03 別れ
ヒサラ・ウェンズは、エディスン魔術師協会長が推測した通りに故郷を離れてアーレイドへとやってきた。その彼がアーレイド協会から王宮へと正式に派遣されたのは、少し前のことである。
彼は、エイルの次に事情をよく知る魔術師である。これはエイルとウェンズのことを共に知るスライ導師の判断らしかった。
ウェンズはそのことについてエイルと話をしたいと言ってきていたが、何だかんだとエイルはそれを避けていた。
それはもしかしたら、エイルがウェンズを故郷への闖入者であるように捉え、気に入っていないというようにも取れただろうか。
もっとも、ウェンズはそのような勘違いはしていないはずだ。
エイルは、クエティスとイーファーの死について、ウェンズには簡単に知らせてあった。向こうはおそらく「そのこと」も含めて話をしたいと言ってきているのだ。
だがウェンズは、エイルが他者を殺めた話などしたがらないことも予測済みに違いない。エイルはそれを都合よく逆手取り、ウェンズの要請を拒否し続けていた。有り体に言えば、無視を決め込んでいた。
悪いと思う気持ちはあるが、顔を合わせたくなかった。
それはウェンズに限らない。エイルは、スライの前にも顔を出していない。
以前からエイルを知る魔術師に相対すれば、何かを見て取られるだろう。アロダやフェルデラ、イーファーが見て取ったように。
それが、嫌だった。
彼らには、駆け出し魔術師で、少しずつ成長を――変則的ではない、真っ当な成長をしつつある青年術師、奇妙な存在の主であっても、決して彼自身が奇妙な存在ではない、なかった、エイル青年を覚えておいてほしかった。
「あの、さ」
エイルは杯の足を掴んだり放したりしながら、声を出した。レイジュの話で気になったのは、ウェンズのことだけではない。
「ウェンズがファドック様と俺の話をしてるって、言ったか」
「言ったわよ」
何かおかしいの、とレイジュは首を傾げる。
「それじゃ俺」
彼はまたそこで言葉をとめる。レイジュは少し待ったが、続かないようなので促してきた。エイルは口を開き、また閉ざしては促され、ようやく声を出す。
「ファドック様に忘れられて、ないんだ、な」
「やだ」
レイジュは顔をしかめた。
「当たり前でしょ。あの方がそんなに薄情なもんですか」
情の篤さ、薄さではない。〈翡翠の女王〉はそれを瞬時に成し遂げる。その事実があるだけだ。
もしもファドックがアロダの術に倒れ、エイルが女王を頼れば、きっと同じことが起きた。彼は選択を迫られ、選びきれずに、その罰を受ける。
「判ってるよ。……ちょっと、心配だっただけさ」
エイルは無理に口の端を上げた。
「それ」は起きなかった。だが、今後は判らない。彼が、アーレイド城に近しければ。
忘れられることを怖れて離れるというのも馬鹿げた話だ。エイルが城から去ることを決めた理由はそれだけではなく、もう二度と巻き込みたくないという気持ちが大きかったが、幾分かはその「馬鹿げた」理由もあったかもしれない。
――もう、あのような思いは、二度と。
「でも、さ」
エイルは葡萄酒の杯を卓に置くと小さく続けた。
「ほんと、ウェンズはいい奴なんだ」
「……そう。それは、いいことよね」
レイジュもまた杯を置くと、エイルを見ないで答えた。
「そうなんだ。だから、お父上にそう言ったらいい。年の離れた商人なんかより」
「エイル」
レイジュは青年の言葉を制止した。
「やめて」
エイルは、黙った。
――それからはどちらも言葉少なだった。
洗練された食後菓も若い娘の喜びを引き出すことなく、滅多に口にできぬ珈琲も青年の興味を引き立てなかった。
店内には楽団の生演奏が穏やかに流れており、沈黙は必要以上には気まずくならなかった。
その後悔は、若い恋人たちによくある「馬鹿なことを口走ってしまったけれど、うまい言い訳が探せない」というような甘苦いものとも違う。
友人から恋人へ、恋人から友人へ、或いは、もしかしたらまた恋人へ――と変遷するなかで共有するぎこちなさであれば、時が経てば消えるものだ。
そう、時が経てば。
もう、レイジュとの間にそのような時間は持てぬかもしれぬというのに、「ウェンズはいい奴だ」で分かれて、終わるのだろうか?
だがいまの彼には言えぬ。本当は、言いたいこと。「ウェンズなんか見るな」。
(ほかの誰かじゃない)
(俺を――見てくれと)
言うことはできない。彼は、去るのだから。
無言のままで支払いを済ませ、夜の街に連れ立ったとき、ふたりの間には微妙な距離があった。恋人同士はもちろん、友人同士よりも遠い。
「ここで、いいわ」
王城の裏口にほど近い路地で、レイジュはやはりエイルを見ないまま、そう言った。
「なかまで、送るよ」
「いいわよ。誰かに見られたら、また噂されるじゃない。私、ウェンズ術師とエイルを天秤にかけてるなんて思われたくないわ」
いつもならばいつもの軽口で済むそんな台詞は、取りようによってはたいそうな皮肉に聞こえた。エイルは黙る。
「今日は有難う。王宮を離れても、厨房にご飯くらい食べにいらっしゃいよ。みんなきっと、喜ぶか」
侍女は最後まで言葉を発せなかった。
うつむきがちであった彼女の顔をすいと上向かせたエイルが、恋人同士であった期間にもついぞしたことがないほど――きつく彼女を抱き締めると、激しく口づけたからだ。
レイジュはほんの数秒を戸惑ったあとで、拒否することなくそれに応じた。
エイルは恋人の感触を、香りを、みんな覚えておこうというように彼女をかき抱き、その唇をむさぼった。
熱い抱擁は続いた。
エイルはもしかしたらいつまでもそれを続けようとしたかもしれない。
その代わり、レイジュがそっと顔を背け、身を離してその終わりを告げた。
そこで青年は――とてつもなく頼りない感覚を覚える。
――切り離される。
「いったいどうしたの、エイル」
レイジュの声は、震えていた。
「どうして、こんな?」
その声には隠せぬ不安が満ちあふれていた。
「まさか、エイル。もう……戻ってこないつもりでいるんじゃ」
切り離される。
ここで応と答えたら、戻れない。もう二度と。――アーレイドのエイルには、もう、二度と。
「鋭いんだな」
だが、青年は口の端を上げて――皮肉めいた笑みを作る。
「言ったろ、本業が忙しくなる。これまでみたいに、好き勝手にやってくることはできなくなるんだ」
「でも」
レイジュは無意識の動作であったろうか、唇に手を当てた。
「くるわよね、時間、作って。もうこないなんてことは」
「ある、かもな」
呟くように彼は言った。
「エイル、何、言って」
「じゃ、な。レイジュ。シュアラとファドック様に」
ごめん――と。
「よろしく、伝えてくれ」
謝罪になど意味はない。そう考えてエイルは、実に当たり障りのない言葉を選んだ。
「――そんなの」
侍女は首を振った。
「伝えないわよ! 自分でちゃんと顔見せて、話をしにきなさいっ」
いつもであれば「ファドックと話ができる好機だ」と喜ぶはずのレイジュはこのとき、その機会をかなぐり捨てた。
その反発に、しかしエイルは何か返すことなく、そのまま娘に背を向けていた。
「エイル!」
叫んだレイジュの声は、初夏の風に巻かれ、消え去るかのようだった。
「何も! 何も聞かせてもらってないわ。あとで話すって言ったじゃない、それを――何にも!」
娘の声は虚しくアーレイドの夜に吸い込まれていった。彼女が声をかけた魔術師は、もうその言葉を聞くことなく、姿を消していたからである。
青年を引き止めようと踏み出したレイジュの一歩は、空回りをした。伸ばした手の先には、誰もいなかった。
静かに風が吹く。
夜の女神だけが、恋人たちの別れを見守っていた。




