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風謡いの首飾り  作者: 一枝 唯
終章 vol.1/3

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01 〈夢の扉〉亭

 青年は胸元に手をやった。

 何となく息苦しい気がする。

 「きちんとした服装」など久しぶり――いや、王女殿下の使用人をやっていた頃のお仕着せを別にするなら、もしかしたら生まれて初めてであったろうか。

 魔術師の正装となれば便利なことに黒ローブであるから、そのなかでどんな格好をしていても問題ではない。なかに着ているのが簡素な作りの、襟などない、薄汚れて穴まで空いた衣服であっても、ローブはそれを隠せる。首まできっちり留め具をはめる形の、襟のついた、しわも染みもないものを身につける必要などないのだ。

 だが、中心街区(クェントル)にある雰囲気のいい高級料理店に行くのに、まさか「忌まわしい」魔術師の黒ローブもない。何とか取り繕って「きちんとした」結果だが、サイズは少々合わなかったのかもしれない。

「よく、予約取れたわね」

 普段は長めの栗色の髪を半分だけを頭の上部で留めてリボンを揺らしている侍女は、今日は姫君が夜会に出るときのようにきっちりと全体を結い上げている。きらきらと輝いて見えるのは、髪飾りの銀玉だ。

「〈夢の扉〉亭での食事なんて、こんな形の『埋め合わせ』がくるとは思わなかったわ」

 レイジュの言葉にエイルは口の端を上げた。

「これくらいしないと、おっつかないだろ」

「まあ、ね」

 当然だとばかりにレイジュはうなずいた。何しろ「ファドックのそばから離した」埋め合わせである。これでも足りないと言われても、仕方がない。

 でも、これくらいはしておきたいと思った。

 ――最後になるかも、しれないのだ。

「久しぶりよねえ、エイルとデート(ラウン)なんて」

 何と言うことのない調子で発せられた台詞に、エイルは曖昧な返答を返した。

 エイルなどは「ラウン」と言えば恋人同士か、そうなろうとしている男女か、最低でもそうなりたいと思っているふたりに使う単語だと思っている。だが女性にとって定義は広いらしく、たまたま休日の時間が合っただけの暇つぶしでもふたりきりで出かければ逢い引き(ラウン)と言い、果ては友人同士が茶を飲みながらお喋りをしただけでもそう表現することがあるらしい。

 つまり、いまの一言ではレイジュがどういう「つもり」であるのかは判らないのである。

 少し前であれば、エイルはレイジュの「つもり」を少しだけ期待し、いや、期待を裏切られれば落胆は倍増だ、と自身を戒めでもしたであろう。

 だがいまは、逆だった。彼女が「そういうつもりでなければよい」と思う。

 〈夢の扉〉亭はアーレイドで一、二位を争う人気店で、レイジュの言う通り、予約も困難である。エイルはここで初めて「王女の魔術学教師」の地位を利用し、半ば強引に予約席をひとつ増やさせた。

 連れが王女の侍女であることも告げれば、その威力は大きい。一見(いちげん)の客を一組断っても、店としては好都合だろう。

 下町の少年であった頃は、そんな〈(ディラン)と仲良くなった(クラー)〉のような真似をする人間を軽蔑した。

 いまも、その気質が完全に抜けてしまった訳ではない。

 ただ、一度だけならばと自分に目をつぶったのである。

 最後に、一度だけならばと。

 案内係に導かれて個室めいた拵えをしてある空間――実際に壁で仕切られてはいないが、重厚な掛け布が周辺の席から見えぬようにしてある――へ足を踏み入れ、百合(フオル)の飾り彫りが為された椅子に腰かけた。座る前に椅子を引いてもらう習慣などはエイルにはなかったので戸惑い、レイジュは少し笑った。

 何と言うことのない話にはじまり、食前の葡萄酒(ウィスト)をゆっくりと楽しむ。酒をあまり飲まない青年に味の違いは判らなかったが、娘はよい味だと喜んだ。

 色とりどりの前菜が運ばれ、ナイフとフォークに四苦八苦してはやはりレイジュに笑われ、面倒になってフォークだけで食事を続けた。

 まるで、日常。

 何かの記念日に奮発して、恋人を招いたかのような。

 だが、違う。そうでは、ないのだ。

「ねえ、エイル」

 白身魚の乾酪焼きが運ばれてきた頃、不意にレイジュは声を落として少し言いにくそうに声を発した。

「本当、なの?――王宮の仕事を辞めるって」

「ん」

 エイルは麺麭(ホーロ)をちぎりながら曖昧な声を出した。

 なかなか言い出せなかったそれをシュアラに告げ、王女に寂しそうな顔をさせてきたのは今日の昼前のことだ。シュアラは許可を出したくなさそうだったが、エイルが礼儀正しく謝罪をし、正規の手続きに則って辞表を出したという事実はエイルの決意を王女に知らせ、「わがままな小娘」を卒業して「責任感ある王女」となったシュアラには、それを無理に引きとめることはできなかった。

「もう、知ってるのか」

 お喋り鳥(キャルー)の伝達速度や如何に、である。

「どうにも本業が、忙しくなるんだ」

 シュアラに言ったように、エイルはレイジュにも言った。

 本業。

 「魔術師」のことであると取れるだろう。魔術師として協会の仕事に精を出すのだとでも。

 以前、エイルが城を離れたときの口実はそれだった。王女はおそらくそれを思い出し、エイルがどうしても長くアーレイドを離れなければいけないのだと理解したようだった。

 レイジュもまたそれを思い出したか、少なくとも特に突き詰めることはせず、ただ視線を落とすと、ふうん、と言った。

「驚いたわ」

 そう、続ける。

「けれど、殿下(ラナン)がご許可なさったんだから私が何か言う筋合いもないわね」

 レイジュはフォークを置いた。

「でも、たまには遊びにくるんでしょう?」

「どうかな」

 エイルは唇を歪めた。

「時間が、取れたらな」

「エイル」

 レイジュは咎めるように彼を呼んだ。

「時間なんて、作るものよ。私が優秀なる侍女をやりながら近衛隊の訓練をのぞきに行けるのは、その技術を磨いた成果なんですからね」

 内容だけを取れば、いつものレイジュによる追っかけ(・・・・)だと笑えそうだが、それだけではなかった。

 時間を作ってほしいと、彼女は言ったのだ。やってきてほしいと。

 それに気づいたエイルは面映ゆい気持ちを覚えながら、いいのだろうか、と思った。

 自分では「王女の侍女」を養えない、などと思ってその手を離した、元恋人。こうして高級な店で食事をしていても、よりが戻ったというよりはやはり友人同士のようだ。

 だが、思っても、いいだろうか。

 彼に会えなくなれば寂しいと、レイジュがそんなふうに思っていると。

 少し前ならば、青年は自惚れになりかねないそんな思考を否定し、期待はしないでおこう、と考えただろう。しかし、いまは、そう思いたかった。

 レイジュは、彼を――忘れないと。


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