02 言っておくけど
「エイル?」
侍女は気遣わしそうな声を出した。
「どうしたの? ここ、上品過ぎて、きついとか?」
「いや」
こっそり発せられた言葉に青年は笑った。
「んなこた、ねえよ」
そう答えるとレイジュは澄ました顔をした。
「あら、そのような言い方は品がお悪いですわ、エイル殿」
「セル、はやめろって」
わざとらしく顔をしかめて、フォークを持ったまま片手を振る。尖端からソースが散って白い卓掛けを汚した。レイジュは子供を「めっ」と叱るかのように眉根を寄せ、エイルは謝罪の仕草をした。
何と言うことのない、それは日常のよう。
「でも、そうねえ」
とろとろに煮込まれた牛の主菜がやってくると、麺麭も温かいものが配り直された。きちっとした――もしかしたらエイルの服装よりも正装めいた――お仕着せを身に着けた給仕が音もなく皿を置いていく。
これまでのエイルであればその技に感心したり、盛り付けを参考にしたり、味わっては下厨房じゃ無理だよなあと肩をすくめたりするところが、いまは「そんなふうにする自分」すら懐かしく慕わしいような、不思議な気持ちを覚えていた。
何だか、ずっと遠くから自分たちを眺めているような。それとも、覚めると知っていながら夢のなかにいるような。
「いつまでも続く仕事じゃない、か」
不意にレイジュがそんなことを言ったので、エイルは「目の覚める」思いがした。
「前にそんなふうに言ってたわよね、エイル。実は私もそう思うことがあるわ」
それは何とも意外な台詞で、エイルは目をしばたたく。
「レイジュが?」
「そうよ。侍女なんてけっこう、体力勝負なんだから。五十六十になっても続けられるかって言うと、よく考えると難しいと思うの」
それまで続ける気でいたというのも大したものだが、エイルはそうは言わず、成程ねと答えるにとどめた。
「ねえエイル」
何となく口調が改まったように聞こえ、エイルはフォークを持ち直した。
「何だよ」
「私、やっぱり、結婚するかも」
その言葉に、彼は固まる。
「……何だって?」
「ほら、カリアが病に倒れたお父上を安心させるためについに結婚して余所の町に行くことになったでしょう。それを知ってうちのお父様も、またやる気を出したって訳」
侍女仲間であるカリアが結婚を機に辞めるのだという話はエイルも聞いていた。意外であるように感じつつ、病床にある父親を安心させたいという理由は非常に彼女らしいようにも思った。
「レイジュの父君も、安心させろ、と?」
問えば、侍女は肩をすくめた。
「そう。いい加減に結婚をして孫の顔を見せろと言う訳よ。私は侍女を続けるんだと言い張ったけど、言ったように体力勝負なのよね。いつまで続けられるものか、正直、微妙だわ」
「んじゃ、諦めるのかよ、ファドック様見んの」
まずエイルはそんなふうに問うた。それは、レイジュの最重要課題であるはずだ。
「諦める訳ないでしょ」
案の定と言おうか、侍女は――しとやかな侍女らしくなく――唇を歪めた。
「だよな」
エイルは思わずうなずく。
「だからね」
言いながらレイジュはフォークを置き、卓上で両手を組んだ。
「どうしてもって言うならキド伯爵家の執務官だとか、最悪でも館に出入りする商人の息子とかじゃなきゃ嫌だって言ってたの」
成程――とも言えるが、夫の仕事場に妻が顔を出す機会などあるものだろうか? 普通はないが、レイジュならそのあたりどうとでもしそうだ、というような気もする。
「そうしたら本当に見つけてきたのよ、お父様」
「伯爵家御用達の商人の息子、か?」
胡乱そうにエイルは問うた。レイジュは首を振る。
「ううん、商人そのもの」
「……若いのか?」
「四十は越してるわね。再婚みたい」
「おいっ、そんなんでいいのかよっ」
ほとんど反射的に、エイルは卓を叩いて大声を出した。
「よくはないわよっ。でも、この件に関しては私の立場はものすごく弱い訳。何しろ、最良の話を棒に振ったんだから」
「でもありゃ、向こうの契約違反だったんだろ」
貴族の息子が王女の侍女を求めたものの、侍女を続けてよいという約束を反故にしようとした、という理由で、彼女はその良縁を振ったのである。
「そうよ。でもお父様が納得した訳じゃないの。もう、こうなったら貴族じゃなくても何でもいいから孫の顔を見せろと」
ほとんど自棄ね、などと父親を切り捨ててからその娘は迷うように手を組み直した。かと思うと、次には無意識のように玻璃杯の足を取る。釣られてエイルも葡萄酒の杯に手を伸ばした。
「……何か、噂でも聞いたみたい。昨日に至っては、魔術師でもかまわないなんて言い出したのよ」
エイルは杯の中身を吹き出しそうになった。
「それも『ただし、宮廷付き級の』と続いたの。全く、何考えてんのかしら」
そう言ってからレイジュは片眉を上げた。
「言っておくけど」
咳払いをして彼女は続ける。
「私が結婚したがってるとか、そんなふうには取らないでよね。あくまでも、あったことを話してるだけなんだから」
もしエイルがこの日、彼女への求婚を考えでもしていたら、この台詞は彼を怯ませただろう。レイジュは彼との結婚など望んでいないという意味にも、取れるからだ。
だが――青年は、寂しい安堵を覚えていた。
彼女を養う自信がないとか、「魔術師」などは認められないだろうとか、そんな理由でこれまで口にしなかった言葉は、口にすることができなくなっているのだ。ほかの事情によって。
「……ウェンズなら、いい奴だよ」
少しの間のあとに、エイルはそう言った。
「あの傷は派手だけどさ、まあ、あいつの個性だと思えば」
「ちょっと」
かちゃん、と杯が理不尽な扱いに悲鳴を上げた。
「いまのはクソ面白くもない冗談。それとも、天然で本気。どっちにしたって最悪ね」
「何がだよ」
エイルはむっとした顔をした。
「確かに傷がない方がいい顔だと思うけどな、あいつが選んでわざわざ残してるんだから、やっぱ個性」
「あのね、エイルこそ何か変な噂、聞いてる訳。意外に耳が早いのね。でもまさか信じてる訳?」
レイジュはエイルを睨みつけた。
「私は、ウェンズ術師に不必要につきまとったり絡んだりなんか、してないわよ」
「……そんな噂、あんのか」
「……知らなかったの。蜂の巣の下だったわね」
レイジュは、余計なことをして不要な面倒を招くという意味の〈蜂の巣の下で踊る〉という言葉を使った。
「そうよ、噂になったの。でもよくよく私を見てれば判るはずよ。私がウェンズ術師に話しかけるときはね、絶対にファドック様が近くにいらっしゃるときなの!」
王女の侍女は侍女らしくなく、どんと卓を叩いた。
「どうしてかウェンズ術師はファドック様とお話する機会が多いみたいだし、そうなれば自然とエイルの話にもなるでしょう。そんなとき、私は運よく入り込めるのよ」
どうだ、とばかりにレイジュは胸を張った。
「……成程」
非常に納得のいく話である。




