04 選択
「何を……言っとる」
ゼレットは眉根をひそめたが、ミレインは肩をすくめるだけだ。
「おかしなことは多々ありますのよ」
まず、彼女はそう言った。
「もしあなたが本当に彼のことを忘れてしまったのなら、いったい何故、私たちが彼を知り、彼のことを思い出させようとするのか疑問に思いますでしょう。あろうことか、私たちの方が何らかの魔術にかけられているとでもご判断され、お嫌いですから魔術師協会を頼ることこそないかもしれませんが、何らかの形で調査をするとか、気に入らずとも魔除けを用意するとか、それくらいのことをされるはずですわね」
「……そのようなことも、ないが」
不自然な間ののち、ようようという調子でゼレットは言った。だがミレインは更に続ける。
「だいたい、あの大怪我の理由は何ですの、ゼレット様。気の違った魔術師が領主の館に入り込んで領主に術を振るい、そして逃げた? そんなことでもあれば、いまごろは魔術師協会と大喧嘩ですわね。協会を追及しないのは、エイルに迷惑がかかってはいけないとお考えだからでしょう」
ミレインは悠然と首を振った。
「いくらごまかそうとされても、無理です。マルドやタルカスだっておかしいことに気づいていますわ。ただ彼らは、ゼレット様のご対応が普段と異なるのは魔術が関わるらしいと踏んで、そこで考えやめてしまうようですけれど」
「意味が判らんぞ、ミレイン」
ゼレットは首を振ったが、やはりミレインは容赦なく追及する。
「エイルのことを全て忘れてしまったのでは、いろいろとゼレット様のご記憶に矛盾が生じるはずですわ。最大は〈変異〉の年のことですわね。いったいそのことにどう整理をつけているのかと尋ねようとすれば、むっつりと不機嫌になってその話題はやめろと、それだけ。クラス閣下に意地悪をしたいのでなければ、いまさらソーン閣下を引き取る理由だって弱いでしょう」
「さっぱり判らんな」
ゼレットは苛々と言った。
「あの男が魔術師だというのはそんな気がしただけだし、お前らがこぞって俺をからかっているだけならば、乗ってやるのも悔しいとそう思っただけのこと。気違い術師は、気違い術師だ。協会を弾劾したところで何にもならん。ソーンのことは、お前が子を産まぬなら後継がいると考え直しただけ。これらの回答のどこかがおかしいか」
「では、二年前のことは? 翡翠に関わる全てを閣下はどうご記憶されていらっしゃいますの? 後継は不要だと仰っていたお心が変わった理由は? 全て、はっきりと、聞かせていただきますわ」
「それは、その、何だ」
うなるゼレットにミレインは肩をすくめる。
「意外に嘘が下手ですわ。いえ、ソーン様の一件で判っておりましたけれど」
ミレインはじっとゼレットを見た。
「その割に、エイルの前では一級品の演技だったようですわね。よく、『冗談だ』と言って彼に口づけずに済ませられたものですわ」
「それは、な」
ゼレットは深く息を吐いた。
「代償、だ」
そうして彼はゆっくりとそう言った。
「代償?」
「そうだ」
彼は古びた椅子の背に寄りかかると大きく伸びをした。
「どう思う、ミレイン。死ぬほどの怪我をしたと言うのに、俺は目覚めたその日にはもう歩けた。こうして身体を伸ばそうと、やってはおらんが剣を振るおうとおそらく、俺は負傷前と変わらずに動くことができる。いくら俺の身体が若いと言っても、尋常ではないな」
「ありませんわね」
簡単に執務官は同意した。
「いつぞやよりも、目覚しい回復ぶりです。体力は衰えたと自覚されるほどでいらしたのに」
「魔術、で済ませるのは簡単だが。魔術、だけでは済まないな」
ゼレットは判りづらい言い方をした。
「そうだ。覚えておる。忘れなどするものか」
苦々しく、彼は呟いた。さもあろうとばかりに、ミレインは片眉を上げるだけだ。
「俺はな、エイルのためなら何でもしてやるとそう言った」
久しぶりにその名を口にすると、前伯爵は瓏草を持ち直した。
「何でもと言ったら何でもだぞ。命だって賭けてやる」
「その言い様はどうにも不吉ですから、少なくとも当分は避けていただけますか」
「うむ、当分だな」
判ったとゼレットはうなずいた。
「しかし、何とも悔しいことに俺の手が届かぬ場所がある」
「魔術の領域、ですか」
「その辺りだ」
執務官の指摘に前伯爵はようやく生え揃った口髭を歪めた。
「俺は深く関わりすぎているのだそうだ。関わりすぎるから、ああして命の危機を呼ぶ、と。そのような言葉でやすやすと怯む俺ではないがな、それが結果としてエイルの危機を招くと言われると、さすがに『それがどうした』とは言えん」
仏頂面でゼレットは続けた。
「つまらん、脅しだ。無論、脅されたとておとなしく震え上がりなどしてたまるものか。エイルにも、脅されたら脅し返すべきだと教え諭した」
まるでたいそう深遠なる言葉を教えたとでも言うように、ゼレットはうなずく。
「強気に出た方が勝ちだ、とも言った。もちろん本気であったし、いまでも臆病風に吹かれた訳ではない。ただ」
ゼレットはそこでまた言葉を切る。ミレインは続きを待った。
「ええい、認めたくないのだ。俺に届かぬ領域。不思議な力だと? 人を馬鹿にするのもいい加減にしろと笑い飛ばしてやりたい。だができぬ、あれはとても強い」
ゼレットは言いながらも、それを口にしたことで明らかに安堵をしていた。ミレインは黙って聞く。
「俺が関わればあやつが危うくなる。それは本意ではない。だが、俺が言えるか? よりによって『もうくるな』だの、『お前のために身を引く』などとごたくを? 俺がか?」
男は続けた。
「それ故、言ってやった。俺はあやつから離れる気などないが、足を引っ張るのも当然ご免。そうさせたいのならばいい案を出せとな」
いったいゼレットが「誰」の話をしているものか、ミレインにはちっとも判らなかった。ただ、相手がエイルの運命を操る存在だと――少なくともゼレットはそう考えていることには気づいた。
「すると、エイルのことを忘れさせてやろうなどと言いおった。そうすればエイルは俺から離れ、俺もエイルを案じることがなくなり、それがエイルにも俺にも最上だと」
ゼレットは鼻を鳴らした。
「ふざけるなと俺は一蹴した。ならばラファランについていけと脅されたが、それもお断りだと言ってやった。俺は欲しいものは何も諦めんと。それが何やら関心を引いたようだったな」
思い出すようにしながらゼレットは口髭を撫でた。
「では俺の命の代償は俺が選べと言った。そして――消えた」
それからしばらく、考える時間があった、と前伯爵は呟くように言った。
「あやつが今後も厄介で不可思議な出来事に関わり、危難に陥るとなれば、俺は必ず手を出したくなる。何もできん、だが、何かしようと思う。その結果、今回と同じようなことが起こる。俺が死にかけ、救おうとエイルが結局危機に近寄る。いや、それとも今度こそ死んで、エイルがそれを負う」
そう言うとゼレットは口を閉ざし、瓏草に火をつける。たいていにおいてミレインに一本を差し出す彼はこのとき、それを忘れたようだった。
不可思議なものを不確かだと言って嫌うゼレットが、こうしてエイルに関してだけはそれを簡単に受け入れる。西で魔術師が騎士に対して感じたように、女性執務官はそれが不思議で――それとも、当然だと感じたろうか。
エイルに関してだけは、ゼレットは無条件で受け入れ、手を差し伸べる。
彼女はそれを怖れたこともあった。いつか、主はそのために命を落とすのではないかと、そう危惧をした。それが現実となりそうだった此度、しかしゼレットは還ってきた。
だがそれは彼生来の悪運ではなく、何か不思議な力によるものだ。
少なくともゼレットはそう信じている。それはどこか奇妙な感覚であり、同時にやはり当然なのだと感じられることでもあった。
「それで、『最上』を採った、と」
ミレインはゆっくりと言った。問いと言うよりは確認だった。ゼレットはうなった。
「お前を傷つけたくないから二度と会いにくるな、などと戯けたことが口にできるものか。俺はいまでも変わらず、あやつをこの城に住まわせたいと考えておるのだぞ。俺には、言えぬ」
ゼレットは煙を吐き出して言った。ミレインにはそれが嘆息の代わりに見えた。
「――エイルを知る、俺にはな」
「欲しいものは何も諦めぬ」と〈女王〉に啖呵を切ったゼレットは、しかし選ばざるを得なかった。子供のように駄々をこねてみたところでどうにかなる相手ではないことは、あまりにも明白であったのだ。
そして、自身の望みか、エイルの安全か、その二者択一をせねばならぬのであれば、ゼレットの選択は判りきっていたと言えよう。




