07 運命の捻れ
子供、それとも魔鳥、或いは〈風謡い〉の司には判っただろう、その術が散らされようとしていること。
その新たなる――或いは、自称主はそれに気づいたか、否か。
女の言葉も嘆きも祈りも、エイルにはもう聞こえなくなっていた。
その代わりに返ってきたもの。それは、遠い昔に悲劇が起きた、その部屋の気配。エイルとイーファーとラニタリスが足を踏みしめる、タジャスの屋敷の一室だった。
一瞬で帰ってきた色とりどりの世界に青年が戸惑ったのも、一瞬だけだった。過去の声と言葉を交わした時間が一瞬に過ぎなかったと理解したのも、やはり一瞬だけだった。
まどろみの時間は、ない。
「ラニ! それを寄越せ!」
エイルが叫んで手を伸ばすと、子供はびくりとした。
「〈惑い目〉を破ったか。なかなか上達しているようだな」
イーファーは気に入らぬというように言った。
「だが愚かだ。まだ判らぬのか、お前の支配はもはや、これの上にはないと」
呪術師は再度、子供を引く。子供は身を縮ませるばかり。
「鳴らせ。イフルよ、眠らせろ。そのあとで、私がそいつを永遠に眠らせてやろう」
「で……できないよ」
イーファーの眉がひそめられた。エイルも軽く目を見開く。
というのは――ふたりの魔術師はどちらも知っていたからだ。たとえ、「ラニタリス」がエイルに親愛を覚えようとどうだろうと、命じられた「イフル」はイーファーの言うままに首飾りを鳴らした。支配力を手にされたら、好悪にかかわらず従わざるを得ないのだ。それが彼らの理。
だから、たとえ子供がエイルを傷つけたくないと思ったとしても、イーファーが命じたことには逆らえない。そのはずだ。
「できない。あのね、変わったの。首飾りのリクツ」
「何?」
「誰かが駄目って言ったの。知らない女の人。あたしの力、押さえた。少なくとも、ここじゃできない」
その言葉が示したことは幾つかあるが、ひとつには、この部屋さえ離れればエイルに再び歌を降らせることができる、という回答を子供がしたのだ、ということがあった。子供は気遣わしげにエイルを見たが――できる、できないの線をエイルにではなくイーファーに説明した、それはひとつの事実であった。
「よかろう、私に従う気はあるという訳だ」
それに気づいたイーファーは満足そうにうなずいた。
「だが、ここ――この部屋こそが、重要。首飾りに呪いがもたらされた、間違いなくそれはこの部屋だ。お前が感じたのは、殺された女の残存思念か」
呟くように呪術師は言い、エイルは眉をひそめた。
(こいつ、知ってるのか)
(タジャスを訪れたふたりの魔術師)
(呪いをもたらした)
改めて話を思い返した青年は、そこでまたも気づかされる。
(男は、恋人を殺された衝撃で呪いをもたらしたんじゃないか、って言ったのはクラーナだな)
(あいつ、知らないはずなのに。魔力がないなんて信じらんねえ)
(もしかして)
(残るのか? 長年、女王の使者をやってた、あいつには。何か、魔力とは異なる……)
心に蘇る白い風景。エイルは首を振った。いまは、それを考えるときではない。
いまは――。
ふと、イーファーが首飾りに見入った。
「何だと?」
驚いたような声が何を示すのか、見なくてもエイルには判った。
白い合板を不吉に染めていた斑点はもう、そこにはないのだ。
理屈が変わったとラニタリスが告げたのは、それ。
「消えた? 馬鹿な!」
イーファーは声を荒げた。
「呪いの失われたこれに、何の意味がある!」
苛立だしげに呪術師は叫ぶと、美しい装身具を床に叩きつけようとした。素早く反応したのは首飾りと繋がりを密にする子供である。鳥の速度で手を伸ばし、破壊的な衝撃から首飾りを守った。
「何をした、エイル」
「さあね」
エイルは口の端を上げた。
「何にせよ、お前の気に入らないことだってんなら、俺には喜ばしいね」
少し意外に思いながらも、エイルは挑戦的に言った。
ではイーファーはこの「呪い」を求めていたのか。エイルはそう思った。首飾りの神秘性やラギータ家の繋がりなどではなく、呪術師が求めたのは呪力であったのかと。
さもありなん、と思うと同時に、それだけではないような気がした。
それだけではない。
そうだ、確か、イーファーは追っていた。トルーヴという魔術師の――。
(ああ、そうか)
エイルの内で、はめ絵が完成されたのはその瞬間だった。
(ふたりの魔術師、いや、魔術師と精霊師)
(ひとりの女と旅に出たトルーヴ、行方の知れぬ女)
(タジャスを訪れたふたりの魔術師、死んだひとり)
(首飾りを呪ったのは、〈世にも稀なる〉トルーヴだ)
死んだ女との関係がどういうものであったにせよ、トルーヴはその想いのためにラギータ家の女と結ばれることを拒んだ。
ラギータ家の首飾りを返そうとそれを探し、自身のもたらした呪いを知った。
解くこと叶わず、或いは何か目算があって、砂漠に捨てた。
そして、どうしてかラニタリスをその身に抱いた魔物ルファードが首飾りを拾い、ラスルの民を惑わし、エイルと繋がった。
(いや違う)
(その前に、もうひとつ)
(首飾りの話を持ってきたのは、オルエンだ)
トルーヴと力を競ったと言う、エイルの師匠。先ほどの声が言った、エイルからする「あの人」の気配。レンからやってきた女は――ふたりのレンの術師の間で、迷った。
アリシャス。そうだったのだ。
ふたりの男が求めた女。その命、その血がもたらした呪いが、遠く未来にオルエンの弟子と、トルーヴを追う者の間に因縁を作ったのだ。
何という、絡まり。運命の輪。――呪いの輪。
オルエンですら知らずにいた、それは時間と人智を越えた運命の捻れ。エイルは目眩を覚えそうだった。
「この場所でこの首飾りを手に入れた。何とも重畳、吉兆と思ったものを」
忌々しげにイーファーは歯ぎしりをし、エイルを現実に引き戻した。
「ここでお前に呪いの洗礼を浴びせてやるつもりでいたと言うのに、叶わぬか」
じろりと呪術師はエイルを睨みつける。
「だがこのままでは腹に据えかねる。ここよりお前を引きずり出し、それからかつての使い魔の力を見せてやろう」
「何だって?」
どうしてもラニタリスの力をエイルに使うつもりでいるのか?
どうにも、趣味が悪い。状況にも関わらず、エイルはそんなふうに思った。
「お前はこれを使い損なっていた。真の名を与えず、何とも中途半端な使い魔として。お前がやり損なっていたことが何であるか、私がよく教えてやる」
「お前に教わることなんざ、ないって言ってるだろ」
エイルは返した。イーファーは鼻を鳴らす。
「このように、イフルを奪われてもそう言うのか?」
「そいつはラニだって言ってんだろがっ!」
イフル。
砂漠の魔物が残した子供に、そう呼びかけるべきだったと知ったのは、少し前のこと。
だが、いまではあれは、ラニタリス。
そうあるべきだ。
そうでなければ――歪む。
「ラニ、もう一度言うぞ。首飾りを持って、俺のところへ戻れ」
「エイル」
子供は首飾りを握りしめた。
「あたし、そうしたい」
弱々しい声に、エイルは拳を握りしめる。
「できる! やれ、こい!」
「無駄吠えよ」
イーファーは切って捨てた。
「名の力。呪術の理。お前は知らぬままで使った。それでも、使えた。だが、知る者の前では、児戯」




