07 やっぱ馬鹿だよ
とんとん、と礼儀正しく叩かれた扉に、小さな家の主は片眉を上げた。
訪問客などは少ない。わざわざやってくるのは決まり切った日の決まり切った時間にやってくる仲買人くらいのものだ。近所の友人がたまに訪れてくることもあったが、ご丁寧に戸を叩いたりはしないでずかずかと入ってくる。
二年前には時折こんな音が彼女の家の薄い扉を叩いた者だが、それをしていた旦那はいまでは南街区などにやってくる時間はない。
となると、扉の向こうにいると思われる人物は、ひとりだけだ。
「お入りよ、ザック」
アニーナは立ち上がりもしないで、息子の友人に声をかけた。キイ、と蝶番をきしませて開いた扉の向こうにいたのは、確かに町憲兵の制服を着た若者だった。
「こんにちは、アニーナ」
「はいよ、こんにちは。馬鹿息子なら、いないよ」
「そうみたいですね。誰も彼を見かけてない」
「城までくるんだから、ついでに顔出してきゃいいじゃないか? 全く、情の薄い息子もあったもんだ。悪いね、ザック」
その言い様にザック青年は苦笑した。アニーナとエイルの仲の良さは、よく知っている。この母子の威勢よいやり取りには、エイルをして「ちょっとばかり鈍い」と言わせる彼はとてもついていけずに目を白黒させるしかないのだが、場合によっては罵り合いに聞こえるやりとりがどれだけ愛情に満ちたものであるのかもまた、よく知っていた。もしかしたら、当のエイルよりも。
「どうしたんだい? 馬鹿息子がついに、あんたのお縄を頂戴するような真似をしでかしたんじゃないだろうね」
「まさか」
ザックはふるふると両手を振った。
「ただ、もしかしたらきてないかと思っただけですよ」
「しばらく、会ってないのかい」
「そうですね」
ザックは指を折って考えた。
「少し前に頼みごとをされて、それきりです」
もうひと月以上は前のことだったろうか。友が真剣な表情で、アニーナの周辺に気を配ってくれと言ってきたのは。
「馬鹿が町憲兵さんに何を頼んだのさ? 迷惑かけてないだろうね」
「ええと、何というか」
ザックは頭をかいた。
「俺、エイルってけっこう楽天的なところがあると思ってるんですよ」
「楽天的というか、馬鹿だよあれは」
母は幾度も繰り返した。
「まあ、その楽天的で馬鹿な彼が」
エイルに聞かれたら張り倒されそうだな、と思いながら長年の友人は言った。
「すごく、心配をして。俺に相談してきたんです」
「へえ?」
アニーナは片眉を上げた。エイルがザックに抱いている印象――鈍いのとろいの、何で町憲兵になれたのか判らないの――を知っている身となると、どんな状況になれば息子がこの子を頼るだろうかと思うのだ。
「あの子が、アーレイドから犯罪が消える日を願って町憲兵さんにお願いにいくとも、思わないんだけどさ」
「それは」
ザックは少し困った。
「その、アニーナ。何か変わったことは、ありませんでしたか」
問われた女は右肩をすくめた。
「毎日おんなじで変わり映えしない日々だよ。何かあるなら歓迎するくらい」
「そうじゃなくて」
やはり、青年は困る。
「物騒なことはないですか、って意味です。俺、この辺りの巡回強化を頼まれたんですよ」
その言葉にアニーナは瞬きをする。
「何でまた、そんな」
「詳しい話はしてきませんでしたけど、彼がアニーナを心配してることはよく判りました。……何かあったんですか」
「んー?」
アニーナは考えるようにした。
「思い当たることもなくはないけど。まさか、ねえ」
エイルが犬のように牙をむき出してうなっていたのは、商人クエティスに対してである。母は、息子が何を案じるのか知らない。ただ、何だかんだと言いつつ母は息子を信じていたから、息子があれだけ警戒をする男と商売をする気などはかけらもなかったのだが。
「彼があんなふうに心配するなんて、余程のことだと思ったんですよ。なのに、顔を見せてどうだったか訊いてくる様子もないなんて、どうしたのかなと思って」
「顔なら、見たけどね」
「は」
「きたよ。昨日の晩だね」
アニーナはけろりと言い、今度はザックが瞬きをした。
「そうなんだ。なら安心、かな」
「それがねえ」
アニーナは顔をしかめて言った。
「悲痛な顔してさ、事情は話せないけど遠くに行くから、しばらくこられないとか何とか」
「え? いったい、どこに。しばらくって、どれくらいです」
「知るもんかね」
母は片方の肩をすくめた。
「ただ、あれはやっぱ馬鹿だよ。何だか知らないけど、この世でいちばんの不幸を負ったみたいな顔してさ」
そんなふうにアニーナはエイルを切り捨てた。
「二年、そろそろ三年かな。馬鹿げた魔術師なんかになったんだと言ってここを離れたときと、まるでおんなじ」
「三年前」
ザックは繰り返した。
「ありましたね。彼が突然いなくなったこと。でも」
エイルの友人は笑った。
「一年としないで、戻ってきた」
「そう」
どうと言うこともないように、母は言った。
「若いうちはいくらでも悩めばいいさ。で、それに飽きたらまた帰ってくればいい。あの子はね、ザック。いまに平気なツラして帰ってくるんだから、気を使うことなんてないよ」
「だと、いいんですけど」
「そうに決まってるさ」
アニーナは鼻を鳴らした。
「何しろ、あたしとヴァンタンの子なんだからね」
エイルの母はにやっと笑い、エイルの友はそれに少し笑った。
彼らは知らない。エイルの背負ったもののこと。彼らはそれを知ることはない。
だから、彼らは笑えるものか。
それとも、知ることがあっても――やはり笑って、彼らは青年の帰還を信じるものだろうか。




