド城に足を踏み入れちゃならん訳でもないだろう」
「それは、そうだけど」
エイルは迷うようだった。
「城の人たちはみんな忙しいんだ。無関係な人間になんか、かかずらってなんかいられないさ」
その返答はシーヴを驚かせた。と言っても、彼はその内容に驚いたのではない。
エイルは王女の名前も呼ばす、かつてシーヴを何度も苛つかせたようにファドック「様」とも言わず、ひと括りに「城の人たち」と言ったのだ。
まるで他人行儀に。
「では、それはそれとして」
またも不安にかられながら、シーヴは問うた。
「お前の母上は。アーレイドにおいでなのだろう。どうされた」
「母さんは、元気だよ。そりゃ、母ひとり子ひとりだし、忌々しいほどに元気でも息子として心配することもある。でもさ、あの人のためには俺はいない方がいいんだ」
「恋人、でも?」
夫を亡くした母親に対して息子が「自分はいない方がいい」と思う理由をシーヴはそう取った。だがエイルは笑って首を振る。
「作ってくれりゃ、俺はもっと安心だけどね」
彼はそんなことを言った。
「友だちが、いてさ。あんま頼りになると言える奴じゃないんだけど、少なくとも町憲兵で、母さんとも仲がいいんだ。俺がいなくても、母さんを訪れてくれてた。これからもそうしてくれると思う」
「何を言ってるんだ」
エイルの言葉が「もう母を訪れることはしない」と言っているように聞こえ、シーヴは眉をひそめた。
「俺だってたまにはシャムレイに行って母上にご挨拶するぞ」
父上や兄上の顔は見たくないが、とつけ加える。
「俺が故郷に旅する、その何百分の一もかからずに、お前は砂漠から西端へ行けるだろうに」




