05 彼を守る者は
「言うなりになるようなのも悔しいが、ほかの方法が思いつかなんだ」
「いまでは、思いついていらっしゃいますの」
「そうだったらとっくにあれを使っておる」
執務官の静かな問いにゼレットは首を振り、一段目の引出しを指した。
「例の護符とやらだ。あれであやつを呼びだして、抱きしめて、そこら中に口づけてやっとる」
「――残念ですわね」
ミレインは言った。
「そうなれば、彼は初めて、ゼレット様のキスを喜ぶかもしれませんのに」
「何」
ゼレットは片眉を上げた。
「これまでは喜んでおらんかったと? そんなはずがあるか」
口髭を歪めて前伯爵は言い、執務官は少し笑った。
「俺の選択はエイルを将来的に傷つけまいとするものだったが、俺が覚えておらぬと彼が信じたことは、いまの彼を傷つけた。それだけは心残りだが――代償は受け入れねば、ならんな」
静かにゼレットは言った。
もしエイルがゼレットの命を救う代償として、彼の片腕なり片足なりを選んでいれば、〈女王〉はかつての〈守護〉の前に存在を顕すことも、選択を迫ることもしなかったであろう。
どちらであってもエイルはつらい思いを抱えて、ゼレットの前を去ったかもしれない。
ゼレットはそれを知らず、仮に知ったとしても、こうなってよかったと考えるだろう。もちろんと言おうか、自身の肉体を案ずるのではない。エイルのためにゼレットが身体的な制約を抱えるようになれば、青年は間違いなくずっとそれを負う。それよりは、この方がよかったと。
「代償」
ミレインは繰り返した。
「お命の代償と?」
「そうだな」
ゼレットは東方に視線をやった。
「但し、俺のではない。彼のだ」
釣られるようにミレインも同じ方角に視線をやった。
大砂漠は、遠い。
「あれはな、彼を守れる存在だ」
ゼレットは視線を戻すと卓に両肘をつき、手を組んだ。
「そうでなければ俺は引かぬ。一歩、いや半歩とて」
「ゼレット様よりも、彼を支えられますの?」
「あれ」が何であれ、疑わしいとばかりにミレインは言う。
「俺にできぬ助力。『不思議な』領域。俺は何の助けにもならん」
彼は肘をついたままで片手の指をひらひらと踊らせた。
「クラーナは、俺ができぬことをエイルの師匠にはできると言った。間違いなかろう、俺は魔力の大小など見て取れぬが、あの男が経てきた道は俺の想像を越える。彼の内包する迫力を見落とせるほど、俺も鈍感ではない」
「あなたにそこまで言わせる、それも魔術師」
ミレインは首をひねった。
「少し興味深いですわね。機会あればお会いしてみたいものですわ」
「駄目だ」
ゼレットは素早く言った。
「若い美青年なんぞにお前の目が奪われては気に入らん」
「まあ」
ミレインは目を見開き、少し笑った。
「いまさら若い男に興味はございませんけれど」
「中身は爺様だとか」
「……わたくしには、そんなに特異な趣味はございません」
「うむ、そうか」
ゼレットは、ならばよいとうなずいた。
「ところが、その師匠殿にも限界がある。限界というよりは規制、禁忌というのが相応しいのかもしれんが」
ゼレットは、エイルよりも力あるオルエンが、弟子の敵を倒してやることはできないとした、あの魔術的なやり取りを思い出して言った。
「かの存在には、その禁忌がない」
ゆっくりと、彼は言った。それはまるで、彼が不確かだと嫌う、神託か何かのようであった。
「理屈や、感性は違う。だがあれは、エイルを守るつもりでいる。俺を離したがるのはそのためだ。納得したくはないが、理解は、できた」
やはり肘をついたまま、前伯爵は両手をぱっと広げ、話の終了を示した。
「あなたより、そして魔術の師匠よりもエイルを守れる存在。それがあるから、身を引かれると」
ミレインは首を振った。
「ゼレット様。ひとつだけ、申し上げておきます」
「何だ」
「その存在が何であれ、本当にあなたよりも彼を支えられるとは、私は思いませんわ」
「何故だ」
ゼレットは片眉を上げる。
「俺はもはや〈守護者〉でもないはずだ。奇態な力などはかけらも」
「だからこそ」
執務官は言った。
「魔術ではない領域で、彼を守る者は要りませんの?」
その言葉にゼレットは黙り、息を吐いて首を振った。
「俺の手が要ることがあればよいと思う。だがミレイン、それは俺の希望にすぎん。あれが、俺の手出しがエイルを危うくすると言うならば……そうなのだ。クソ、気に入らんのだぞ。これでは、不思議なものに負け、易々と屈するかのようだ」
「違いますわ」
今度はミレインが首を振った。
「引かぬと我を張ることこそ容易。あなたはいつもそうされて、私どもを困らせますが」
「何。我を張るなど」
「しています」
主に反論させ切らず、ミレインは言う。
「けれど、エイルのためにお得意の意地を返上。ゼレット様、私は以前、あなたがエイルに恋をしていると言いましたが」
「覚えておる」
「まあ、記憶力のよろしいこと。マルドやタルカスが驚きますわね」
皮肉を込められてゼレットは天を仰いだ。
「いまのあなたを見ていますと、それ以上ですわね。少し」
妬けます、と執務官は言った。前伯爵は肩をすくめる。
「ミレイン」
不意にゼレットはミレインを凝視した。
「何ですの」
「このことは、ソーンには言うな。あれは隠し事ができん」
その言葉に女性執務官は片眉を上げた。
「いまではソーン様の方が権限をお持ちですのよ。ソーン閣下に言えと命じられれば、私どもは逆らえません」
「む」
ゼレットはしまったというように眉をひそめる。
「だが俺には、散々逆らってきたではないか」
「逆らうなど。それは、臨機応変というものですわ」
女性執務官は簡単に答え、前伯爵に再び天を仰がせる。
「ソーン様がお知りになれば、きっとエイルに伝えるでしょうね」
「それをさせたくないと言っておる。よいかミレイン」
ゼレットは咳払いをした。
「言うときがくるとすれば、俺からだ」
「――判りました」
ミレインは笑んだ。ゼレットも口の端を上げる。
いつか、くるであろうか。その日は。
彼らの絆、彼らの定めが、再び彼らを結び合わせる日は。
天空の星は未来に何を示すのか。女神――〈名なき運命の女神〉、それとも〈翡翠の女神〉は何を知るのか。
それは、ひとたる身である以上、誰にも判らないことだった。
不意にぱたぱたぱた、と軽い、しかし激しい足音がした。ふたりはそれぞれの思いをそれらに破られ、音の方向へ視線をやる。
「……で、結局、これらは決まらんのか」
じっと足元を見て、ゼレットは言った。
「そのようですわね」
ミレインも同じ場所を見る。
「二匹はもらわれましたけれど、この二匹はどうにもやんちゃすぎるみたいです」
元カーディル伯爵の足もとには、互いにじゃれついて勢いよく遊び回る仔猫二匹の姿があった。黒縞のぶち模様が、どちらもよく似ている。
「こうしてカーディル城で飼い続けることにされるのでしたら、そろそろ名前を決めませんとね」
「ふむ、そうだな」
ゼレットは口髭を撫でた。
「カティーラの子だ。また何か伝承からでも取るか」
この城に住む白猫は伝説の「星の姫君」から名を取られている。猫にそのような大仰な名を付けるのはあまり一般的ではなかったが、ゼレットはそれを踏襲しようと考えたようだった。
「どうだミレイン、何か案はあるか」
「そうですわね」
女性執務官は考えるようにしたあとで軽く両手を合わせた。
「よい名がありますわ。とても伝説的な名が」
澄まして、ミレインは続ける。
「エイルとエイラ、なんていかがですの」
ゼレットは目をしばたたき、それから――久しぶりに心からの大笑いをした。




