14 代償
ソーンが場所を譲るように一歩を退いた。エイルは、それに呼応するように一歩を進める。
自分の足が自分のものでないような、夢のなかを歩いているような印象を覚えながら、彼は死の淵に近づいたまま眠り続けているカーディル領主に近づいた。
意識のない間もその身体を清潔に保とうと、医師の指示のもとで使用人たちが世話をしているようだ。おそらく顔周りを拭くためにいつもの髭は落とされており、血色さえよければ普段よりぐっと若く見えたことだろう。
「ゼレット様」
エイルは小さく、その名を呼んだ。声が、震えるようだ。
顔色を失った男の顔は、〈変異〉の年が終わったあとに彼が目にした状態よりも酷かった。
あのときのゼレットは回復状態にあった。いまは、まだ瀬戸際にいる。
戻ってくることは判っている。女王の力を疑いはしない。
ただ、胸が痛んだ。鼓動が早くなった。
「ごめんなさい。俺にできるのは、ここまでなんだ」
その謝罪はソーンには聞こえなかった。
その代わり、伯爵の世継ぎは見た。義父となり、実の父であると知れた男が、そのすぐあとから閉ざし続けていた茶色い瞳をゆっくりと開くのを。
「閣下!」
ソーンの声に喜びがあふれ出る。彼はぱっと寝台のもとに戻るとその脇にひざまずいた。
自身を呼ぶ声に反応し、幾たびか瞬きを繰り返したゼレットの、目の焦点がゆっくりと声のもとに合っていく。
「ソーン、か」
声は小さかったが、はっきりとしていた。ソーンは目に見えて安堵し、エイルへ、それとも神へと向けた感謝の印を何度も切る。
「閣下……ご無事で」
「――ミレインたちを呼んできます」
エイルが静かに言うと、ほかにも誰かいることにようやく気づいたように、伯爵の瞳が彼に向けられた。
「覚えておいでですか、エイルが閣下を救ってくれたんですよ」
ソーンは潤みかけた瞳を拭うようにしながら友人を振り返り、再び父に視線を戻した。
「エイ、ル」
小さな声が青年の名を繰り返した。
「ゼレット様」
不安で胸を満たされながら、エイルは返答をした。
〈女王〉はエイルが「選ぶ」のだと言ったが、最終的に「決める」のは女王である。
ゼレットが目覚めるときまでに選ぶように。そう、命じられた。彼は選ばなくてはならなかった。なのに。
その命令を果たせなかった。
だが、それでもゼレットは目覚めた。
エイルは知っている。〈女王〉は何も強欲や意地悪で見返りを要求するのではない。右の杯から左の杯に液体を移すためには、必要な力があるのだ。
ゼレットは、冥界の大河より帰りきた。つまり、その力は行使された。どこかから、何かは減ったのだ。
何かが、定まっている。既に。
――いったい何が、定まった?
「ゼレット様、どこか……おかしいとこ、ないですか。その、痛いとか」
感覚が、ないとか。
思い浮かんだことを彼は言えなかった。
不自然な沈黙が降りた。エイルは自身の鼓動が早くなり、沈黙を打ち消すかのように音を立てるのを聞いていた。
何が、定まったのと言うのか?
ゼレットはじっとエイルを見つめ、それからゆっくりと口を開いた。
静寂は破られる。その、一語で。
「――誰だ」
「……え」
「閣下?」
発せられた一語がふたりの若者に届くまで、時間がかかった。
ゼレットはいま、何と言った?
「いま……何と?」
思い浮かんだ言葉をそのままソーンが掠れる声で口にすれば、それに対応するかのように、ゼレットははっきりと言った。
「そいつは誰だ、ソーン。まさか、医師か? グウェスはどうした、俺が倒れたというのにこんな若造を寄越して放置か。あやつを伯爵家で抱えとる意味がないではないか」
「何を……仰ってるんです?」
伯爵の後継者はさっぱり判らないとばかりに首をひねって問うた。ゼレットもまた、横になったままでわずかに首を傾げる。
「医師では、ないのか? ならば、何者だ?」
「何者って……エイルですよ、閣下。まさか、目が……?」
ソーン青年はそう危惧した。もしやゼレットには、彼と友が傍らに立っている、この光景が見えていないのだろうか、と。
「馬鹿を言うな、はっきり見えとる」
不満そうにゼレットは答えた。
「お前こそ、何を言っているのだ? 俺は、エイルという男など知らんぞ」
エイルは、ぎゅっと身を硬くしたまま、それらのやり取りを聞いていた。
――では。
では、これが、代償だ。
「いいんだ、ソーン」
彼は変わらぬ静かな声で、言った。
「ミレインたちを呼んで、くるよ」
「おい、エイル」
次期カーディル伯爵は友人の肩を掴んだ。
「閣下は……何か混乱してらっしゃるんだ。お前のことが判らないはずなんて、ない」
「いいんだ」
エイルは口の形だけで笑んだ。
「気にしてないよ。感謝のキスをなんて言われないだけ、ましさ」
わざと、気軽にそう言った。ソーンの言うように、死地をさまよったために混乱をしているだけだと、そう考えているふりをした。
これが、代償だ。
〈女王〉は、ゼレットへの、言うなれば返済の督促を拒んだエイルにそれを命じ直しはしなかった。
その代価は、これだ。
不思議な巡り会わせで縁を重ねたかつての少年の記憶は、南の伯爵のなかから消えた。――そういうことだ。
翡翠の女王には、それだけの力がある。二年前、「こんなことがなかった頃に戻りたい」と言ったエイルに女王がほのめかしたのが、それだった。即ち、エイルの内から、そして関わった者たちの内からその記憶を消し、なかったことに、すること。
少年はそれに対して「忘れたいとは思わないし、忘れられるのも嫌だ」と拒絶し、女王も呑んだ。
だが、できるのだ。かの存在には。
ゼレット・カーディルはもはや「エイル」を知らぬ。
エイルの方でゼレットを覚えているのは――女王陛下の罰か、褒美か。
「俺は帰るよ」
酷い胸の痛み。手足から引いていく血の気。それに堪えながら、青年は短くそう言った。
「何だって? 待てよ」
エイルが扉にたどり着こうと足を進めれば、やはりソーンはそれを追いながら引き止める。
「少しゆっくりしていけ。閣下の意識がはっきりすれば、さっきみたいなことは口走らなかったと言い張られるに決まってるさ」
「それを気にしてるんじゃないよ」
あくまでも気軽く、エイルは笑ってさえ見せた。
「ほかにも用事があってさ。行かなくちゃ、ならない」
行かなくては。
ここから――去らなくては。
彼はそう、感じていた。
「ゼレット様が目を覚ましたんなら……あとはもう、大丈夫だし」
言って青年は戸を開けた。背後から探るような視線を感じる。それは、見も知らぬ他人を見る目。
(あとはもう、大丈夫だ)
エイルは心のうちで繰り返した。
(俺が引き受けた。つまり、ゼレット様は代償を支払わないで済んだって、ことだ)
痛い。
いい加減にしてくださいと、何度も懇願した。ゼレットが何かと彼に触れ、抱き締めようとしては、困惑するだけの言葉を囁くたび。
それはもう、二度とない。冗談混じりでも、本気でも――もう二度と、ゼレットは彼をからかわない。彼らの間の繋がりは、切れたから。
断ち切られたのだ。
それを繋げた、女王によって。
「じゃ、な。ソーン」
エイルは後ろ手で扉を閉め、まだ何か言おうとする友人を室内に残した。
もう二年以上前、雪が激しく降っていたあの日、初めてエイルを「拾って」くれたときよりも。「翡翠」「リ・ガン」という語を口にした少年に厳しい態度を取ったときよりも。ずっと不審そうに、あからさまに怪しむようにエイル青年を見やる伯爵から、逃れるために。




