06 癒しの地の夢
このときのエイルは思い出さなかった。オルエンが語った、浮遊する魂を見つけるという手段のこと。
それは「呪いを解く方法」について話をしていたときだ。「呪いをかけた人間の魂を探す、または呼び出す」というような手段について触れられたことがあった。しかしそのやり方は巧くない、難しいという結論になった。呪いをかけた魔術師がどこの何者かも、どこで死んだかも判らなければ探しようがないからだった。
だが彼女は、違う。
では、彼女はいたのか。ずっと。
永き時間を。この部屋、彼女の命が潰え、呪いが生み出されたその場所に。
答えは最初から、このタジャスにあったのか。
彼が二度訪れ、去った土地。こうして三度目となるいま、暗い決意とともにやってきた、この場所に。
だがエイルはまだそういった考えには至らない。彼はただ、思いがけぬ邂逅に戸惑うばかりだ。
(その)
どう答えたものかと青年は迷った。すうっと頬を温かい手が触れたように思った。エイルは瞬時、身を固くした。だがすぐにそれを受け入れるように、深呼吸をして力を抜く。
『あなたは、首飾りを運んできてくれた人ね』
その事実が彼の存在を把握させたか、女は彼を認めた。
(まあ、そうなるかな)
彼は答えた。
過去の亡霊だかさまよう魂だかとのんびり話をしている時間はない、とは思わなかった。
いま彼は、現実から切り離されている。足を踏みしめるのはイーファーがラニタリスを使ってエイルを脅す部屋の床でありながら、そうではない。
『有難う。これで正せる。大地の慈愛をそうあるべき形に』
(あるべき形?)
『そう。本当は、彼が運んでくれることを望んでいた。けれど、彼はそうできなかった代わりにあなたを選んだのね』
(は?)
エイルは状況に似合わぬ頓狂な声を――と言っても、現実の声ではなかったが――を出した。
(俺は、その魔術師のことなんか知らないよ)
『そうね、彼もあなたを知らないでしょう。でも、あなたは彼が遣わした。そんなふうに感じられる』
声は言ってから、戸惑ったようだった。
『不思議ね。そう感じると同時にあなたからはあの人の気配もするように思える』
(そっちも誰だか知らないけど、やっぱ俺は知らないと思うよ)
エイルこそ戸惑いながら返した。
『知らなくてもいい。知ることばかりが答えではないわ。知ってしまったことで、持っていた答えを失うこともある。だと言うのに』
色のない、哀しみ。知らず、それはエイルをも包む。
『人は知りたいと、願うのね』
エイルはそれには答えなかった。声が達しているその境地は、青年には遙か遠い。
『長かったわ』
声は言った。
『私はここで、首飾りの正しき力と歪んだ力が顕れる日をずっと待っていた。遺された思いを全て払い、染みついた心を払う日。そうすることで私の罪と彼の罪、そしてあの人の罪が少しでも――払われますように』
(何の、話)
女と「彼ら」が何者であるのか、いったいどんな罪を犯したと言うのか。エイルには判らない。だが声は、それを語ることはしなかった。
『地平線の下で休むことを許されぬ〈南の仔馬〉。私たちの罪はそれよりも軽い? どうかしら』
女は南天で〈ひとつ星〉の周りを永遠に巡り続ける仔馬の伝説をなぞった。仔馬は犯した罪のために、休むことなく空を回らされていると言う。
『私は、安らぐことができるのかしら。いいえ、私のことはいい。彼は安らぎを得たかしら。そして、あの人は』
やはり、エイルには判らなかった。彼は、その物語絵巻のなかにいない。
『長い時間が流れたわ。とても長い』
女の声に悔恨が滲んだ。
『あの子は、どうしたのかしら』
(誰だって?)
こうなったら声の回想につき合ってやろうと――事実、現実と異層に縛られた彼にはそれしかできないが――エイルは問い返した。
『旅路の間に思い出すこともしなかった、私の、子供』
それはまたずいぶんと冷たい母親だ、と彼は思ったものの、言葉にするのは避けた。
『私はあの街の理に縛られていた』
女はそんなことを言った。
『子供は愛の証ではなく、次代の担い手に過ぎなかった。そう、教育された』
それはずいぶん気に入らない教育をする街だな、とエイルは思ったが、やはり言葉にはしなかった。
『けれど、いまは思う。あの子はいったいどんなふうに育ったのだろう。恋を知っただろうか。愛する相手と結ばれ、子を為すことがあったろうか。いまでも――その血は続いているのだろうか』
(血)
エイルは繰り返した。声の言うのは、「血脈」。だが、彼が思い出したのは、首飾りの血痕。
『そう、血。首飾りについた、あれも』
声はエイルの考えに気づいたようだった。
『あれはもつれた鎖ね。絡まり合った定めだわ。いまこそ、それをほどくとき』
女の声に力が宿った。
『流された血は戻らない。けれど、最初に流れたのは、我が肉体の血』
血の契約。
いつだったかエイルの内に浮かんだ、そんな言葉。
血の契約を解くには、流された血が必要となる場合がある。
不意に、青年の脳裏にそんな知識が浮かんだ。何かで読んだのだろうか。
呪いを解くにはかけた者に解かせるのがいちばんだとオルエンは言い、確かにそれは間違いではない。
だが、流された血は、彼女のもの。
ならば――彼女はそれを拭えるのか。
しゃらん。
何度目になるのか、音が聞こえた。
それはこれまでになく、哀しい、そして澄んだ音色に聞こえた。
初めて聞いたときに風鈴のような音だと思ったものだが、いまの音色は同じ風鈴でも極上の――それは、まるで天の鈴。
不意に、景色が変わった。
それは、エイルがこれまで見たことのない状景だった。
どこまでも続く草の海。街道はおろか、獣道のようなものすら見当たらぬ。
風が吹く。さああ、と草が揺れる。と、首飾りが鳴る。
しゃらん、しゃららん。
「帰れ」「休め」と諭し続けてきた首飾りは、謡っていた。
――帰ってきたと。もう、休んでよいのだと。
『母なる大地、女神ムーン・ルー』
女の声がした。
『どうか、癒し給え。彼の力が傷つけた大地を。どうか……赦し給え。彼と、あの人と、そして、私を』
それは、優しい歌。
エイルは、足元から伝わってきた何かに満たされるようだった。その身体中、それとも心の隅々まで。
天を目指すごとく揺れる細い草のように。深く根を張り、腕を広げる大樹のように。
深く深く――地中で生まれる、碧玉のように。
つながる。彼はそれを感じていた。
風。大地。
流れゆくもの。確固たるもの。
激しきもの。優しきもの。
うつろうもの。変わらぬもの。
それは、遠い過去に死んだ女が夢見た彼岸の風景であっただろうか。
それとも、もっとずっと遠い過去に風具を作りし精霊師が首飾りに込めた、癒しの地の夢であったろうか?
つながる。――判る。あと、少し。
もう少しだけその感覚にたゆたえば、青年は「それだ」と叫んだかもしれなかった。
だがあとほんの数ファインのところで、掴みかけたものは青年の指先をすべりゆく。それはまるで悪戯好きの妖精のよう。差し伸べた手をひゅっと引っ込め、それを取ろうとしていた青年が困惑するのを見て、楽しそうに笑う。
笑っている。
誰が。それとも、何が。
アリシャスという感覚は、エイルの横をすり抜けた。
彼をからかうように。
誰が? それとも、何が?
ただその瞬間、ラ・ムール河の岸辺もかくやというような、静謐で穏やか、夢のようなその光景は煙のように消え去っていった。
やめてくれ、と彼は思う。
もっと、ここにいさせてくれと。
だが、知っていた。ここがどこであろうと、彼にはまだここに安らう権利はない。いつかたどり着くことが、あるとしても。
過去の絵は消えた。
幻のような草原も。
彼の前に残る見えぬ世界は、真白き宮殿に、似た。
のろのろと手が動く。
たとえ〈魔除け〉として作られずとも、それは彼の力を引き出す、純度高き、真白き翡翠。
エイルは、霧を払うように、両手を振った。




