02 逃げられると思うな
「どうしたんだ。ずいぶんと弱気じゃないか」
彼はそう続けた。
「お前が現れて動じるならむしろ、俺の方だろう。そんなふうにこっそり人の様子を窺っておいて、いまさら何をびびってる」
シーヴは気軽な口調でそんなことを言った。
何だか妙な気分だった。
あの日に言葉を投げつけられて以降、エイルと顔を合わせれば気まずい気分になるだろうと思っていた。ランティム領主としてどの方面からも後ろ指を指されぬようになれば、抱きたくないわだかまり、友人の目が見られぬような、そんな気に入らない感情を乗り越えることができるだろうと、そう思っていた。
まだ、その「理想」には程遠い。
自分はエイルに負けている。置いていかれている。そんなふうに感じていた。
だというのに――この感覚は何だろう?
エイルに追いつこうとしていたはずの彼が、何故いま、まるで崖淵に立つ友人に向けて、つかまるべき手を差し伸べているような気分になるのだろうか?
そこは危ないからと。
こっちに、戻ってこいと。
「どうして、ここにきちまったんだろうな」
西の魔術師は東国の王子に視線を合わせぬまま、そんなふうに言った。
「何だかさ。みんな、いなくなっちまう気がして。お前はどうかなって、思ったんだ」
「……何を馬鹿なこと、言ってる」
シーヴは驚きを隠しながら言った。
何を言っている? いったい、エイルに何があった?
「もし、レギスやタジャスでやったことを気に病んでいるんなら、それはそれでお前らしいとは思うが」
その台詞に、エイルの視線が上がった。薄茶の瞳が驚いたように見開かれている。
「何で……?」
「カル・ウェイという優秀な間諜がいる。あれは父上の手下だが、アルセントも素晴らしく飲み込みが早くてな」
「アルセント」
その名に、エイルの顔に笑みのようなものが浮かんだ。
「元気か、あいつ」
「ああ。畑違いの仕事に素早く慣れて……と」
シーヴは言葉をとめ、片眉を上げた。
「どうしてアルセントを気にかける? お前は、〈野狐の穴蔵〉亭から俺を連れ戻す『リャカラーダ担当』執務官アルセントしか知らないだろう?」
「それは」
エイルは目をしばたたいた。
「ちょっとだけ、話す機会があったんだ」
「……へえ」
初耳だ、とシーヴは思ったが、特に追及はしなかった。
「あいつはいま、俺のために動いてくれている。ランティム伯爵リャカラーダの臣下ではなく、俺の個人的な部下というところだ。少し前まで、思いもかけないことだったが」
「それだけ、お前には、あるんだよ。人を従わせる力。地位や権力で言うことを聞かせるんじゃない、お前に仕えたいと思わせる、何か」
エイルがそんなことを言うので、シーヴはこめかみのあたりをかいた。
「世辞を言っても、何も出ないぞ」
「本気だよ、砂漠の王子殿下」
「シーヴ」の友人に「王子」と呼ばれるのは彼の好むところではなかったが、このときのは気に入らないというよりも、どこか面映ゆいような気持ちになった。
「そうか。シーヴ、お前、知ってるのか。俺がふたりの人間を殺したこと」
エイルが淡々と言ったので、却ってシーヴはどきりとした。
「ああ」
だがそれを見せぬように、彼はごく普通に言った。
「知っている」
そのあとで少し迷って、シーヴはつけ加えた。
「つらかった……な」
エイルの薄茶の瞳がシーヴの黒い瞳と合った。そこに浮かぶのは、惑い? それとも、怖れ。
「――すまん」
シーヴの口から出たのは謝罪だった。エイルは首を振る。
「何でお前が謝るんだよ」
友人の顔が笑んだ。それは彼がよく知るものに近く、シーヴは少し安堵して――だがまだ違和感を覚えた。まるで、笑おうと判断して、笑っているような。
「エイル」
シーヴは友人の名を呼んだ。
「それだけじゃない、な」
「……何がだよ」
友人の眉が少し上げられる。シーヴはそれをじっと見た。
「お前は人の命を奪った、そのことを悩んでるんじゃない。いや、それも理由のひとつかもしれない。でも」
それだけじゃないな、と彼は繰り返した。
「俺はさあ」
エイルはまた、視線を外した。
「いつか、お前に言われたろ。厨房の仕事だの、にわか剣士だの、中途半端はやめて一本に絞れって。そんときはさ、どれもこれも続けて何が悪いのか、なんて思ったけどさ。やっぱ、無理なんだよな。俺は選んだよ。これが運命ってやつなのかな」
魔術師たることを選んだのだと、エイルはそう言ったように聞こえた。だが――やはり違和感が、ある。
「どうしてそんなことを言う」
シーヴの口からはそんな言葉が出た。
「お前は、運命なんて言葉、嫌いだろうに」
「嫌ったからって逃れられる訳じゃないからな」
気軽に、或いはそれを装って、エイルは言った。
「俺はさ、シーヴ。決めたことを後悔なんてしたくないよ」
「何を」
いったい何を決めたんだ、という問いは、しかしシーヴの口からは出なかった。聞いてはならないことのような気がした。いや、そうではない。聞いても、答えは返ってこないだろうという気がした。
よって、それを問う代わりに、彼はこう続けた。
「馬鹿を言うな。後悔なんざ、するに決まってる。ああすりゃよかった、こうすりゃよかったってな」
シーヴは鼻を鳴らした。
「俺は、日々後悔をしてる。お前もしただろうし、これからもする。当たり前だ。悔やんだって時間は戻らない。判ってても、してしまう。それは悪事か? 過去のことを悩んだって解決はしない。だから、後悔をしないとあらかじめ決めておくって?」
彼は首を振った。
「馬鹿野郎。そんなのは逃げだ。逃避だ。それで強くなったと思う、勘違いだ。欺瞞だぞ」
「欺瞞」
エイルは瞬きをして繰り返した。シーヴはうなずく。
「そうさ。エイル、俺はな。あのとき、お前の言葉に大層、傷ついた」
「……すまん」
今度はエイルが謝罪した。
「謝るな、阿呆。それで、俺は決めた。お前がぐうの音も出ないほど完璧な領主になってやるとな」
シーヴは唇を歪めた。
「だが正直なところ、失態だらけだ。或いは、総合的には巧いこと行ったようであっても、俺の決断は全員に幸せをもたらすものじゃない。必ず誰かを不幸にする、とまでは言わずとも、不満を抱かせる。それでも、俺は決めなけりゃならん。俺はそれが嫌だったんだと気づいた」
彼は肩をすくめた。
「それから同時進行で、その、何だ、ちょっとした調査も進めたが、それが何かの役に立ったのかも判らず」
「立ったよ」
エイルはシーヴの言を遮って言った。
「すごく。助かった」
「……そう、か」
隠し立てに意味はなかったか、とシーヴは思った。「アルセントとちょっと話した」というのはそれなのだろうか、あとでアルセントを問いつめないといかんな、とその主は思った。
「とにかく、俺は後悔だらけだ。本当にあれでよかったのかと悔やんでは、厳しい決断を下さざるを得なかった相手に謝罪をする。但し、心のなかでだ」
彼は首を振った。
「俺は、迷いを見せてはいけない立場にいる。だが、迷いを忘れたら、いかん。俺はランティムで正義を執行するが、俺は、正義じゃない」
そんなことを言ってから、違う、とばかりにシーヴは手を振った。
「いかんな。これじゃ俺の愚痴だ。俺が言おうとしたのはな、エイル」
シーヴは咳払いをする。
「俺がいちばん悔やんでるのは、あのあと、お前の言葉に乗せられて領主の意識に目覚める前に、大砂漠に乗り込んで、お前を怒鳴りつけてやればよかった、ということだ」
その台詞にエイルは片眉を上げた。
「ふざけるな、とでも?」
「そのようなところだ。この際だ、いま言おう。いいか、よく聞け」
シーヴは息を吸い込むと、きっとエイルを睨んだ。
「お前がランティムにこないなら、俺がそっちに行ってやる! 勝手な言い草だけ投げつけて、一方的に逃げられると思うな、馬鹿野郎!」
「……おい。領主」
「……冗談だ」
渋々とシーヴは言った。




