08 予言はせぬ
「ラニタリスもいる。賑やかさでは、お前ができて以来の日々になっておるだろうに」
「だが」
〈塔〉は反駁した。
「エイルは暗い思いを抱いている。彼はそれに潰されそうだ。私ともろくに言葉を交わさない。『ただいま』だの『行ってくる』だのと言う、これまでほとんど無意識で口にしていたような言葉さえ、発さない」
その声には、いままでエイルが、そしてオルエンすら聞いたことのない強い危惧があった。
「いまこそ、エイルにはぬしの導きが要るのではないのか」
「彼は乗り越える」
オルエンは簡単に答えた。
「私は不要だ。新たに、よい師匠もできた」
「スライ殿のことか」
「そう。彼は、エイルを在るままに導ける男だ」
「ぬしは」
「引退だ」
オルエンは鼻を鳴らす。
「本気なのか」
「何だ」
オルエンは片頬を歪めた。
「私が去ると言ったことは受け入れるようなのに、エイルの師を退くというのは納得がいかんのか」
「どうやらそのようだ」
〈塔〉は他人事、または他塔事のように言った。
「ぬしは、彼を教え導きたいと思っている。少なくとも私はそう感じるようだ」
「何と」
オルエンは肩をすくめた。
「私はそこまでお前を慧眼に作ったかな。それとも成長したか?」
そう言ってから魔術師はうなずいた。
「認めよう。術を編むコツというような当たり前のことから――身に余る力をどう制御するか。人外に近づきすぎるなという警告も、いまとなっては足りていたとも思えん。魔鳥についてのみならず、ほかの魔族や上位精霊の類まで、理の違うそれらに呑まれるなと」
彼は首を振った。
「教えるべきだったことの数々を教え損なったとも思っておる。ゼレット殿にはあのようなことを言ったが、私とて、手を引いてやりたくはあったとも」
肩をすくめて老魔術師は言った。
「だが、本気だ。もはや私は不要で、彼にはほかによい師がおり、そして彼は自分で乗り越える」
はっきり繰り返された言葉に〈塔〉はそれ以上口を挟まなかった。
「杖の残りの代金は、卒業祝いにチャラにしてやると言っておけ」
不意ににやりとして師匠は言った。
「本当に、もう行くのか」
〈塔〉は同じようなことを繰り返した。
「エイルを起こさず、何も言わずによいのか」
「お前から伝えておけ」
「彼はきっと信じぬぞ」
「では最後の命令だ。巧くやれ」
〈塔〉の造り手は笑って命じた。
「さらばだ、〈塔〉よ。お前は、我が作品のなかではいちばんの出来で、いちばん優秀な息子だぞ」
「そうか。息子か」
〈塔〉は──どうやってか──笑った。その笑いはどこか満足そうだった。
「私は今後、スラッセンにはまだ赴くこともあろう」
かつて〈砂漠の守り手〉とされた男はそう言った。
「だが、ここにはもう足を踏み入れぬ」
「その足では、か?」
少し探るような〈塔〉の声にオルエンは片眉を上げた。
「疑り深いな。それはエイルの性質か」
「かもしれぬ」
〈塔〉は重々しく答え、前の主は笑った。
「少なくとも『この足』がやってこないことだけは確かだ。そして、私がほかの身体を得ることがあるかと言えば、判らぬ。これは」
言いながらオルエンは自身の身体を指した。
「予想以上によく耐えている。だが、行ってあと一年が限界だろう。そうなれば、私はおそらく、本当に黄泉路につく」
「おそらく」
「そうだ」
〈塔〉の繰り返しにオルエンはまた笑った。
「予言はせぬ」
そうつけ加えると老魔術師はまた弟子に視線を移した。
「実際のところ、女王がどのようにエイルを使うつもりであるかは全く判らん。クラーナのときのように、戻すことを義務付けられた狂った歯車などはない。次代のリ・ガンも、その親すらまだ生まれておらんやもしれん。ならば彼女はどうしたいのか。ただ、エイルを保有したいのか? 何の、ために」
オルエンは唸った。
「防波堤、なのやもしれんな」
「それはどういう意味だ?」
「『防波堤』の意味か?」
その問い返しに〈塔〉は――どうやってか――鼻を鳴らした。
「荒波を防ぐ壁であるという意味ならば判っている。私は生憎と『海』のことは知らないが」
残念そうに〈塔〉は言い、オルエンは肩をすくめた。
「判っておるではないか。その通り。波を防ぐもの、危機から守るものだ。実際に高波がくるかどうかは問題ではなく、その備えとして必要であるもの」
そう言ってからオルエンは首を振った。
「判らぬな。人間のことですら判らぬのだ。あのような、高位精神体のことなぞ」
「〈名なき運命の女神〉」
静かに〈塔〉が口をはさんだ。
「私はその女王を知らぬ。だが、聞けば彼女はまるでそれのようだ。エイルの。そして、おぬしの」
「私の? 私は関係がない。あるとすれば――クラーナか」
オルエンはすっと考え込むようにしたが、苛ついたように手を振った。
「ええい、いまさら時間が足りぬなどと思うことになるとはな! 私に残された時間は一年、あって一年だ、そしてこのことにかかりきりにもなれん。何という負債を手にしたことか」
「全て、負うこともなかろう」
どこか気の毒そうに〈塔〉は言った。
「何故におぬしもエイルも、ひとりで全て背負おうとするものか。私に貸せる手はなく、荷を負う背もない。だが、おぬしらを見ていると、いたたまれなくなる」
「私も含まれるか」
オルエンは皮肉めいた笑みを取り戻して言った。
「そうだ」
建物は、その〈創造主〉にあっさりと答えた。
「ぬしとのつきあいは長いのだからな、ぬし流に言えば、感じ取るものがあると言うことだ」
澄ました調子で言う〈塔〉にオルエンはにやりとした。
それが、最後だった。
もう、そのあとでオルエンは何か別れの言葉を発することはしなかった。
そのまま、遙か昔に大砂漠に〈赤い砂〉を求め、石の建造物を造り上げたレンの魔術師は、印ひとつ切らず、呪ひとこと唱えずに、彼が長きを過ごした場所からそのまま姿を消した。
〈塔〉が何かを思ったとしても、建物は独り言を口にすることはしなかった。〈塔〉はやはりそのまま黙って――眠り続ける主を守った。




