01 この感覚は
夏が近づくにつれ、ランティムの陽射しは、よりきつくなっていった。
この付近は「東国」のなかでは比較的穏やかと言える地域だが、それでもやはり砂漠の影響からは逃れられない。
ランティム伯爵リャカラーダの執務室には大きな窓がある。しかし、日中は陽射しを避けるために閉ざされたまま、薄布がかけられていることが多い。代わりに上部にある小さな細長い窓がほぼ全開となり、室内に風を通す。
執務の合間にアルセントの報告を訊いたシーヴは、ぎゅっと眉根を寄せたまま、黙って考え込んでいた。
商人ケミアン・クエティスの死。
〈紫檀〉では何らかの罰ということになっているようだったが、いくら闇組織であっても、かの組織には死の制裁という強いものはこれまでなかったらしい。ましてや長が信頼していた男がそのような形で失敗をあがなわされたことは偽物組織は大きく揺るがし、ダナラーンから離れる幹部も出そうだという話だった。
もしその離脱派が第二の〈紫檀〉でも作り、東国に手を出してくるようなことになれば面倒だが、「東」につてのあったクエティスのいないいま、もはやないだろうと予測できた。
そうであれば、偽物屋などはどうでもいい。
問題は、あの商人が死んだということである。
この部屋でシーヴを殺そうと企んだ男。それが死んだことを哀しんでやる義理など、彼には当然ない。だが、それは目出度い話だと言って終わらせることはできなかった。
思いがけぬその死の影には、誰かがいるのではないか?
それから、タジャスで起きたとされる出来事。
いまでは寂れた、過去の富豪の館。
かつて〈風謡いの首飾り〉が保管されていたと考えられる部屋で、若い魔術師の死体が発見されたと言う。
それが発覚したのは、魔術師協会がそこで行使された魔力の応酬を調べた結果だったが、問題はそこではない。
タジャス、首飾り、魔術師。
その関連性に、シーヴはまず「アーレイドの魔術師エイル」の生存を再び確認した。友人に何かあれば判ると言ったのははったりではなかったが、感覚だけでは自分自身を安心させられなかったのだ。
死んでいたのは無論エイルではなく、コリードと呼ばれる、サンスリーンのイーファラードという術師であったことはすぐに判明した。
シーヴはイーファーのことを知らぬままでいたが、思い出すこともあった。クエティスの出身もまた、サンスリーンであると。
そして、シーヴに術を放った中年術師――エディスンのアロダという男であることもまた判明していたが、あれは雇われだ。彼自身を死の淵に追いやった実行犯ではあるが、追い詰めることに当座意味はないと考えた――が口を滑らせた、ほかの魔術師の名。それがコリードであった。偶然とは、考えづらい。
首飾りを欲したサンスリーン出身のクエティス、それと関わっていた「コリード」。それが、首飾りと絡む土地タジャスで死んだサンスリーンの術師でないことなどあるだろうか?
加えて、ふたりの死は同日に起きている。この世で最も楽観的で考えなしの人間であっても、「偶然だ」で済ませるには勇気が要るだろう。
タジャス。首飾り。
それらに関わる魔術師がもうひとりいること、シーヴは判りすぎるくらいに判っている。
クエティス、イーファラード、それらに関わる魔術師は、それらの死にも関わっていないか?
「いったい何をやってるんだ。――あの馬鹿は」
執務官の去った部屋で、シーヴは呟く。
彼の気にかかるのは、それがあまりにもエイルらしからぬ、そのことだった。
仕掛けられれば、戦うだろう。シーヴ自身、必要だと思えば、敵対する相手の命を奪うことは躊躇うまい。だから、彼はそれを責めはしない。ただ、らしからぬと思うのだ。
同日に。ふたりを。異なる地で。
つまり、最低でも片方には自ら出向いたと考えられる。たとえば仮に、コリードと争うことになった結果だとしても、クエティスの方には自ら足を運んでいることになる。いや、クエティスの死が魔術によるという報告はない。〈紫檀〉の噂があるだけだ。しかしやはり、偶然と言うにはあまりにも。
シーヴは首を振った。
そう、それは彼が苛ついてたまらぬ日だった。
彼は気づいたのに、動こうとしなかった。アルセントに調査を任せて、ランティムに座すことを選んだ。
それは失敗であったか。いや、とランティム領主は思った。あれでよかった。間違っていない。
ただ――。
「心配だなどと言えば、文句を言うのだろうな」
何とかの娘ではないのだから、と不満そうに。
よく変わる友人の表情を思い出したシーヴは少し笑い、だがその笑いはすっと消えた。
この感覚は何だろう?
不安、それとも。
砂漠の王子の黒い瞳に強い光が宿った。
と、彼は立派な椅子を蹴倒す勢いで立上った。ぱっと後ろを振り向くと大きな窓の掛け布を音をたてて開け、慣れぬ手つきでできる最高の速度で、その開けにくい窓を開けた。ふわりと、風が部屋に吹き込む。
そうだ、と王子は思った。この感覚は――これだった。
階下に見えるのは、東国としてはそれなりに華美な、しかし西に比べると殺風景な中庭。その片隅で、「しまった、しくじった」とはっきり顔に書きながら身体を強張らせたのはほかでもない、分かれたきりの友人だった。
久しぶりだとか、どうしていたとか、そういった当たり障りのない挨拶。
それとも、何だ、二度とこないんじゃなかったのか――というような皮肉。
何をどう言おうか、などと考える前にシーヴは叫んでいた。
「――そこ! 動くな! すぐに行く!」
その言葉がエイルの耳に届いたのは明白だった。シーヴはまるで友人がラニタリスの如く鳥になって逃げるのではないかという理不尽な不安を叩き潰し、その場でエイルの様子を見守る代わりに一瞬で踵を返した。広い部屋を突っ切ると扉を開け、屋内にあるまじき全力疾走で廊下を駆けた。
このところずっと品行方正であった主の突然の奇行に使用人たちは目を丸くする。だが、シーヴは意にかけない。もしそこに執務長ヴォイドがいたとしてもシーヴは一顧だにしなかったろう。
怪我の影響やら全力で動くことは避けろなどという医師の忠告やらを全く忘れて、彼は階段を駆け下り、低い柵を飛び越え、驚くべき速さで煉瓦の敷かれた中庭に降り立った。
怪我を負う前ならばこれしきの動きで息を切らすなど考えられなかったが、おとなしく部屋で書類ばかり眺めている生活は、簡単に筋肉を衰えさせる。わずか一分に満たぬくらいの全力疾走に悲鳴を上げる足に、シーヴは内心で叱咤をした。
「エイル」
息を弾ませて、彼は友の名を呼んだ。
「逃げずに、いたな」
中庭に足を止めたままでいる西の若者に向けて、思わずそんな言葉が出た。
「逃げようと、思ったんだけどさ。……足が固まっちまった」
久しぶりに聞いた西の友人の声は、何だか弱々しかった。「逃げたりするか、馬鹿野郎」というような答えが返ってくると思っていたシーヴは、目をしばたたく。




