06 揃わぬ花
暦は年の瀬に向かい、季節は初夏から夏と言われるものに移っていこうとしている。
しかしながら、北方陸線にある海沿いの街は、常夏だった。
太陽は年がら年中、容赦なく強い陽射しを降らせる。住民たちには当たり前のことであるが、たとえば冬場、余所から訪れる者には奇妙なことに感じられるかもしれない。
これからの季節だけが、エディスンを「中心部辺りより少し暑いくらいだろうか」と思わせ、特殊性を失わせる時季である。
「ふうん?」
呼び出された若い近衛兵は、見覚えのない姿に首をひねった。観察するようにじろじろと見られていることに気づいてむっとしたのは、そのあとだ。
「何だよ」
仏頂面で、彼は言った。
「ふうん?」
「だから、何の用なんだよ?」
まだ少年と言っても差し支えない、幼さを残す顔立ち。時にはうんと大人びて見えることもあるけれど、こうして少し苛ついた様子を見せると、本人の希望とは裏腹に子供じみて見えた。
「ちょっと、ね。見てみようと思ったんだけど。ふうん、思ったより、普通だ」
「どういう意味……じゃねえ、どこのガキだ、お前」
ティルド・ムールは顔をしかめて見知らぬ女の子を見た。
十歳になるならずだろうか。巻き毛がかった砂色の髪と、それよりも少し濃い色の大きな瞳が印象的だ。
通常、面会客があれば兵舎にある専用の部屋へ通される。
だがここはその外だ。おとなしく待っていられなかったようだと係の兵士は言っていたが、このような子供であればさもありなん、というところだろうか。
だが少年兵が納得したのはその部分だけである。
何故、見覚えのない子供に呼び出されなければならないのか?
「魔力とか、ないんだ」
「あってたまるか。って、だから、こっちの質問にも答えろよ」
少年は言ったが、女の子は意に介さないようだ。
「ねえねえ、恋人いるの?」
「なっ、何だよ、関係ないだろが」
突然の問いに彼は目を白黒させる。
「いないんだ」
「うるせえな」
少年の脳裏にはひとりの少女の姿が浮かんでいたが、彼女はもうエディスンにはいない。一度だけローデンの計らいで会うことができたものの、神妙な雰囲気だったのは再会してわずか二分。気づけば出会ったばかりの頃からと変わらぬ応酬に終始し、そしてまた分かれただけ。
何か特別な約束など、いや、簡単な約束さえもしていない。恋人だとは、とても言えなかった。
「じゃあ、もう少し待って」
その言葉にティルドは目をしばたたいた。
「何だって?」
「あなたに似合うくらいになったら、またくるから」
「おい、何の話、してんだ」
子供の理屈だろうか。その展開についていけない、とティルドは思った。
「だって、あたし、あなたと仲良くしたいんだもの」
そこだけを聞けば、まるで、恋に憧れるませた子供の「標的」にされたかと思うところである。
だがティルドはそんなふうには思わなかった。
彼は決して悪い顔ではなかったけれど、ひと目で女の子に好かれるほどの顔立ちだなどと自惚れてはいない。だが、彼が「この女の子に惚れられたのだ」とは思わなかった理由は、それだけではない。
子供の声には、子供に似合わぬもの――打算のような色が感じられたからだ。
「何なんだ? 近衛と仲良くなって、貴族階級狙う……なんてつもりなら、あと十年くらい経ってからにしろよ」
苦虫を噛み潰したような顔で少年が言えば、子供は笑った。
「違うわよ、あなたが目当てだもん」
そういうと女の子はすっとティルドに寄った。その手が少年の胸部を撫でる。それがもし年頃の娘であれば、誘惑をされていると思うところだ。
「あのね、あたし、チカラヲエタの」
「は?」
「本当の名前、もらったから。それで、くれた人は死んじゃったから」
「何?」
いきなりの悲報に、少年は目をしばたたく。だが女の子はあっけらかんとしたものだ。
「別にその人のことはどうでもいいの。それから、セイカクナトコロを言えば、名前は三つあるの。どれも、あたし。あのね、でもね、ちゃんとあたしのために名前をくれた人にサカラウつもりなんて、ないんだよ」
「訳が判らないんだが」
ティルドは正直に言った。女の子は笑う。
「判らなくてもいいの」
不意にその口調から子供子供したところが消えた。その瞬間、ティルドはまるで、彼と同じくらいの年齢の娘が目前にいるような錯覚をしていた。
「私は彼の望みと命令には従う。けれど、それ以外のこともできるようになった。彼の前では三番目の名を持つわ。あなたの前では二番目を見せましょう。それだけのこと」
ティルドは幻を目にし、幻聴でも耳にしたのかと瞬きを繰り返すしかない。次の瞬間、子供はまた子供らしい姿と表情で、にこっと笑ったからだ。
「じゃあ、今日はもう行くね」
女の子はぱっとティルドのそばを離れた。
「きっとまた会おうね、風司さん」
「何だって? おい、お前」
そこでティルドは絶句した。
彼の目前にいた――確かにいた女の子は、次の瞬間にあとかたもなく、何も残すことなく消え去ったからだ。
いや、正確なところを言えば、子供のいたところには一羽の小鳥が現れ、ぱたぱたと羽ばたくと青空へと飛んでいった。
ティルドは確かにそれを見た。
ただ、いくら奇妙な出来事を体験してきたと言っても、女の子が鳥になって飛んでいったと結論を出すには、彼はその類の物事に慣れてはいなかった。
よって少年はただ呆然とし、投げられた言葉を反芻するしかできなかった。
(風司さん)
その呼びかけは思いがけなかった旅路を思い出させ、同時に、警戒をさせた。
何故、そのようなことを知り、彼と仲良くしたいなどと言うのか?
ティルドの知らぬ唯一の司、〈風謡いの司〉について少年が思い至ることは、しかし、なかったのである。
少年は知らぬまま。
彼の前に現れた子供の二番目の名、サラニタ。
砂の魔精霊サラニーから取られた名のこと。
サラニー、それは砂漠の伝説。美しい女の姿で男を惑わすと言う。
もちろん少年は知らない。
彼と言葉を交わすことのある砂漠の男であれば、知っているだろう。だが彼らの間でその話が出ることはない。
ティルドは、サラニタの名もラニタリスの名も、そして無論、イフルの名も、知らぬままでいる。
揃わぬ花を諦めてはならぬ。
星読みの術師の言葉はこのとき、少年の内に蘇らなかった。
残るひとつを揃えなかったと、いずれもうひとつと関わることもあろうと、そのように言われたことも。
――彼が集めた花は、白詰草と蓮華だけではないのかというような思いも、このときのティルド・ムールの内にはまだ、浮かばなかった。




