08 爛れた口実でさえ
「呪術なんか知るかっ」
彼は叫んだ。
「いいか、俺がラニを呼んで、そいでそいつは俺のとこにいたんだ。いいや、いまでも変わらない!」
「吠えるがいい」
イーファーは、笑った。
「私と我が使い魔の力に倒れる前に、思う存分、な」
その言葉にかっと、なった。
我が、使い魔?
(ふざけるな)
「てめえの、もんじゃねえっ」
理など、知らない。エイルは、何も知らない。その彼にできる、ことは。
何かを考えた訳でもなかった。
ただ、青年の瞳は一瞬、真緑に燃えた。振った杖の先から目に見えぬ奔流がほとばしり出る。
駄目だ。渡さない。
「渡さない。ラニも、首飾りも」
(俺のものだ!)
それは、所有欲の薄さで首飾りの呪いから逃れた青年の、はっきりとした支配の意志だった。
目に見えぬ力の流れが、濃い緑色をしていると感じるのは、どこか奇妙なことだ。それに触れながらエイルは、イーファーが突然の力に防護の術を張ろうとするのを見た。それがしっかりと成されたことを見た。そして、それが何の役にも立たなかったことを。
そうしようと考えた訳ではない。
いや、それ以外のことなど考えていなかった、だろうか?
それをお前のものにせよ。
青年にはそのとき、全てがのろのろとして見えた。
ほかでもない、エイル自身から生まれ出でた力は、白き翡翠を飾り輪に持つ短い杖の先から一直線にそこをめがけた。
呪術師の、胸部。
力は、イーファラード・ラギータの心臓をめがけて走り、違うことなくそれを撃った。
その瞬間、イーファーは奇妙な表情を浮かべた。
もしそれが何らかの魔術であったならば、撃たれたイーファーには衝撃が与えられるはずだ。まともに受けたのだとであれ、防護壁で弾き返したのであれ、その標的には最弱でも拳ほどの球が投げつけられたような、そんな感覚が伝わるはずなのだ。
だがイーファーには何も感じられなかった。
ただ、何かが自身を通り抜けた、そのような感覚だけが男を訪れた。
そして、それが、自らをコリードと呼ばせた呪術師が感じた、最期のものだった。
ほんの一瞬。それとも、その半分。
たったいままで子供を支配しようと企んでいた術師の身体は、糸の切れた操り人形のようにぐにゃりと崩れ落ちた。
その次の瞬間には、もはやイーファーの全身、そのどこにも生命の灯火は残っていなかった。
エイルは杖を突き出した姿勢のまま、十秒以上その場に固まっていた。
何が起きたのだろう。
〈風鎌〉をクエティスに向けて放ったとき、彼には殺意があった。
だがこれは、判らなかった。
殺してやる、という強く暗い思いはあった。それは確かだ。仮に、その感情がやがて彼を苦い思いで苛むとしても、その思いがあったことは間違いない。
それでもいまのこれは、意図的に編んだ魔術とは違う。
まるで反射的に。
頬にとまった羽虫を払うように。
ただ、彼のものを守るために。
――守る。
それはこれまでに青年が覚えたものとも、違った。
庇護欲、保護欲のため、友情のため、親愛の情のため、それらのために大事なものを守りたいと思うのと、それは違ったのだ。
彼は、自分のものを他者に手渡したくないために、それを狙った相手を殺した。
復讐という爛れた口実でさえない。
エイルはそれに気づいていた。
「――エイル」
小さく発せられた声に、青年はびくりとした。ようやく、杖を下ろす。
「……ラニ」
子供は動かなくなったイーファーと、その原因となったエイルを見比べるようにしてから、じっとエイルを見上げた。
「ラニ」
これは魔物だ。子供ではない。
だが、情け容赦のない殺害を行った瞬間を目の当たりにされた、その事実が青年の声を掠れさせた。見られたく、なかったのに。
何か言おうか?
しかし何を?
殺すつもりではなかったなどと、そんな中身のない言い訳を?
ラニタリスはエイルを見、そして――ぱあっと笑った。
「有難う、エイル、助けてくれた」
違う。
青年の内に浮かんだのはその思いだった。
感謝されることではない。エイルは、ラニタリスを首飾り同様、所有物のように考えたのだ。そんなふうに考えることなど、決してないと思っていたのに。
「何で、首振るの?」
子供は無邪気に言った。
「助けてくれたんだよ。あいつに捕まったらあたし、どんなふうにリヨウされるか、わかんなかった」
「――俺だって」
エイルは喉に何かが詰まったような、気分の悪い感覚を覚えながら呟いた。
「俺だって、今後はどうするか、判んないだろ」
「そんなこと、ないよ」
ラニタリスはぱたぱたとエイルのもとに近寄ると、ぎゅっとその腰にしがみついた。
「サダメられた主だもん。あたし、ずっとエイルのとこにいるからね」
「やめろよ」
エイルはそっと子供の肩を押した。
「こんなふうにするな、こんなことされると」
安心して、しまいそうだ。
こうするべきだったのだと、これでよかったのだと、納得をしてしまいそうだ。
「エイル?」
子供の姿をした魔物は首を傾げた。
「ねえ、どうしたの? どこも怪我して、ないよね? どっか痛いの?」
どうして泣くの――と、まるで子供の顔をして、ラニタリスは言った。
エイルはそれに答えぬまま、静かに涙を流した。
かつて女が思わぬ死を迎えた部屋。
首飾りが呪いを受けた部屋。
〈ドーレンの輪っか〉が作られ、そしてほどかれた部屋。
それは、彼と彼のものを脅かす憎き敵である男が死んだ、いや彼がそれを殺した部屋ともなった。
青年はそこで、自分が越えてしまった通過点を見ていた。
滲んだ光景は、あの夢のような草原にどこか似て、エイルの胸を突いた。
強い手段に出たことを後悔しているというのではない。クエティスのときに、もう覚悟は決めていた。
ただ、越えてしまったと、思う。
彼の立場を知れば、怒って当然だと、死んだ男たちは殺されるだけのことをしたのだと、誰もが言うかもしれない。
だがそうではない。そういうことではない。
自身や親しい者の命を守るためでもなく。復讐という昏い理由すらなく。自らの利のために殺したこと。
彼は負うのだ。その死を。ランティムの若き兵士の死を負ったのと同じように。いや、それよりも大きく。
こうしなければ、今後また大事な誰かが危機に晒されただろう。逃れるにはこれしかなかった。それを言い訳とも思わない。
ただ、彼は越えた。越えてしまったのだ。越えることなどないと思っていた、その境界線を。
「エイル」
泣かないでと、子供は言った。
言われた青年は、気づかぬうちに子供を抱き締めるようにしながら、嗚咽を続けた。




